第28話 柔らかな鏡、試作2号の成功
八月の第三週。火曜の夕方。アトリエの窓は西日で白く曇り、外の蝉の声だけが妙に元気だった。作業台の上には、透明な板でも金属でもない、薄い“皮”みたいなものが一枚。隣に、ライトと、手袋の箱と、アルコールの小瓶。怜は、その全部を等間隔に並べていた。
「今日は、手袋。全員」
怜が言って、箱の蓋を指で叩く。叩く音が小さいのに、部屋が静かだからよく響く。
大貴は頷きながら、片手で自分の手を見た。指先がまだ少しだけ絵具の匂いを覚えている気がして、慌ててズボンで拭こうとして止める。礼杏に見られたら、水を渡される前に説教が来るやつだ。
「……ちゃんと洗ってきた」
言い訳みたいに言うと、怜は顔を上げないまま「うん」とだけ返した。返事の短さが、今日は不機嫌じゃない。作業に集中しているときの、“余計な音を入れない”のほうだ。
勘佑が作業灯を持ち込んで、コンセントの位置を確かめる。床にしゃがみ、コードをまっすぐ伸ばしてから、靴のつま先で軽く押さえた。
「転ばないようにしとく。前に大貴、ここで足ひっかけたろ」
「それは、床のせいだ」大貴が言い切ると、瀬斗が背中越しに笑う。
「笑う門には福来たる。床にも言い訳、必要」
「床に門、付いてないから」翔里が即座に返し、持ってきた資料を机の端に置いた。透明のファイルの表紙に、付箋が三枚。題名は小さく、“素材の特性/温度/光”。三行でまとめてある。
秀朔は腕時計を外して机に置き、メモの角を揃えた。
「温度は今、二十七度。湿度は高い。条件は、前回より悪い」
「悪いほうで成功したら、強い」礼杏が麦茶のボトルを置き、グラスを二つだけ出す。大貴の分と、怜の分。ほかは勝手にやれ、という配置だ。
怜はようやく顔を上げ、作業台の“皮”を両手で持ち上げた。光が当たると、表面がほんの少しだけ虹色に揺れる。鏡みたいに鋭く跳ね返さないのに、そこにいる人の輪郭はちゃんと残る。
「……二つ目。今度は、戻る」
怜がそう言って、指先でそっと押した。
ふわり。
押したところが沈み、すぐに戻る。戻り方が速すぎない。息を吐くみたいに、ゆっくりで、やさしい。沈んだ跡の縁に、ライトの白が滲んで広がり、線が角を失っていく。
大貴は思わず身を乗り出し、慌てて止まった。距離が近い。急ぐな、と自分に言い直す。代わりに、胸ポケットから折りたたんだ紙を出した。冷蔵庫の右上に貼ったやつの写し。
“突き放してない/呼んでる”
見せるつもりじゃない。ただ、握っておくと落ち着く。
「触る?」と怜が言った。
大貴は「いいの?」と聞き返しそうになって、飲み込んだ。言い直し。いま欲しいのは確認じゃない。手を出すか、出さないか。
大貴は手袋をはめた。指先を一度、二度、開いて閉じる。妙に儀式っぽい。
「……触る」
手袋越しに、表面に指を置く。冷たくない。温かくもない。どちらでもないのに、指が沈むときだけ、肌に近い感じがする。
大貴はほんの少し押して、すぐ離した。戻る。ふわり。光が広がる。自分の顔が、そこに映る。
映り方が、変だった。
目の下の影が薄く見える。眉間の皺が、ちょっとだけ解けている。笑っていないのに、笑いそうな顔。面接の前の固い仮面じゃない。
大貴は息を吸って、言葉を選び損ねたまま口にした。
「これ、触った人の顔が……優しくなる」
瀬斗が「顔が優しくなる鏡、すごい」と言って、わざとらしく頬を両手で持ち上げた。礼杏が即座に塩タブレットを投げる。「顔じゃなくて水分」
翔里は資料の付箋に小さく書く。“心理効果:要観察”。秀朔は「錯覚の可能性」と言いながらも、ライトの角度を一ミリだけ変えた。勘佑は無言で床のコードをもう一度押さえ直す。転ぶな、という優しさの出し方だ。
怜は、そのやりとりを見て、口元だけ動かした。笑い声は出ない。けれど、頬の筋が少し柔らかくなる。笑い方が、彼女のペースだ。
「じゃあ」
怜が言って、大貴の手袋の指先を指で示した。
「あなたが、触って」
もう触ってる、と言いそうになって、大貴は止めた。怜が言いたいのは“もう一回”じゃない。逃げずに、ちゃんと見て、という意味だ。
大貴は頷いて、今度は掌でそっと押した。沈む。戻る。光が広がる。鏡の中の自分が、少しだけ座り直す。
怜はその様子を見て、作業台の端に置いた鉛筆を取った。スケッチブックを開き、短く書く。
“柔らかな鏡 二”
消しゴムは使わなかった。
大貴は胸の奥が熱くなって、でも前みたいに焦げないのを感じた。熱いまま、形になっていく。
「……これ、見せよう。みんなに。いや、見せたい」
言い切ってから、言い直す。
「見せてもいい? 怜が、いいなら」
怜は少しだけ首を傾けた。答える前に、ライトのスイッチを一段だけ上げる。光が柔らかく壁に広がり、全員の影の輪郭が丸くなる。
「……いい。けど、触るのは、手袋」
そう言って、怜は手袋の箱をもう一度叩いた。
瀬斗が小声で「門、開いた」と言い、翔里が「門じゃなくて箱」と返す。礼杏は麦茶を注ぎ、グラスの水滴を指で拭ってから怜の前に置いた。
怜は飲んだ。ひと口だけ。すぐ作業台に視線を戻す。けれど、さっきより少しだけ、呼吸が軽い。
大貴は鏡の中の自分を見て、手袋越しにもう一度、そっと触れた。
戻る。
ふわり。
その“ふわり”が、八月の暑さの中に、確かに涼しい北の光の入口を作っていた。
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