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近況ノート連載企画第2話 風の彼方 ナマステ

風が、、、

隣のインドカレー屋から、新鮮なスパイスの香りを運んできた。

こう書くと、なんだか少しかっこいい気がする。
異国の香りに包まれながら目を覚ます朝。
そんな感じだ。

だが、毎日となると話は違う。

朝からスパイス。
昼もスパイス。
夜もスパイス。

窓を開ければスパイス。
洗濯物を干せば、なんとなくスパイス。

最初のうちは迷惑だと思っていた。
なんで俺が毎日、他人のカレーの匂いを嗅がなきゃならないんだ。

ところが、人間というものは恐ろしい。
慣れる。

そして、もっと恐ろしいことに。

腹が減る。

ある日の昼休み。
俺はとうとう隣の店の扉を開けた。

ずっと嗅がされ続けてきた匂いの正体を、一度くらい食ってやろうと思ったのだ。

美味かった。
腹が立つほど美味かった。

次の日も行った。
その次の日も行った。

三日空けたら、店の前を通った時に自分の足が止まった。

仕方ない。
食べた。

それからだった。

クミンを覚えた。
コリアンダーを覚えた。
カルダモンを覚えた。

ターメリックくらいなら俺だって最初から知っている。
問題は、その先だった。

フェヌグリークだとか、クローブだとか、カレーリーフだとか。
聞かれてもいないのに、人に話すようになった。

会社の昼休み。
同僚がコンビニのカレーを食べていた。

「それ、もう少しクミンが効いてたらな」

俺は何気なく言った。

「なんでそんなこと分かるんですか?」

「いや、分かるだろ」

分からないらしい。
俺も半年前なら分からなかった。

休日にはスパイスを買うようになった。
最初は三種類だった。

気がつけば台所の棚一段がスパイスになっていた。

カレーを作った。
美味かった。

店で食べた方が美味かった。

悔しいのでまた作った。
失敗した。
また作った。

そんなことを繰り返しているうちに、隣の店の店主とも仲良くなった。

インドのことも色々聞いた。
食べ物のこと。
家族のこと。
言葉のこと。
習慣のこと。

食事に右手を使う習慣や、左手を避ける場面があることも知った。
理由を聞きながら、俺は妙なところで感心した。

「水で洗う文化って、辛いものを食べた翌日には優しいよな……」

俺は会社でその発見を熱弁した。

みんな黙っていた。

翌日から、昼休みにカレーを食べている時だけ、なぜか誰も俺の隣に座らなくなった。

ある日、給湯室へ行こうとして、廊下の向こうから同僚たちの話し声が聞こえた。

「ナマステ、今日いる?」

「いるよ」

「じゃあ昼カレーだな」

俺は足を止めた。

ナマステ?

誰だ?
新しいインド人でも入ったのか。

数日後。

後輩が俺を見つけて、遠くから別の社員に声をかけた。

「あ、ナマステ来ましたよ」

俺だった。

「俺、ナマステって呼ばれてるの?」

後輩は目を逸らした。

「……一部では」

一部ってどこだ。

後で調べたら、ほぼ全員だった。

失礼な話だ。
俺は生まれも育ちも日本だ。
日本国籍だ。
日本語しか話せない。

その日の昼もカレーを食った。

ある晩。
隣の店でいつものカレーを食べながら、店主から故郷の写真を見せてもらった。

知らない街。
知らない人。
知らない料理。

写真なのに、なぜか暑そうだった。

行ってみたい。

ふと思った。

一度そう思ってしまうと、もう駄目だった。

長期休暇を取った。
航空券を買った。

インドへ行くことにした。

会社で報告すると、

「ナマステ、里帰りするってよ」

と言われた。

「里帰りじゃねえよ」

送別会まで開かれた。

まだ帰ってくる。

出発の日。
大きな荷物を持って家を出た。

隣のカレー屋の前を通る。

風が、、、

あの日と同じように、スパイスの香りを運んできた。

立ち止まった。

半年前なら、またかよと思っていた匂いだ。

俺は鼻から大きく息を吸った。

いい匂いだった。

たったこれだけの匂いに、ずいぶん遠くまで連れてこられたものだ。

これから俺は、その匂いの向こう側へ行く。

少し楽しみで。
少し怖い。

駅へ向かって歩きながら、俺はポツリと呟いた。

「……この旅行に行ったら、俺は日本に帰ってくることができるのだろうか?」

風が、、、

俺の背中を押した。

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