これ全部ちゃうねん。
エンタメは物語を消費して楽しませたり悲しませたりするねん。
文芸は物語に生きる人々を消費して楽しませたり悲しませたりするねん。
純文学は人を消費して楽しませたり悲しませたりするねん。
走れメロスは文芸で、白夜を旅する人々は純文学やねん。ほなら、思うやんな。
なにをいうんとるんよ? と。
あんな、文芸と純文学は似とる。自作で例えよか。あても言語化完璧やない領域やけどな、自他境界とか流用して他人は他人により決められんねん、やなくてな。
もっと本質、根本やな。例えばあてが書いた『宿借り』を例にするとやな。
サヤの死、ギャルとの出会い、別れ。そのプロットを楽しませんのがエンタメや。
で、そのプロットを生きた人で楽しませとるのが文芸や。苦悩や葛藤なり、喜びも含めてや。
ほんで純文学は『サヤの死=悲劇=物語』を経た『人』や。
違わんやんけ、おもたろ、君。せや、文芸と純文学は紙一重でな。
あてはあれを『和也の生きた現実』として書いとる。文芸はそこんところがちょいちごーて、物語のエンジンがもっと混ざるもんやねん。
よーわからへんやろけど、もっと踏み込むとな。
『和也からみた物語』か『和也の生』か、みたいな絶妙な違いやねん。あてもニュアンスに近いもんやけど、これがちゃうねん。
文芸と純文学は別物やねん。そりゃ描写する事から逃げるな、はあるさかい色々定義して区別は付けられるかも知れんけど。
本質、源流がちゃうねん。これほんま言語化ずっとできへんねん。あても調べたし、言語学も頭に叩き込んどる。日本語の『ん』は五種類の発音があるとか、発声、子音や母音の話にも頭を突っ込んだし。
漫画の技術も、心理学も、或いは社会構造やビジネス、なんでも頭を突っ込んで学ばせてもろとる。
けど、言語化し切れへん。今、あてが納得してるんはこれや。これ以上のやつはでぇへんし、異論や反論が多くなるさかい困っとる。
どの定義も言い表せてない、けど、やっぱ差異があるって感覚、ニュアンスが言うとる。最早理論的な意見やないけどな。
あんさんらはどうや?
それと、今日からリライト教室受付予約開始でーす。改めて近況あげますけど、参加したい方はどうぞ。同じ作者、作品でも構いません。
気楽にね。
作品の話をして、向上して、成長したい人は大歓迎です。
反応する壁にしたいだけなら、私に近付くんじゃあないッッッ!(ジョジョ風)
私は講評者じゃあねえのさッッ!