第12話 虚無の勝利

 1940年5月26日、午後。

 二日間の停止命令が解除され、「迅速にダンケルクに突入せよ」の命令のもとに、狂ったように再進撃を開始した第一戦車連隊は、軋む無限軌道を唸らせ、兵士たちを乗せてフランス北部の海岸線へと殺到した。

 砲声はすでに聞こえない。空には黒煙がたなびくのみだ。

 ダンケルクの街を迂回し、連合軍の最終防衛線を突破した101号車が、砂丘の頂に達したその時、シュミット少尉はハッチから上半身を乗り出し、眼下に広がる光景を視界に収めた。


 それは、彼らが二日前に想像していた「追い立てられた敵がひしめく地獄」とは似ても似つかない、無言の光景であった。


 北の果てまで見渡せる砂浜には、敵兵の姿などどこにもない。

 代わりにあったのは、数えきれないほどの鉄の残骸だ。

 破壊されたイギリス軍のトラックが横転し、炎上した対戦車砲は黒い骨格を晒している。

 砲塔を吹き飛ばされたフランス軍のソミュアS35が泥に埋もれ、無数の自動小銃やヘルメットが波打ち際に散乱していた。

 潮風が運んでくるのは、硝煙の匂いではなく、腐敗した海藻と、微かな血の匂いだけだ。

 

「……敵は、どこだ」

 カスパルが、緊張の糸が切れたように呆然と呟いた。

 彼の目には、昨日まで銃火を交わしたはずの敵兵の幻影が焼き付いていたのだろう。


 シュミットは、その光景を冷徹な目で見下ろしていた。

 彼らが計算し尽くし、一瞬で屠殺するはずだった「敵」は、もう存在しない。

 そこにあるのは、人類が自らの手で生み出し、そして捨て去った文明の瓦礫ばかりだ。

 砂浜に転がる一足の子供用の革靴が、シュミットの視線を捉えた。

 泥にまみれ、片方だけが打ち捨てられたその小さな靴は、名も無いイギリス兵の娘のものだったかもしれない。

 あるいは、別の誰かの大切な家族の痕跡だったかもしれない。

 彼はそれを拾い上げることもなく、ただ冷ややかに見下ろした。


「……計算通りだ……敵はいない」

 シュミットの声は、風の音にかき消されそうなほど静かだった。

「いるのは、歴史が通り過ぎた後のゴミだけだ」


 彼の背後から、ヴァルテンベルク大佐が駆けてくる。

 その貴族的な顔には、疲労の色と、そして憤りが混じり合っていた。

「少尉、これは……これは一体……!」

 大佐は眼下の砂浜を見下ろし、絶句した。

 

 彼らの部隊が先鋒として海岸線へ到達した時、沖合の水平線には、鉛色の空に吸い込まれるように遠ざかっていく、無数の船影が小さく点在していた。

 それは、取り逃がした敵の亡霊だ。

 二日間の遅延。

 ベルリンの気まぐれな「忖度」と、老将の「保身」という、たった二つの愚かな変数がもたらした、取り返しのつかない結果。

 彼らは、まさしく「四十八時間の地獄」の代償を、この空虚な海を前にして突きつけられていたのだ。


「馬鹿な……! あの愚かな停止命令が、これほどの代償を支払わせたというのか……!」

 ヴァルテンベルク大佐は、怒りとも悲嘆ともつかぬ声を絞り出し、膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪えた。

 彼の誇るプロイセンの貴族精神は、この「名誉なき勝利」を前にして、完全に打ち砕かれていた。


 しかし、シュミットの表情に、怒りや悲しみはなかった。

 彼の青い瞳は、ただ冷徹な光を宿したまま、遠ざかる船影と、散乱する瓦礫を見つめている。


「……大佐殿。計算の通りです。重装備を遺棄し、逃げ惑っていた数万の敵兵……。数字がいかに大きかろうと、空軍と戦車師団で圧迫すれば即座に崩壊したはずの彼らは、今やイギリス本土への逃走を完了しました。我々が追い求めていた『勝利』とは、一体何だったのでしょう。私が危惧するのは、この海を渡った者たちが抱く『怨念』です。彼らは将来、我々にとって取り返しのつかない禍根となるのではないか……そう思えてなりません」


