第11話 忖度
翌日。
1940年5月23日、深夜。
ダンケルクを目前に控えたフランス北部、ベルグ近郊。
第一戦車連隊の仮設陣地には、鋼鉄の獣たちが飢えた獲物を待つような沈黙の中で身を潜めていた。
シュミット少尉は101号車のハッチから上半身を出し、凍てつくような夜空を見上げている。
その視線の先、北西の地平線の彼方には、英仏連合軍が構築した最後の防衛線が広がっていた。
あとわずか数キロ。
この距離を埋めれば、彼らは敵の心臓部に鋼鉄の楔を打ち込める。
「少尉、全車整備完了です」
戦車長ハッチから顔を出したカスパルが、緊張で引きつった顔で報告した。
あとは、『攻撃命令』待つだけであった。
これこそは『歴史の鍵』であり、異なる歴史に繋がる扉である事は誰も知る由は無い。
A軍集団司令官、ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥は、戦術地図の上に置かれた自身の震える指先を見つめていた。
彼の視線の先には、ダンケルクの海岸線へ向けて驚異的な速度で突き進むグーデリアンの装甲部隊がある。
普通なら勝利を確信すべき場面だ。
だが、このプロイセンの老将が抱いているのは、歓喜ではなく「底知れぬ恐怖」であった。
「……一体、どれほどの敵が潜んでいると思っているのだ」
ルントシュテットは、絞り出すような声で傍らの参謀に漏らした。
「敵は英仏連合軍の生き残りだぞ。数十万という軍勢が、あの狭い海岸線にひしめいている。これを装甲部隊だけで踏み潰そうというのか? 泥濘に足を取られ、反撃を受ければ、我が軍の誇る戦車師団は全滅するに違いない。そうなれば……」
彼の言葉が途切れる。
その脳裏に浮かんでいるのはドイツの勝利ではなく、自身の完璧なキャリアに刻まれる「敗北」の二文字であった。
「わしの輝かしい経歴に泥を塗るわけにはいかん。グーデリアンのような若造の蛮勇に、国家の、いや、わしの名誉を賭けることはできんのだ」
彼は震える手で、進撃停止の命令書に署名した。
軍事的な合理性ではなく、ただ「負けたくない」という老いさらばばえた自尊心が、鋼鉄の進撃を止める決断を下させたのである。
一方、総統大本営。
秘書官であるマルティン・ボルマンは、静まり返った総統の寝室の外で、届けられたルントシュテットからの「停止提案」の電文を眺めていた。 ボルマンという男にとって、軍事的な勝敗など二の次であった。
彼が何よりも優先すべきは「総統の不機嫌を回避し、自らの権力を盤石にすること」のみである。
「閣下は、ようやくお休みになられたばかりだ……」
ボルマンは冷ややかな目で電文を見つめる。 今、この電文を持って寝室に押し入り、「ルントシュテットが進撃を止めたがっています」などと報告すれば、総統は激昂し、ボルマンの安眠も、そして穏やかな朝のひとときも奪われるだろう。
「ルントシュテットは停止を望んでいる。閣下も、以前から装甲部隊の突出を危惧されていたはずだ。ならば……」
ボルマンは不敵な笑みを浮かべ、手元の公文書にペンを走らせた。
彼は総統に確認することなく、独断で「ルントシュテットの停止命令を総統が追認した」という文言を書き加えたのである。
軍事に疎い彼にとって、それが戦場にどれほどの混乱を招くかなど想像もつかない。
いや、想像する必要すらなかったのだ。
ボルマンは、眠っている主(あるじ)の代わりにサインをした上で公印を押し、それをOKW(ドイツ国防軍最高司令部)へ送らせた。
閣下が目覚めたとき、事態が平穏に収まっていればそれでいい。
ただそれだけの理由で、彼は歴史の分岐点を捻じ曲げた。
そしてこの書類は、「ルントシュテットの停止命令」と化してグーデリアンの手元に届けられていた。
前線でこの「偽りの命令」を受け取ったグーデリアン中将は、受話器を叩きつけるように置いた。
その顔は怒りと、そして深い絶望で土色に変わっている。
「なんと愚かな……! ベルリンの連中は、地図上の敵の数だけを見ているのか!」
彼は傍らに立つヴァルテンベルク大佐に向かって、激しく詰め寄った。
「見ろ、この報告を! 敵は重装備をすべて捨て、命からがら逃げ惑っている敗残兵の群れだ! 陣形も保てず、ただ早く海へ逃げたい一心でひしめいている連中に、どれほどの脅威があると言うのだ! あそこは軍隊の陣地ではない、ただの屠殺場だぞ!」
