第9話

◆◆第9章:血の契約と、選別される命


隣室の凄惨な粉塵爆発が収束し、焦げたにおいと熱風、そして舞い上がった粉塵が佐山家のリビングに漂っていた。 壁はひび割れ、ガラスは散乱しているが、計算通りこちらの部屋への被害は最小限だった。

「これで全部終わったよ、瑞穂。君を脅かす大人は、僕が全員消してあげた」

煤だらけの顔で、圭太は満足げな笑みを浮かべて振り返った。 彼の頭の中には、完璧な勝利の方程式が描かれていた。暴力を振るう父親、強請りをしてきた隣人、そしてその背後にいた元・神童の男。すべてを自分の手で盤上から排除した。 自分の知能が、醜く愚かな大人たちを凌駕したのだ。

「……化物……あんたたちは、化物よ……!」

背後から、怨嗟の声が響いた。 圭太が振り返るより早く、キッチンの影から瑞希が飛び出した。その手には、鋭く研がれた牛刀が握られ、狂気で血走った目は、娘をたぶらかした「悪魔」である圭太の心臓だけを見据えていた。

「瑞穂を返してぇぇぇぇッ!!」

瑞希の絶叫と共に、銀色の刃が閃く。 圭太の思考速度をもってしても、物理的な距離と、母性という名の狂気が生んだ速度には反応しきれない。 (避けられない――!) 圭太が死を覚悟し、反射的に身を硬くした、その刹那。

ドスッ。

鈍く、重たい音が肉を穿つ感触。 だが、圭太に痛みはなかった。 彼の目の前に、小さな背中が割り込んでいたからだ。

「……え?」

時が止まったような静寂。 瑞希の手から、牛刀が滑り落ちて床に音を立てた。 彼女の目の前で、瑞穂が腹部を赤く染めながら、ゆっくりと膝から崩れ落ちていく。

「み、瑞穂……? 嘘……いやぁぁぁッ!!」

瑞希が悲鳴を上げて後ずさる。自分が振り下ろした刃が、あろうことか愛する娘を貫いたのだ。 圭太は咄嗟に倒れ込む瑞穂を抱き留めた。温かい血が、圭太の手をどろりと濡らす。

「瑞穂! なんで……なんで僕を庇ったり……!」

圭太の声が震えた。計算外だ。彼女は自分を利用していただけではなかったのか? なぜ、致命傷を負ってまで僕を? 瑞穂は苦痛に顔を歪めながらも、圭太の腕の中で、うっとりとするような笑みを浮かべた。その瞳は、痛みによる涙で潤んでいるが、奥底には暗く妖しい炎が揺らめいている。

「だって……圭太くんは『純粋な悪』だもの……」

口の端から一筋の血を流しながら、瑞穂は震える手で圭太の頬に触れた。 「パパを殺した時も、隣のお兄さんを爆殺した時も……圭太くん、すごく綺麗な目をしていた。……私、そういうのが大好きなの」

それは愛の告白などという生易しいものではなかった。 同じ地獄を歩ける共犯者、あるいは自分を楽しませてくれる最高のおもちゃを失いたくないという、純粋なエゴイズムと執着。

「だから……もっと、一緒に……遊びたい、な……」

ガクッ、と瑞穂の首が落ち、意識が途切れる。 その瞬間、圭太の中から「少年」の感情が消え失せた。 瞬時に脳内が「医師」のモードへと切り替わる。感情を遮断し、目の前の肉体を修理すべきオブジェクトとして捉える。

「……遊べるさ。僕が死なせない」

圭太はリュックから止血帯を取り出し、瑞穂の傷口の上部を強烈な力で縛り上げた。続けて、タオルを傷口に押し当て、全体重をかけて圧迫止血を開始する。 「動脈は逸れている。肝損傷の疑いがあるが、即死レベルじゃない。……まだ間に合う」

バンッ!! その時、玄関のドアが乱暴に蹴破られ、一人の男がリビングに飛び込んできた。 山口剛だ。瑞希の不安定な精神状態と、虫の知らせのような胸騒ぎを感じ、血相を変えて駆けつけてきたのだ。

「瑞希! 無事か!?」

山口は部屋の惨状――血まみれの息子と、倒れている少女、そして腰を抜かしている瑞希を見て絶句した。 「け、圭太……? これは……一体……」

「父さん! 説明している時間はない!」 圭太は父親に向かって、今まで一度も見せたことのない鋭い命令口調で叫んだ。 「瑞穂が刺された! 救急車じゃ警察が介入して、僕たちの計画が全部バレる! ……父さん、あの『闇医者』に連絡してくれ!」

