第二部 差替 -金曜日から日曜日
金曜の夜、自宅のパソコンの前に座った。大学時代のノートパソコン。編集ソフトを立ち上げて、玲がUSBメモリで渡してくれた素材を読み込んだ。
十五秒のCMを作る。広告代理店の一年目が叩き込まれた技術を、逆向きに使う。
フォーマットは幸福度キャンペーンのものをそのまま使うことにした。美しいゴシック体。白と金のレイアウト。信頼感のあるナレーション音声のトーン。広告の文法で——
手が止まった。
広告の文法で、何を語るのか。
消えた人たちの顔を映す。名前を映す。復帰率の空白を映す。「あなたの隣の席は、昨日まで誰が座っていましたか?」と聞く。——十五秒に収まる、きれいな問いかけ。
きれいすぎる、と思った。
一年間、名前がつけられなかったものを、僕は今、十五秒に圧縮しようとしている。名前のつかない感情を、フォントとレイアウトとテロップで「消費可能な形」にパッケージングしようとしている。
それは旭通信社が「幸福」をパッケージングしてきたことと、何が違うのか。
幸福度世界一のCMは、この国の複雑な現実を「美しい数字」に圧縮して、十五秒で消費させる。僕がやろうとしていることは、この国の名前のない苦しみを「美しい問いかけ」に圧縮して、十五秒で消費させることだ。構造が同じだった。使っている技術も同じだった。広告代理店で学んだ技術で、広告とは反対のことをしているつもりが、実は同じことをしている。
モニターの前で動けなくなった。靴を履けないのと同じだった。手が止まる。「次の動作」が分からない。
玲に電話した。深夜一時。
「CMを作ってて、気づいた。俺がやってることは結局、広告と同じだ」
玲は黙って聞いていた。
「名前のつかないものに名前をつけて、十五秒に収めて、流す。それは——幸福度キャンペーンと同じ構造だ。俺たちが苦しんでいたのは、感情を圧縮されることだったのに、俺は同じことを逆向きにやろうとしてる」
沈黙があった。
「そうだと思う」と玲が言った。
「じゃあどうすればいい」
「分からない。でも——完璧な表現が存在しないことと、何も表現しないことは、違うよね」
また沈黙。
「十五秒しかないんだよ。十五秒で、名前のつかないものを、名前のつかないまま伝えることなんてできない。だから不完全でも投げるしかない。——それが広告と同じだと分かった上で」
電話を切った。
モニターに向き直った。不完全な翻訳。名前のつかないものを、不完全に翻訳した十五秒。完璧ではないと分かっていて、それでも投げる。
作り直した。
最初の三秒は変えなかった。「隆昭ニッポン」のロゴ。金色。安心感。
四秒目。音が消える。
四秒目から十秒目。消えた人たちの顔写真が、一秒に一人、映る。名前のテロップ。全員が笑っている。テロップのフォントは幸福度キャンペーンと同じゴシック体。
十一秒目から十三秒目。白い画面に「復帰率」の三文字。横に空白。何の数字もない。存在しない統計が、三秒間だけ存在する。
十四秒目から十五秒目。白い画面に一行。
「あなたの隣の席は、昨日まで誰が座っていましたか?」
前と同じ構成だった。でも作っている人間の中身が変わっていた。これは正解ではない。名前のつかないものを翻訳しようとして失敗した、十五秒の残骸だ。でもこの残骸を投げなければ、十五秒は元の幸福度CMのまま流れて、また誰かが笑顔で消えていく。不完全でも投げる。
安藤の顔写真を配置したとき、手が震えた。安藤は笑っていた。カレーを食べながら笑っていた。声が出なくなっただけだった。それだけのことだった。
日曜の深夜。玲にメッセージを送った。「できた。不完全だけど」。
返信。「完璧なものを作れると思うほうが傲慢だよ。——おつかれさま」
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