第20話 緩い夜ごはん会

 七月の第一週。金曜の夜。シェアハウスの台所は、昼間の熱を少しだけ残したまま、換気扇がゆるく回っていた。窓の外では、駅前の踏切の音が遠くで「カン」と鳴る。冷蔵庫には、礼杏が貼った“緩い”生活ルール表が、今も磁石で真っ直ぐ押さえられている。


 礼杏はエプロンの紐を結び直し、まな板の上に材料を並べた。玉ねぎ、にんじん、鶏むね肉、豆腐、味噌。色の順番が落ち着く。包丁を置く角度まで、きっちり揃う。

 「今日は、派手じゃないやつ。胃にやさしいやつ」

 言ってから、礼杏は包丁の背で玉ねぎをトントンと叩いた。叩く音が、話の始まりの合図みたいだった。


 瀬斗が、ビニール袋を揺らして入ってくる。

 「学食よりは、確実に当たりの匂い」

 「当たり券、ここでは出ない」翔里が、台所の隅のテーブルにノートパソコンを置きながら返す。隣に三色のペンと付箋。いつも通り、いつも以上に整っている。

 勘佑は買ってきた卵パックを両手で抱え、そっと冷蔵庫に入れた。乱暴にしない。卵も、ガラスも、怜の作品も。


 怜は遅れて入ってきた。肩から小さなトートバッグを下ろし、何も言わずに水を一口飲む。アトリエの金属の匂いがまだ服に残っている。火曜の講評のときの、あの曖昧な形が、目の奥に張りついているみたいだった。