「なっ……」 「父さんがいつも、ヤクザの連中の鉄砲傷を治させてる、あの裏の医者だ! 腕は確かなんだろ!? 今すぐ車を出して、瑞穂をそこへ運ぶんだ!」

「わ、わかった! すぐに運ぶ!」 山口は太い腕で瑞穂を軽々と抱き上げた。 「圭太、お前も来い!」

「いや、僕は残る」 圭太は冷静に首を振った。 「父さん、山口建設の未来を守るためだ。僕がここに残って『錯乱した母が娘を刺して自殺した』という筋書きを完成させないと、警察の捜査が父さんにまで及ぶ。行ってくれ!」

「し、しかし……」 「この現場を誰かが『処理』しなきゃいけない。それに、瑞穂の付き添いは父さんだけで十分だ。……頼むよ、父さん。その子は僕の『未来』なんだ」

息子の鬼気迫る表情と、その判断の合理的さに、山口は腹を括った。ここで警察を呼べば、息子も自分も破滅する。 「……あ、ああ。任せておけ! 絶対に助けてやる!」

山口は瑞穂を抱えて走り出した。ドタドタという足音が遠ざかり、やがて車のエンジン音が急発進して消えていく。

リビングには、静寂が戻った。 残されたのは、血まみれの圭太と、魂が抜けたように座り込む瑞希だけ。

「あ、あ……あぁ……」 瑞希は、自分の血濡れた両手を見つめて震えていた。 「瑞穂……ごめんね……ママが……ママが……」

ウゥゥゥゥゥゥ――ッ!! カンカンカンカンッ!!

遠くから、無数のサイレンの音が近づいてくる。 隣室の爆発火災を消し止めるための消防車と、パトカーの群れだ。 赤い回転灯の光が、割れた窓からリビングの壁を不気味に照らし出す。

圭太はゆっくりと立ち上がり、洗面所で血を洗い流すと、まるで散らかった部屋を片付けるかのような手つきで、床に落ちた牛刀を拾い上げた。

「……さて」

圭太は、ひび割れた壁に背を預け、抜け殻になった瑞希を見下ろした。 その瞳は、先ほど瑞穂に見せた情熱とは打って変わって、氷点下の冷徹さを湛えていた。

「おばさん。状況を整理しようか」

瑞希がビクリと反応し、虚ろな目で圭太を見上げる。

「隣の部屋が爆発した。原因は不明だが、あの引きこもりの息子が火元だ。 そして、この部屋では、君の娘が腹を刺されて重体となり、行方不明になった。 現場には、君の指紋がついた包丁と、君の娘の大量の血痕が残っている」

圭太は一歩、また一歩と瑞希に近づく。 「消防隊と警察がここに踏み込んでくるまで、あと5分もない。 もし彼らが来たら、君は『娘を刺して殺そうとした狂った母親』として逮捕される。 瑞穂が生きていても、死んでいても、君の人生はもう終わりだ。刑務所の中で、娘を傷つけた罪悪感に苛まれながら、惨めに年老いていくしかない」

「いや……いやぁ……」 瑞希は頭を抱えて泣き出した。 「助けて……私、どうしたら……」

圭太はしゃがみ込み、瑞希の顔を覗き込んだ。 その顔は、悪魔のように美しく、そして残酷だった。

「選択肢は二つある」

圭太は牛刀の柄を、ハンカチで包んで瑞希の前に置いた。

「一つは、このまま警察に捕まって、地獄を見るか。 もう一つは……『悲劇の母』として、自ら幕を引くか」

「え……?」

「隣の爆発に巻き込まれて、錯乱した君が、娘を刺してしまった。 そして、その罪の重さに耐えきれず、自ら炎の中へ飛び込んだ――。 そうすれば、少なくとも瑞穂の名誉は守られる。君は『事故でおかしくなった可哀想な人』として同情され、瑞穂は『被害者』として、父さんが用意する新しい人生を歩める」

圭太は窓の外、燃え盛る隣室のベランダを指差した。 そこからは、まだ黒煙と炎が噴き出し、手すりは熱で歪んでいる。ここから飛び降りれば、あるいは炎に巻かれれば、死因の特定すら難しくなるだろう。

「瑞穂のためだろ? おばさん」

その言葉は、命令ではなく、甘美な誘惑のように瑞希の耳に届いた。 生き恥を晒すか、娘のために死んで償うか。 精神が崩壊寸前の彼女にとって、それは「救済」の提案に等しかった。

サイレンの音が、もうマンションの直下まで来ている。 赤色灯の光が、部屋の中を激しく明滅させる。時間はもうない。

圭太は、無邪気な子供のような声で、最後の問いを投げかけた。

「ねえ、おばさん。――どうする?」


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泥底の聖域 ――完全犯罪の裏側で、少年と少女は共犯になる 奈良まさや @masaya7174

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