グーデリアンは戦術地図を拳で叩いた。
「今、この瞬間に踏み潰さねば、この敵は海を渡り、イギリスで再び牙を研ぐだろう。そうなれば、将来恐ろしいことになる。この失策は、ドイツ崩壊の始まりにすらなりかねんのだ!」
彼は足元でひしゃげた鉛筆を拾い上げることなく、遠くダンケルクの空を見つめる。
「勝利を目前にして、『停止』だと……独断専行するわけにはいかんが……これは、『絶望の始まり』ではないのか?」
グーデリアンの瞳には、かつてないほどの暗い光が宿っていた。
整備キャンプ。
101号車の前で、シュミット少尉は泥の中に落ちた一本の鉛筆を見つめていた。
大佐から伝えられた命令の矛盾。グーデリアンの憤り。
それらすべてを「定数」として脳内に取り込んだ結果、導き出される答えは一つしかなかった。
「……大佐殿。これは、絶望の始まりになるかもしれません」
先ほど交わしたフォン・ヴァルテンベルク大佐との会話での、シュミットの声は幽霊のように冷たく響いた。
「ルントシュテット元帥の臆病、そして現場を知らぬベルリンの官僚主義。それら不純な思惑が混じり合い、『停止命令』という怪物を産み落としたのです」
彼が憤るOKWは、実際にはこの停止について「戦術的に不適切である」と内部で激論を交わしていた。
しかし、総統の威光という名の下で最終的に追認されたその判断を、前線の少尉が知る由もない。
1940年5月26日、ベルリン、総統官邸。
豪華絢爛な大広間の静寂を、一枚の紙を叩きつける鋭い音が切り裂いた。
アドルフ・ヒトラーの顔は、怒りで土色から猛烈な赤へと変貌していた。
その手にあるのは、第一装甲軍団司令官ハインツ・グーデリアンから「直接」届けられた緊急電文である。
それまで、前線の悲鳴とも言える数々の嘆願書は、すべてマルティン・ボルマンという名の「巨大なフィルター」によって握りつぶされてきたのだ。
「『停止の解除と再進撃命令を求む』……だと!?……どういうことだ! なぜ、奴らは停止している? 私は一度も、進撃を止めろなどと言った覚えはないぞ!」
ヒトラーの声が、震えながら広間に響き渡る。
彼は地図を凝視し、逃げ惑う連合軍がひしめくダンケルクの海岸線を指先で激しく突いた。
「逃げ惑い、重装備を捨て、背中を晒している敵軍……。今こそ、一気に蹂躙して戦争を終わらせる絶好の好機ではなかったのか! 誰だ……誰が、進撃を止めるという、この世で最も愚かな判断を下した!」
背後で直立不動の姿勢を取っていたマルティン・ボルマンの背中に、冷たい汗が伝った。
彼はいつものように無表情を装っていたが、その指先はわずかに震えている。
「マルティン! 説明しろ! どういうことだ!」
ヒトラーが猛然と振り返った。その瞳には、狂気にも似た怒りの炎が宿っている。
「はっ……。ルントシュテット元帥が、装甲部隊の消耗と、ダンケルク周辺の湿地帯による戦車の損傷を深く危惧されておりました。閣下が以前、側面からの反撃を懸念されていたため、その御意志を汲み……」
「馬鹿者が! 私の懸念は進撃の速度を緩めろという意味ではない! 戦勝を確実にしろと言ったのだ! ルントシュテットの臆病を、なぜ私が追認したことになっている!? 私が寝ている間に、誰が勝手に署名をした!」
ボルマンは唇を噛んだ。
軍事に疎い彼は、前線の「一分一秒の重み」を理解していなかった。
ルントシュテットのメンツを立てつつ、総統の安眠を邪魔しない――その程度の些細な「気遣い」の代償が、数十万の英仏連合軍を取り逃がすという、歴史的な大失策に繋がるとは夢にも思っていなかったのである。
「……申し訳ございません。元帥からの要請があまりに緊急であったため、閣下のご意向に沿うものと判断し……」
「判断だと? 貴様ごときが、この戦争の趨勢を勝手に判断したというのか!」
ヒトラーはデスクを叩きつけた。
「今すぐ返電しろ! ルントシュテットの命令を、私の名において即刻撤回する! グーデリアンを放て! 一兵たりとも海へ逃がすな! 停止していた二日間のツケを、死に物狂いで取り戻させろ!」
背後に控えるマルティン・ボルマンは、血の気が失せた顔で総統の背中を見つめていた。
軍事の深淵を理解せぬ彼は、依然として「総統の安眠」という些細な事象を、国家の存亡よりも上位に置いていた。