 大貴は、その気配に気づいたのか、椅子を少し引いて座る場所を作った。声は出さない。作るのは、場所だけ。


 「切るよ」礼杏が言った。

 玉ねぎが半分に割れ、薄い層がさらさらとほどける。にんじんが細くなる。鶏むね肉が同じ厚みにそろう。作業が進むほど、台所の空気が整っていく。


 その整っていく空気を、真っ二つに割る声が飛んだ。

 「うわぁぁぁぁぁ!」

 大貴が、テーブルのノートパソコンの画面を見たまま、椅子ごと後ろにのけぞった。椅子の脚が床をキィッと擦る。

 「何、虫?」瀬斗が身を縮めて、笑いながら言う。

 「虫じゃない! 俺の……俺のエントリーが……今日まで! 今日、二十三時五十九分!」

 大貴の指が画面を叩く。叩きすぎてタッチパッドが沈む。沈むはずがないのに、沈みそうな勢いだ。


 秀朔が、台所の入口に立ったまま、時計を見た。

 「今、十九時四十三分」

 「時間、あるじゃん」瀬斗が言いかけて、翔里の視線で止まる。

 翔里は何も言わず、鞄から一枚の紙を取り出した。白い紙。四角い枠。そこに、手書きで大きく書く。


 提出 23:59

 添付 ポートフォリオPDF

 入力 志望動機/自己PR 各300字


 翔里はその紙を冷蔵庫に貼った。磁石を二つ、パチン。紙がぴたりと止まる。

 大貴は、貼られた紙を見て、声が小さくなる。

 「……なんで知ってたの」

 「先週、言ってた。『余裕ある』って」翔里が言った。責める口調じゃない。事実を置く口調だ。


 大貴は立ち上がり、まな板の前に行って包丁を掴もうとした。何かを切れば、焦りも切れる気がしたのかもしれない。

 礼杏の手が、包丁の柄の上に重なる。

 「包丁は、焦りを切れない」

 礼杏は、さらっと言って、包丁を自分の側へ戻した。代わりに、大貴に小さなボウルを渡す。

 「豆腐を崩して。指は崩さないで」


 勘佑が笑って、肩を揺らす。

 「豆腐は、崩れても戻る。指は戻らん」

 瀬斗が頷き、いつもの言葉で空気を軽くする。

 「笑う門には福来たる。締切にも来い、福」


 怜は、鍋の前に立った。礼杏が切った野菜を、黙って鍋に入れていく。指先が迷わない。湯気が立ち上がり、眼鏡のない怜の目の前が白く曇る。

 大貴は豆腐を崩しながら、ちらっと怜を見る。言いたいことが喉に引っかかっているのが分かる。火曜のあと、ちゃんと話せていない。

 だけど、今は、豆腐の角を消すのが先だ。


 秀朔がテーブルに座り、ノートパソコンを開いた。画面の端に、提出フォームが映る。

 「分担する。大貴は入力。翔里は誤字確認。黎美は文章を整える。瀬斗は“盛りすぎ”を見張る」

 「見張るって、俺、犬?」瀬斗が言って、すぐに口をつぐむ。今は犬でもいい。役があれば。


 黎美が、エプロンもつけずに台所に入ってきた。片手にメモ帳、片手にペン。

 「大貴、言い回し、今のままだと“全部やりました”になる。何を、いつ、どうやって、誰と、まで」

 淡い声で言いながら、黎美は大貴の横に座った。隣の椅子は、いつの間にか怜のために空けられている。


 「でもさ……俺、ほんと、盛っちゃうんだよ」大貴が言う。

 「盛るなら丘で」瀬斗が、笑いを混ぜて言う。前に言ったのと同じ。だから効く。


 鍋が、コトコトと鳴り始めた。具材が踊る音。味噌の匂いが、台所の角を丸くする。

 怜は鍋の蓋を少しずらし、湯気を逃がした。逃がした湯気が、冷蔵庫の紙を一瞬だけ霞ませる。

 怜の視線が、その紙に止まる。提出。添付。入力。

 怜は、トートバッグから小さなスケッチブックを取り出した。開く。白いページに、ペンが走る。線は細い。迷いがない線ではない。でも、止まらない線だ。


 数分後、怜はそのページをちぎって、テーブルの端にそっと置いた。大貴の指先の近く。押しつけない距離。

 そこには、短い文章が書いてあった。


 『光は、正直だ。逃げない。だから、追いかけたい。』


 大貴の手が止まる。豆腐の白い欠片が、ボウルの縁で揺れる。

 「……これ、いい」

 言ってから、大貴は怜を見る。怜は鍋を見たまま、ひとつだけ頷く。頷き方が、火曜より少しだけ柔らかい。


 「“柔らかな鏡”ってさ」瀬斗が口を挟みかけて、黎美に目で止められる。瀬斗は唇を引っ張って閉じ、代わりに手を上げる。

 「いや、今は、締切に福を呼ぶ」

 「正解」翔里が言って、付箋を一枚、大貴のキーボードの横に貼る。『提出ボタン押す前にPDF確認』。字が小さい。逃げ道がない。


 大貴は入力欄に、怜の一文を置いてみた。置いて、周りの文章を整える。黎美が言葉の順番を入れ替え、翔里が句読点をそろえる。秀朔が「ここは具体例一つ」とだけ言い、勘佑が「写真は暗すぎる」とポートフォリオの画像を調整する。

 礼杏は味噌を溶きながら、皆の背中にコップを配った。

 「飲む。半分。飲んでから、続き」

 誰も逆らわない。今夜は、緩くて、ちゃんとした夜だ。


 時計が二十三時五十七分を指したとき、大貴の指がマウスを握り直した。

 「……押すよ」

 「押して」翔里が言う。

 「押す前にスクショ」瀬斗が言って、黎美に肘で小突かれる。

 大貴は笑いかけて、笑いを飲み込んで、クリックした。


 送信完了、という文字が出た。

 それを見た瞬間、台所の空気がほどけた。誰かが息を吐く音が重なり、鍋のコトコトだけが残る。

 瀬斗が、両手を天井に向けて伸ばす。

 「福、来た! 締切に勝った福!」

 礼杏が、鍋の火を弱めた。

 「勝ったのは、手。食べるよ」


 テーブルに器が並ぶ。味噌汁が湯気を立て、豆腐がふわりと沈む。大貴のボウルの豆腐は崩れているけど、ちゃんと白い。

 怜は一口飲んで、ほんの少しだけ眉を上げた。驚きの顔だ。褒め言葉の代わり。

 「……あったかい」

 その一言で、全員の肩が少し落ちた。落ちた分だけ、笑いが入りやすくなる。


 食後、礼杏が小さな透明の貯金箱をテーブルに置いた。宇宙柄のシールは、もう剥がれかけている。

 「今日の分」

 大貴が財布を出し、五百円玉を一枚入れた。カラン、と澄んだ音がする。怜も鞄から小銭を出し、同じ音を重ねる。

 音が二つになると、台所の明かりが少しだけ遠い北の光に似て見えた。


 大貴は貯金箱を見たまま、ぽつりと言う。

 「……俺、忘れてたの、締切だけじゃない。火曜のあと、ちゃんと……」

 怜が、湯気の向こうで首を振った。否定じゃない。今はそこじゃない、という合図。

 そして、スケッチブックの端を指で軽く叩く。

 「……次、書く。続き」

 大貴はそれを聞いて、胸の奥で何かが静かに戻るのを感じた。焦りは切れない。けれど、切り分けられた時間の中に、ちゃんと座れる場所がある。


 冷蔵庫の紙はまだ貼られたまま、提出の文字を堂々と残している。

 その横で、“緩い”の二文字が、やけに頼もしく見えた。


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