第8話 学食の試食会と礼杏の指導

 五月の第一週の木曜。昼休みの学食は、いつもの揚げ物とカレーの匂いに、見慣れない香草の匂いが混ざっていた。入口に貼られた紙には太い文字で「新メニュー試食 先着順」とある。紙の端が風でぱたぱた鳴っている。


 大貴はその紙を見つけた瞬間、すでに列の最後に並んでいた。片手には就職支援室でもらったパンフレット、もう片手には小さなメモ帳。胸ポケットには細いボールペンが三本刺さっている。

 「先着って書いてあったからさ。逃すと損だろ」

 言いながら、もう一度紙を見上げる。損得で動くというより、目に入ったものを拾わずにはいられない、という動きだった。


 怜は少し遅れて入ってきた。髪をまとめるゴムがいつもよりきつい。手の指先が薄く白いのは、樹脂を拭き取った跡かもしれない。大貴は声をかけようとして、昨日の短い通知を思い出し、喉の奥でいったん止めた。

 ――今、止まれなかった。ありがとう。明日、少し見せる。

 「少し」がどれくらいか、勝手に決めてはいけない気がした。


 礼杏はトレーを持たず、試食台の横に置かれた「栄養成分表」を先に覗き込んだ。紙の上を指でなぞり、眉間に細い線が寄る。文字を追う速度が、急に速くなる。

 瀬斗がすかさず、礼杏の顔を横から見て、囁いた。

 「その顔、酸っぱい梅より効く」

 礼杏は顔を上げ、何も言わずに瀬斗の額に指を一本、ぴとっと当てた。押されて瀬斗の頭が少し後ろへ動く。

 「効かせたい相手がいるなら、まず水」

 瀬斗は押されたまま、素直に頷いた。「はい」と変に丁寧な声まで出して、列の途中の給水機へ向かった。


 試食は三種類。小鉢の「彩り野菜の冷やしだし」、白い器の「豆乳スープ」、そして丼の上に葉物がふわりと乗った「夜空のまぜごはん」。ネーミングだけが妙に詩的で、学食の人が何かに触発されたのが透けて見える。

 「夜空って……」

 大貴が口にすると、秀朔が小さな紙を指で弾いた。

 「ここ、糖質が主役だな」

 数字を一言で切って終わる。怜は丼を眺め、葉の端を箸で持ち上げて、光の当たり方を確かめるように少しだけ角度を変えた。食べる前に目で触る癖がある。


 大貴はメモ帳を開き、ペンを走らせた。

 「えーと、食感、香り、見た目、コスパ……あと、就活の自己PRに使える話題、っと」

 黎美が箸を止め、メモ帳を覗く。

 「何の話として出すの」

 「ほら、『新しいものに挑戦する姿勢』とか」

 「今、挑戦してるのは、スープをこぼさずに飲む姿勢」

 黎美はそう言って、器の縁を指で軽く示した。大貴のトレーはすでに斜めだった。


 大貴は「大丈夫」と言いながら、ペンを持ったままスープに口をつけた。視線はメモの上。次の行を考える間に、手首がほんの少し傾く。

 ちゃぽ、と小さな音がして、豆乳スープがトレーの木目の上を白く走った。


 時間が止まる、とはこういうことか、と大貴は思った。止まったのは時間ではなく、自分の脳みそだけだったが。

 「うわっ、ごめ――」

 声より先に、紙ナプキンが伸びてきた。怜の手だった。指先が迷わず、白い筋を端から吸っていく。ナプキンが湿って少し重くなる。怜は何も言わず、二枚目を取って、トレーの角まで丁寧に拭いた。


 大貴は口を閉じ、喉の奥で言葉を整理しようとした。昨日の「ありがとう」を、今ここで返していいのか分からない。けれど、返さないのも違う。

 「……助かった」

 怜は拭き終えて、ナプキンを丸めた。丸める力が強すぎて、指の関節が白くなる。

 「手、止めないで書くの、癖?」

 責める声ではない。事実を拾う声だった。

 大貴はペンを見た。先ほどまで武器みたいに握っていたそれが、急に箸より危ないものに見える。

 「癖。……悪い癖」

 怜は小さく頷き、丼に視線を戻した。大貴の胸の奥で、昨日の通知がもう一度、柔らかく鳴った。


 礼杏がその様子を見て、椅子を引いて大貴の隣に座った。手には栄養成分表のコピーが一枚。

 「大貴、食べながら書くなら、書くのは三行まで。食べたら一度ペンを置く」

 「え、三行?」

 「三行。続きは食後。脳の糖は、ここで使う」

 礼杏は指で紙をとんとんと叩いた。そこには「午後の面接練習」「提出物」「制作作業」と細かい文字が並んでいる。誰の予定でもなく、全員の予定が混ざっていた。

 「ねえ、それ……いつの間に作ったの」

 黎美が聞くと、礼杏は肩をすくめた。

 「台所の冷蔵庫に貼った紙、見てない?」

 瀬斗が水を二本持って戻ってきて、一本を大貴の前に置いた。

 「先生、ありがとございます。水の時間です」

 礼杏は「先生じゃない」と言いながらも、水のキャップを開けて大貴の手元へ寄せた。


 大貴は水を飲み、紙に視線を落とした。自分の予定だけで頭がいっぱいだったとき、他人の予定がこんなふうに並ぶ紙を、面倒だと感じていた。今は、紙の角がちゃんと揃っているのが、少しだけ頼もしい。

 「……緩いって、こういうことか」

 ぽつりと漏らすと、礼杏は頷いた。

 「続けられる形。続けられない形は、かっこよく見えても、最後に折れる」


 怜が箸を置いた。丼の葉物を一枚、端に寄せ、器の底の白い部分を覗き込む。豆乳スープの白とは違う白。光を受ける白。

 「これ、光の回り方がいい」

 怜の言葉は短いのに、周りが静かになる。勘佑が「どこが」と聞くと、怜は箸で器の縁を指した。

 「ここ。影が柔らかい」

 秀朔が「学食の器でそこを見るか」と言いながらも、同じように縁を覗き込んだ。

 瀬斗が笑って、丼を持ち上げ、照明にかざす。

 「学食の蛍光灯でも、北の光の練習できるかな」

 怜はその言い方に、ほんの少しだけ口元を緩めた。大貴は見逃さなかった。


 食べ終わる頃、怜はトレーの上に小さな封筒を置いた。茶色いクラフト紙の、薄い封筒。大貴の視線に気づいて、怜は言った。

 「今日の放課後。アトリエ。五分だけ」

 五分、と数字で言われると、逆に大きい。大貴は頷き、ペンを胸ポケットに戻した。今度は三本とも、奥まで差し込む。

 「五分でいい。……五分、ちゃんと行く」

 怜は封筒を自分のトレーに戻し、立ち上がった。背中が、昨日より少しだけ軽い。


 礼杏は最後に、全員のトレーを見回した。

 「今日、甘いのは夜に回して。午後は水と、ちゃんと噛む。噛めない日は、無理を言いに来る」

 瀬斗が「噛めない日は、敬語も噛みます」と言って、また額を押される。


 学食の出口を出ると、五月の光が白く眩しかった。大貴のメモ帳には、三行だけ残っている。

 ――夜空のまぜごはん:影が柔らかい。

 ――水。

 ――放課後、五分。


 たった三行なのに、胸の中で、ちゃんと形を持っていた。


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