第31話 怜の展示計画、図面が喧嘩する

 九月の第二週。アトリエの窓はまだ夏の名残の白さを抱えているのに、床は少しだけ乾いて、音が軽かった。空調の風が紙の端を持ち上げ、図面がふわりとめくれて、まるで自分の主張を先に言いたがっているみたいだった。


 大きな作業台に、怜の展示計画の図面が広がっている。動線の線はきれいに湾曲しているのに、照明の位置が、その線にわざとぶつかりにいっている。光の円と、歩くための線が、紙の上で喧嘩していた。


 大貴は図面を覗き込み、定規を持ったまま固まった。

 「……これ、道が光に突っ込んでる」

 言ってから、自分の言い方が雑すぎたと気づき、慌てて言い直す。

 「えっと、ぶつかるっていうか、当たるっていうか……人が歩くと、ライトの真下を通る」


 怜は返事をしない。指先で図面の角を押さえ、紙が浮かないようにしている。沈黙の代わりに、鉛筆の芯がカリ、と鳴った。


 「喧嘩してるのは、紙じゃなくて、順番だね」

 秀朔が、卓上のメモを一枚抜き、さらさらと数字を書き始めた。照明の角度、距離、想定の高さ。数字が並ぶと、紙の上の喧嘩が、急に“原因”の顔をする。


 「原因は、私だよ」

 怜が小さく言った。口の動きが最小で、声だけがはっきり届く。

 「私のペースが、皆の足を止めた」


 大貴は反射で「そんなことない」と言いそうになり、唇の手前で止めた。怜は慰めを欲しがっている顔じゃない。ただ、針を刺して、空気の漏れを確かめているみたいだった。


 「止めたんじゃない、揃えた」

 黎美が、床の上にしゃがみ込みながら言った。テープの端を爪で起こし、まっすぐに伸ばす。声は軽いのに、手つきが迷わない。

 「展示って、走ってたら見えないでしょ。見える速度に合わせただけ」


 「速度に合わせるなら、実寸が早い」

 勘佑がガムテープを掲げた。透明じゃない、黄色いやつだ。遠目にも“ここからここまで”が分かる。

 「床に貼る。歩いてみる。体が納得しないと、頭は絶対ごまかす」


 言うが早いか、勘佑は床にテープを置き、怜の図面に引かれた動線を、実寸でなぞり始めた。曲線は思ったより長く、思ったより広い。大貴が「俺も貼る!」とテープに手を伸ばし、勢いよく引っ張って――べりっ、と嫌な音がした。


 「うわ、靴にくっついた!」

 大貴のスニーカーの底にテープが絡まり、歩くたびに尻尾みたいに揺れる。瀬斗が腕を組んで観客になり、「新作、尻尾付き就活生」と一言だけ落としてから、真顔で拍手した。

 「笑う門には……黄色い線も来たる」


 「来たるのは、転倒だよ」

 翔里が即座に突っ込み、テープの尻尾を踏まないように大貴の足元を片づけた。礼杏は一歩引いた位置で、全体を眺めている。誰よりも先に“危ない場所”を見つける目をしていた。


 「ライトは、ここ……だと、目に入る」

 礼杏が照明の円を指でなぞり、怜の方を見た。怜は頷き、今度は自分から紙を持ち上げて、角度を変えて見せた。光の円を少しずらすだけで、動線の喧嘩が小声になる。


 「怜、こっち」

 大貴は床に貼られたテープの上を、できるだけ丁寧に歩いた。テープは冷たくて、床は硬い。歩幅を変えると、見える角度も変わる。

 「ここ、止まりたくなる。……たぶん、光が呼ぶ」


 怜は大貴の言葉に反応して、ほんの少しだけ口元をゆるめた。笑うというより、“確認が取れた”という合図みたいな顔だった。怜は床にしゃがみ込み、テープの曲線に沿って、指で空を撫でた。

 「呼ぶなら、迷わせない。……出口、作る」


 秀朔が数字の列に丸をつけ、「照度は落とす。反射は残す」と短く言う。勘佑が「じゃあ、反射の位置はこう」と床の一部に四角を作る。黎美が「そこ、写真撮る場所にしよう」とスマホを構え、礼杏が「撮るなら並ぶ場所も」と、また別の線を引く。


 動き出すと、喧嘩していた図面が、急に仲直りの仕方を思い出したみたいだった。大貴は床の黄色い線の中で、息を整えながら、ふと明日の予定を思い出す。会社説明の枠、駅のホーム、そして――ネクタイ。


 「大貴、明日、何時に出るの?」

 怜が顔を上げた。聞き方が、学食のときと同じだった。責めない。励まさない。ただ、道を確かめる。


 大貴は、床の線から足を外さずに答えた。

 「……早い。間に合うってだけじゃなくて、余裕を持って行きたい」

 言いながら、自分でも驚く。盛らない言い方が、少しずつ増えている。


 怜は頷き、立ち上がった。手のひらに、床の冷たさが残っているのが見えた。

 「じゃあ、今日のうちに、ここは喧嘩をやめさせる」


 黎美が「喧嘩の仲裁は得意です」とふざけて敬礼し、瀬斗が「仲裁の謝礼は学食の大盛りで」と続ける。大貴は笑ってから、テープをきちんと切り直し、床に貼り直した。黄色い線は、さっきより真っすぐだった。


 「怜、足、止まってないよ」

 大貴は小声で言った。怜は返事の代わりに、作業台の端に置いてあった小さなライトを点けた。柔らかな光が、紙の上で一度だけ揺れ、喧嘩していた線の上に、薄い橋を架けた。


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