彼は総統の怒りの火勢を弱めるべく、震える声で口を開く。
「し、しかし総統閣下……。取り消しというのは、あまりにも軽率では……。ルントシュテット元帥殿の判断に泥を塗れば、軍の結束が揺らぎます。それでは元帥の面目が立ちません……」
その言葉は、火に油を注ぐに等しい愚行であった。
ヒトラーはゆっくりと、信じられないものを見るような冷ややかな目で振り返った。
「面目だと……?」
その声は、深海のように低く、ぞっとするほど静かだった。
「貴様は、前線の兵士たちが泥を啜り、戦車の中で火葬されるような熱さに耐え、たった一秒でも速く敵を撃滅しようと叫んでいるその電文を読んだのか! あの老いぼれ貴族が戦車戦の何を知っていると言うのだ!」
ヒトラーはデスクを蹴り上げ、椅子が鈍い音を立てて転がる。
広間には怒号が渦巻いた。
「私の軍隊は、貴族のサロンではない! 成果を上げ、敵を殺し、勝利をもたらすための機械だ! ルントシュテットの『面目』と、帝国の『趨勢』……貴様のその鈍った頭で、どちらが重いか今すぐ天秤にかけてみせろ!」
ボルマンは膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪え、冷や汗を拭うことも忘れて直立不動を貫いた。
だが、彼の内側では、もはや取り返しのつかない破滅への予感が、冷たい毒のように広がっていた。
「いいか、マルティン。これ以上、あの老いぼれ元帥の気位などという無価値な幻想を私の前に持ち出すな。……直ちに無線を叩け。ルントシュテットには伝えろ。貴様自身の名でな! 『総統の命により、直ちに進撃を再開せよ。停止命令は、総統の許可なく元帥が勝手に下した独断専行であったと見なす』とな!」
ボルマンは青ざめた顔で「はっ……!」と短く応じることしかできなかった。
これまで彼が握りつぶしてきた嘆願書の束が、今、ブーメランとなって自らの首を絞めようとしている。
軍事に疎く、政治的忖度しか知らなかった小男は、自分が招いたこの「四十八時間の地獄」が、どれほどの重みを持つかを、ようやく理解し始めていた。
「下がれ! 貴様の顔など見たくもない!」
ボルマンが足音を殺して退出すると、ヒトラーは地図に覆いかぶさるようにして、ダンケルクの海岸線に赤い線を引いた。
「グーデリアン……! 貴様は分かっているはずだ。ドイツのために、あの英国の犬どもを一匹残らず海に叩き込め……!」
深夜の総統官邸に、ヒトラーの荒い呼吸だけが響き渡る。
彼がルントシュテットに泥を塗り、軍事的なメンツを破壊してまで下したその命令は、果たして「四十八時間の遅延」という毒を抱えたまま、ダンケルクにたどり着くことができるのだろうか。
歴史の修正は、常に代償を要求する。
その代償を支払うのは、泥濘の中で死線を越えてきたシュミットたち、前線の将兵たちに他ならなかった。
彼らが再びエンジンの火を灯したとき、運命の歯車はすでに悲鳴を上げながら、加速を始めていたのだ。
ベルリンの総統官邸を追われるように退出したマルティン・ボルマンは、冷や汗で濡れた手で通信官を呼び寄せた。
彼の頭の中にあるのは、もはや戦局の推移などではない。
「いかにして総統の怒りの矛先を逸らし、己の保身を完璧なものにするか」という、官僚的な損得勘定のみである。
(バカな……『ルントシュテットの独断専行である』などと電文を打てば私は破滅してしまう……」
彼は通信官の背後に立ち、震える声で命じた。
「……電文を打て。ルントシュテット元帥閣下へ宛てるものだ」
ボルマンは喉を鳴らし、あえて自らの責任を曖昧にする狡猾な言い回しを選んだ。
「『総統閣下は、これまでの戦況を深く省察された結果、装甲部隊の即時前進が帝国の勝利に不可欠であると判断された。よって、前回の停止命令を撤回し、ただちにダンケルクへの再進撃を開始せよ』……とだ」
その言葉は、まるで魔法のような「すり替え」であった。
停止命令がルントシュテットの独断であり、自分たちの追認がミスであったという事実を隠蔽し、すべてを「総統の深慮遠謀による心変わり」という物語に書き換えたのだ。
電文は無機質なモールス信号となって、フランス前線の司令部へと飛び込んだ。
A軍集団司令部。
電文を受け取ったルントシュテット元帥は、呆然と紙切れを凝視していた。
