静かな不在

椛島

第1話

 その晩、私は沙夜と飲んでいた。


 別に約束をしていたわけではない。仕事が終わったあと、なんとなく連絡をして、気が付けばいつもの店に向かっている。私たちは昔からそういう会い方をする。理由がなくても顔を合わせられる相手というのは、案外少ないものらしい。


 私は会社の話をしていた。会議が長かったとか、上司が細かいとか、そういう取り立てて面白いわけでもない話である。言っている自分でも大して面白いとは思っていない。ただ話していると次の言葉が出てくるので、そのまま続いているだけだ。


 沙夜は向かいでニコニコして聞いていた。この子は昔から、人の話を楽しそうに聞く癖がある。急かすこともなければ、途中で話を奪うこともない。ただ静かに聞いている。その様子を見ると、私はつい余計なことまで話してしまう。


 私はグラスを持ち上げた。氷が軽く鳴る。


 その時、テーブルの上のスマートフォンが震えた。


 私はすぐに手を出さない。急いで画面を見ると、いかにもそれを待っていたようで具合が悪い気がしたから。


 一口飲んでから、なんでもない顔でスマートフォンを取った。


 一通のメッセージが表示されている。それだけのことで、胸のあたりが少し軽くなる。私は短く返信を書いて送った。


 沙夜は頬杖をついたまま、その様子を見ている。そして、少し笑った。


「最近機嫌良いね」


 私はスマートフォンを伏せて置いた。


「そう?」


「うん」


 私は氷を噛んだ。その晩の私は確かに機嫌が良かったらしい。人間の機嫌というのは何とも単純である。


 沙夜がグラスを持ったまま言う。


「澪ってさ」


「何?」


「わかりやすいよね」


 私は笑った。


「何それ」


 沙夜も笑った。


「なんとなく」


 私はグラスの氷を見つめながら沙夜に言う。


「この前ね、仕事の話になったの」


 沙夜は頷いた。相変わらずニコニコしている。


「最近、仕事が忙しいって言ったら、“澪ってそんな忙しい仕事だっけ?”って」


 私は氷を噛んだ。


 それは別にひどい言葉ではない。言った本人も、きっと何気なく言っただけだろう。ただ、その時だけ、私の話が少し軽く扱われた気がした。


 けれど、そのあと彼はこうも続けた。

 “澪って頑張りすぎるタイプだよね。”


 そう言われるとさっきの言葉もあまり気にならなくなる。


 人間というものは、誉め言葉が一つ入ると、その前のことを少し忘れるらしい。澪はそれをちゃんと分かっていた。


 それでも、その晩の澪は機嫌が良かった。


 恋をしているとき、人は多少のことを上手く処理するらしい。


 沙夜は相変わらずニコニコして聞いていた。いつものように楽しそうにこちらを見ているだけである。この子は人の話を、いや、私の話を聞くときに妙に嬉しそうな顔をすることがある。話の中身というより、話している人間そのものを面白がっているように見える。


「どんな人?」


 私は少し考えた。


「素敵な人かな」


 沙夜はグラスを口に運んで、それからまたニコニコとした。


「それ、一番わからない答え。だっていつもそう」


 私は肩をすくめた。


「でも本当にそうだもん」


 私は言葉を探した。


「仕事もちゃんとしてるし、周りからの信頼も厚いし。一緒にいて楽しいし。」


 沙夜は黙って頷いた。


 私はグラスの中の氷を眺めていた。それから、何でもないことのように言った。


「たまに変わってるけど。そこがまた面白いの。」


 沙夜はまた、静かに頷いて、それから


「澪、楽しそう」


 それはやっぱり否定しにくい言葉だった。


 私は彼の話を続けようか少し迷った。

 別に隠すことでもない。ただ、恋の話というのは口に出してしまうと妙に形がはっきりしてしまう気がする。そうなると、なんとなく落ち着かない。


 けれど、その晩の私はどうも口が軽かったらしい。


「でもね」


 私は言葉を探した。


 上手く言えないのだが、時々、ほんの少しだけ引っかかることがある。別に大した事ではない。後から思い返せば、気にするほどのことでもないのだと思う。ただ、その瞬間だけ、胸の奥に小さな棘のようなものが残る。


 そういう言葉が、時々ある。

 私はそれを説明しようとして途中でやめた。上手く言えない気がしたからである。


 沙夜は暫く黙っていた。それからまた笑った。それもまた、どこか楽しそうだった。


 私はスマートフォンを手に取った。


 画面は暗いまま。


 別に、連絡を待っているわけではない。自分にそう言い聞かせる。


 ただ、その様子はどうも落ち着きがなかったらしい。


 沙夜はそんな澪を見てまたニコニコしていた。


 どうやら私はいつも以上に、随分とわかりやすい顔をしていたのかもしれない。



 店の中はいつの間にか少し賑やかになっていた。隣の出来では誰かが大きな声で笑っている。グラスのぶつかる音も、さっきより増えていた。


「雨降ってる」


 誰かのその声に思わずそちらを見た。


 いつの間に降り始めたのだろう。沙夜も同じように入口のほうを見ている。


 その時、グラスの表面が少し震えた。


ーー今どこ?


「彼?」


 沙夜の声に私は頷く。


 「迎えに来るって」


 「優しいね」


 私はグラスの残りを飲んだ。

 氷はもう溶けて水になっていた。


「そろそろ出よっか」


 私たちは会計を済ませて店を出た。


 いつの間にか降り出したが雨が光る街灯の向こうから一人の男性が歩いてくるのが見える。


 私はそれに小さく手を振る。


「待った?」


「ううん」


 それから沙夜を見た。


「沙夜」


 沙夜は軽く会釈をした。彼も沙夜に小さく頭を下げる。ほんの短い挨拶だった。


「これ、使いなよ」


 彼が2本持ってきた傘を一つ沙夜に差し出す。


「ありがとう」


「じゃあね。」


「うん。またね。」


 彼が傘を少しこちらに傾け、私たちは他愛ない会話をしながら歩きだす。その声は雨の中にすぐかき消されていく。



 沙夜はその様子を眺めて立っていた。

 前を歩く澪たちの背中が雨の向こうに少しずつ消えていく中で、

舗道を打つ音。傘を叩く音。街灯の下で細かく弾く水の音。


 さっきまで静かだった雨が急に耳の近くで鳴り始めたかのように、沙夜の中には響いている。


 沙夜は傘の中で少しだけ顔を上げる。



 雨は何も言わずに降り続いていた。






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