第33話 不採用通知と、柔らかな鏡の光
九月第三週の夜。シェアハウスの台所は、蛍光灯が一つだけ点いていて、流しの金属が冷たく光っていた。外では自転車のブレーキがきゅっと鳴り、遠い救急車の音が一度だけ近づいて、また遠ざかった。
大貴は、湯を沸かしたままの鍋を見つめていた。泡が立って、蓋が小さく踊る。スマホが机の上で震え、置きっぱなしの箸がカタカタ鳴った。
画面には「選考結果のお知らせ」。指が勝手に動く前に、大貴は深呼吸を一つだけして、親指で開いた。
「……あ」
短い文面の中に、見慣れた丁寧語が並ぶ。最後の一行だけ、妙に目に刺さる。
――誠に残念ながら。
大貴はスマホを裏返して、机に伏せた。反射していた蛍光灯の白い線が消え、代わりに指紋の跡だけが残る。鍋の音がやけに大きい。慌てて火を止め、麺を入れる代わりに、ふたを押さえつけた。
冷蔵庫の扉に、礼杏の字でメモが貼ってある。
『ネクタイは洗濯機に入れない。入れた人、次は自分で結ぶこと。』
大貴は思わず、鼻で笑った。笑ったせいで、胸の奥に溜めていたものが少しだけ動く。喉の奥がつかえる前に、スマホがもう一度震えた。今度は通知ではなく、怜からの短い文。
『アトリエ。今なら、灯り落とせる。』
大貴は鍋に水を足し、火を完全に消した。麺は諦めた。代わりに上着を掴む。玄関で靴ひもを結びながら、裏返したスマホをもう一度見ないように、ポケットの奥へ押し込んだ。
大学の構内は、夜の湿り気を含んだ風が木の葉を擦っていた。芸術学部の建物は遅くまで点いていて、ガラス越しに作業台の影が見える。大貴がアトリエの扉を押すと、薄い溶剤の匂いと、金属を削った粉の匂いが混ざって鼻に入った。
「こっち」
怜は作業台の奥から手を上げた。ペンキまみれの手ではなく、黒い手袋をしている。大貴が近づくと、怜は言葉で慰めるかわりに、椅子を一つ引いた。座れ、とも言わない。椅子だけが、そこに置かれる。
大貴は椅子の背に手を置き、立ったまま周りを見た。床に貼られた養生テープ、並んだ工具、乾きかけの布。どれも途中のまま、でも投げてはいない空気だ。
怜は壁際のスイッチのところへ行き、天井灯を一つずつ落とした。白い光が消えるたびに、アトリエの輪郭がゆっくり柔らかくなる。最後の一本が消えたとき、闇の中に、細い線だけが浮いた。
作業台の上。薄い板の縁から、淡い光が滲み出している。
「……それ」
大貴が言いかけると、怜はうなずいて、板の下の小さなスイッチを入れた。
光が、いきなり強くならない。呼吸みたいに、じわっと満ちていく。板の表面は鏡なのに、いつもの鏡みたいに真っすぐ映さない。触れたら凹みそうな波が、金属の奥で揺れている。
「柔らかな鏡。今日、点く」
怜は短く言って、手袋をもう一つ、大貴の前に置いた。大貴はしばらく見てから、そっと指を入れた。ゴムの匂いがする。手袋をはめると、急に自分の手がよそよそしくなる。
怜が板の端を持ち上げる。大貴も反対側を持つ。重さは想像より軽い。けれど、緊張で指先が固くなる。
板の中の光が、二人の動きに合わせて揺れた。波が走り、色が少しだけ変わる。青から、緑へ。緑から、薄い紫へ。大貴の顔がそこに映る。目の下の影も、唇の歪みも、全部あるのに、角だけが丸くなる。
「俺、……落ちた」
声に出した瞬間、言葉が床に落ちたみたいに軽くなった。怜は「うん」とだけ返した。背中を叩かない。代わりに、板をほんの少しだけ傾ける。光が、大貴の頬に当たった。
大貴は思わず目を瞬いた。まぶしいのに痛くない。冷たいのに、引っかからない。
「これ、なんか……北の光っぽい」
大貴が言うと、怜は口元だけ動かして笑った。
「北のやつは、もっと勝手。こっちは、まだ言うこと聞く」
「じゃあ、俺も、言うこと聞けるやつになりたい」
大貴は言ってから、自分で吹き出しそうになった。怜の目が一度だけ丸くなり、それから、視線が板に戻る。
「聞くやつ、増えると、作業が早い」
怜はそう言って、板の縁を指でなぞった。指先が止まる場所がある。まだ粗い箇所だ。そこを見つめる目が、逃げない。
大貴はポケットのスマホを思い出したが、取り出さなかった。代わりに、板の揺れが落ち着くまで待った。光の波が小さくなる。呼吸が揃う。
「次、何すればいい」
大貴が言うと、怜は工具箱を開けた。カチリ、と金属の音が鳴る。
「磨く。まず、ここ。二十分」
二十分。短い。けれど、今の大貴には、二十分が助かった。今日の結果を、全部の時間に広げなくていい。
怜が紙やすりを渡す。大貴は受け取り、板の端をそっと擦り始めた。削る音は小さいのに、確かに前に進む音だった。
作業台の上で、柔らかな鏡の光が揺れ続ける。大貴の顔は、さっきより少しだけ、力が抜けて映っていた。
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