 彼の指先が、冷え切った愛機の砲塔を慈しむように撫でる。

「少尉……私も、同意見だ」

 その言葉には、もはや上層部や総統への敬意も、かつての情熱も宿っていなかった。

 彼らはかつて、国家という大義のために命を捧げる軍人であった。

 しかし、その頂点たる総統への忠誠心は、今この瞬間、確かな音を立てて瓦解しつつあった。


 政治はこの光景を「連合軍の撤退成功」ではなく、「輝かしいダンケルク包囲作戦の成功」としてプロパガンダに利用するだろう。

 だが、その勝利がどれほど空虚なものであるか。

 そして、その勝利がどれほどの未来の代償をはらむか。

 歴史の分岐点が大きな音を立てて動いた瞬間であった。


 1940年5月28日、午後。第19装甲軍団。

 III号戦車を改造した指揮戦車で前線へと駆けつけたグーデリアンが目にしたのは、凱旋の光景ではなかった。

 彼の手元には、前線部隊から上がってきたばかりの報告書がある。

 そこには、海岸線に残された無数の破壊された装備品と、沖合の水平線に消えゆくイギリス軍の船団の記録が記されていた。


 沈黙が支配する司令部。

 グーデリアンは地図から顔を上げず、震える手でタバコに火をつけた。


「……終わったか」


 その声は、怒りよりも先に、深い倦怠感と絶望に満ちていた。


「敵は逃げた。我々が二日間、砂丘の影で無為にエンジンを空吹かししている間に、やつらはその牙を研ぎ直すために海を渡ったのだ」


 参謀長のネーリング大佐は、報告書を読み終えたグーデリアンの背後で、ただ黙って直立不動を貫くことしかできなかった。

 将軍の背中から放たれるのは、戦場を支配する者の覇気ではなく、歴史的な失策を噛み締める者の重苦しい静寂だった。


「将軍、……撤退を阻止できなかった責任を、上層部はどこに求めるつもりでしょうか」


 ネーリングの問いかけに、グーデリアンはゆっくりと振り返った。

 彼の顔には、数日間の激務と、隠しようのない憤怒が刻み込まれていた。


「責任? 笑わせるな」


 グーデリアンは机の上に地図を広げ、ダンケルクの海岸線を爪で強く引き裂くようになぞった。


「やつらはこれを『歴史的な勝利』と称するだろう。だが、我々は歴史に対して支払わねばならない代償を、たった今確定させてしまったのだ。この海を渡りきった英軍は、必ずや数年後に倍の数となって戻ってくる。そのとき、我々は今回のような勝利を収められるとは限らない」


 彼は司令部の窓から遠くの水平線を睨みつけた。

 煙る空の彼方、すでに敵影は消え失せている。



「……大佐。現場の兵士たちは、この停止命令がいかに愚かなものか、誰よりも肌で感じているはずだ。私は戦車兵たちに、なんと説明すればいい? 『総統の機嫌を損ねぬよう、我々はここで立ち止まっていたのだ』とでも言えというのか」


「それは……」


「わかっている。口に出せば軍法会議ものだ」


 グーデリアンは冷たく言い放ち、再び戦況図へと目を落とした。

 もはやそこには、彼が愛した『電撃戦』の疾走感などない。

 ただ、無能な指導者たちが招いた歴史の残滓が、無残な残骸となってそこに横たわっているだけだった。



「全ユニットに伝えろ。追撃は無意味だ。……我々はこれより、虚無の勝利を抱えて、この焼け野原を維持するのみだ」


 彼は深く溜息をつき、手にしたタバコをダンケルクの海岸に投げ捨てた。

 その視線は、もはや地図上の戦術目標ではなく、彼らドイツ軍がこれから歩むことになる、より長く、より過酷な道のりを見据えていた。


「これが電撃戦の終わりか。いや……まだパリが残っている……」


 

 

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