二日前には「停止こそが賢明だ」と賛同していた総統が、今度は「進撃せよ」と命じている。
彼のプロイセン的なプライドは、この不可解な心変わりによって完全に踏みにじられた。
「……総統は、我らを道化として扱うつもりか」
ルントシュテットは苦々しく吐き捨てた。
彼にとって、この命令は戦術の修正ではなく、自らの「元帥としての判断」に対する総統からの絶縁状のように響いた。
グーデリアン中将の司令部は、怒りの渦中にあった。
しかし、その怒りの矛先は、ベルリンの影にいる真の黒幕であった秘書官ではなく、玉座に座る「ただ一人」に向けられていた。
通信官が差し出した最新の電文を、グーデリアンは引き裂かんばかりの勢いで手繰り寄せる。
そこには、二日前とは真逆の指示――『停止命令を撤回し、直ちに再進撃せよ』――という言葉が冷ややかに刻まれていた。
「……なんと愚かな。なんと、薄氷のような……!」
グーデリアンは机を拳で叩きつけた。
震えるのは怒りか、それとも絶望か。
彼は地図上のダンケルクを見下ろし、天を仰ぐ。
「総統閣下! 閣下はご自身の命で我々をこの地へ送り出し、そしてご自身の気紛れで、我々を泥の中に釘付けにしたのだ! 軍事的な必然性など、あのお方にとっては気まぐれなチェスの駒の配置に過ぎんのか!」
彼は通信機器を握りしめ、前線指揮官たちに向けて怒号を飛ばす。
「聞け! 総統の機嫌が直ったらしい。我々には進撃の許可が下りた。……だがな、前線で血を流しているのは我々だ! あの気まぐれな号令一つで、我々の戦術も、そして兵士の命すらも弄ばれるのだ!」
グーデリアンの脳裏には、ベルリンの総統官邸で優雅にコーヒーを啜りながら、地図を眺めて「進め」と言い、翌日には「待て」と命じる、気まぐれな独裁者の影が浮かんでいた。
彼にとって、この命令の背後にいるマルティン・ボルマンという名の「政治的フィルター」など、影も形も存在しない。
あるのは、絶対的な権力を持つ者の「あまりにも脆い意思」だけだった。
第一戦車連隊の陣地。
フォン・ヴァルテンベルク大佐もまた、届いた電文を前に言葉を失っていた。
「……総統閣下の『心変わり』か。これほどまでに、我々の進撃路が……一人の男の気分次第で書き換えられるとはな」
大佐の貴族的な気品は、今や失意と皮肉で塗りつぶされている。
規律と忠誠を重んじる彼にとっても、軍事的な論理を軽々と飛び越えていく総統の「気紛れ」は、理解しがたい恐怖であった。
その隣で、シュミット少尉は戦車の車体に背を預け、冷めた目で戦場を見つめていた。
彼の表情には驚きも、安堵もない。
ただ、深い諦念だけが宿っている。
「少尉、どう思う」大佐が問いかける。
「グーデリアン閣下は激怒しておられる。総統のご心変わりが、我々の命をどれだけ削ったかを理解しておられないのだ、と」
「……大佐。戦場の数式において、最も厄介な変数は『味方上層部の狂気』です」
シュミットは愛機の砲塔を撫でた。その指先はわずかに冷たい。
「我々は、合理的で冷徹な軍事指揮官の下で戦っていると信じていました。ですが、実際には、ただの気まぐれな神の采配を待つだけの道化だった。……総統閣下の『心変わり』などというものは、我々には何の価値もありません。我々が守るべきは、ベルリンにある誰かの気紛れではなく、今、泥の中で凍えているこの小隊の仲間と、この鋼鉄の獣だけだ」
シュミットはハッチに手をかけた。
その瞳は、もはや上層部や総統の意思など、一切の関心から切り離されている。
「ハルト! カスパル! 聞いたな。総統閣下が『進め』とおっしゃったぞ。……二日も遅れて、今さら何を言っても無駄だが、やることは変わらん。我々はただ、敵を潰す。それが、この気まぐれな狂気の戦場で、唯一残された我々の『数式』だ」
戦場を書き換える「鉄の牙」たちは、もはや大義のために動く軍人ではない。
彼らは、壊れた運命の歯車の中で、ただ己の誇りを証明するためにのみ、再び戦いへと身を投じたのだ。
エンジンの始動音が、まるで断末魔のように響き渡る。
彼らはダンケルクへ向けて加速した。
その進撃は、勝利への執着ではなく、狂った時代に対する彼らなりの「回答」でもあった。
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