風が、、、
隣のインドカレー屋から、新鮮なスパイスの香りを運んできた。
こう書くと、なんだか少しかっこいい気がする。
異国の香りに包まれながら目を覚ます朝。
そんな感じだ。
だが、毎日となると話は違う。
朝からスパイス。
昼もスパイス。
夜もスパイス。
窓を開ければスパイス。
洗濯物を干せば、なんとなくスパイス。
最初のうちは迷惑だと思っていた。
なんで俺が毎日、他人のカレーの匂いを嗅がなきゃならないんだ。
ところが、人間というものは恐ろしい。
慣れる。
そして、もっと恐ろしいことに。
腹が減る。
ある日の昼休み。
俺はとうとう隣の店の扉を開けた。
ずっと嗅がされ続けてきた匂いの正体を、一度くらい食ってやろうと思ったのだ。
美味かった。
腹が立つほど美味かった。
次の日も行った。
その次の日も行った。
三日空けたら、店の前を通った時に自分の足が止まった。
仕方ない。
食べた。
それからだった。
クミンを覚えた。
コリアンダーを覚えた。
カルダモンを覚えた。
ターメリックくらいなら俺だって最初から知っている。
問題は、その先だった。
フェヌグリークだとか、クローブだとか、カレーリーフだとか。
聞かれてもいないのに、人に話すようになった。
会社の昼休み。
同僚がコンビニのカレーを食べていた。
「それ、もう少しクミンが効いてたらな」
俺は何気なく言った。
「なんでそんなこと分かるんですか?」
「いや、分かるだろ」
分からないらしい。
俺も半年前なら分からなかった。
休日にはスパイスを買うようになった。
最初は三種類だった。
気がつけば台所の棚一段がスパイスになっていた。
カレーを作った。
美味かった。
店で食べた方が美味かった。
悔しいのでまた作った。
失敗した。
また作った。
そんなことを繰り返しているうちに、隣の店の店主とも仲良くなった。
インドのことも色々聞いた。
食べ物のこと。
家族のこと。
言葉のこと。
習慣のこと。
食事に右手を使う習慣や、左手を避ける場面があることも知った。
理由を聞きながら、俺は妙なところで感心した。
「水で洗う文化って、辛いものを食べた翌日には優しいよな……」
俺は会社でその発見を熱弁した。
みんな黙っていた。
翌日から、昼休みにカレーを食べている時だけ、なぜか誰も俺の隣に座らなくなった。
ある日、給湯室へ行こうとして、廊下の向こうから同僚たちの話し声が聞こえた。
「ナマステ、今日いる?」
「いるよ」
「じゃあ昼カレーだな」
俺は足を止めた。
ナマステ?
誰だ?
新しいインド人でも入ったのか。
数日後。
後輩が俺を見つけて、遠くから別の社員に声をかけた。
「あ、ナマステ来ましたよ」
俺だった。
「俺、ナマステって呼ばれてるの?」
後輩は目を逸らした。
「……一部では」
一部ってどこだ。
後で調べたら、ほぼ全員だった。
失礼な話だ。
俺は生まれも育ちも日本だ。
日本国籍だ。
日本語しか話せない。
その日の昼もカレーを食った。
ある晩。
隣の店でいつものカレーを食べながら、店主から故郷の写真を見せてもらった。
知らない街。
知らない人。
知らない料理。
写真なのに、なぜか暑そうだった。
行ってみたい。
ふと思った。
一度そう思ってしまうと、もう駄目だった。
長期休暇を取った。
航空券を買った。
インドへ行くことにした。
会社で報告すると、
「ナマステ、里帰りするってよ」
と言われた。
「里帰りじゃねえよ」
送別会まで開かれた。
まだ帰ってくる。
出発の日。
大きな荷物を持って家を出た。
隣のカレー屋の前を通る。
風が、、、
あの日と同じように、スパイスの香りを運んできた。
立ち止まった。
半年前なら、またかよと思っていた匂いだ。
俺は鼻から大きく息を吸った。
いい匂いだった。
たったこれだけの匂いに、ずいぶん遠くまで連れてこられたものだ。
これから俺は、その匂いの向こう側へ行く。
少し楽しみで。
少し怖い。
駅へ向かって歩きながら、俺はポツリと呟いた。
「……この旅行に行ったら、俺は日本に帰ってくることができるのだろうか?」
風が、、、
俺の背中を押した。