星が降る
一
今は昔、人人がこの世ならざるものの脅威を信じていた頃の話にございます。都に一人の文官がおりました。この頃、都では夜な夜なまことあまたなる星が落ちては消へ、それが災ひの兆ではあるまいかとたいそう恐れられておりました。この星の落つるを止めてみせよ、との帝の命により、文官は昼夜このことに悩まされておりました。
ある時、これも、星のあまた落つる夜にございました。件の文官は宵も更けるまで調べ物をしておりましたが、次第にうつらうつらと舟を漕ぎはじめ、これではまともに文字の一つも読めませぬ。とろめかしきを払はむと、文官は庭の井戸へと足を運びました。
ふと井戸を覗くと、底深くにきらりと光るものが見へます。何事かと不審に思ひた文官は井戸のへりに身を乗り出し、底へと手を伸ばしました。すると、何かひやりとしたものが彼の手を掴む感触がございます。彼が息を呑む間もなく、その体はするりと井戸の底へと消へてしまいました。
二
気がつけば件の文官は、きらびやかなる宮殿の前に座しておりました。宮殿の周囲はぐるりと蓮池に囲まれており、池の上を瑠璃色と黄金色にきらめく蝶が幾羽か、ひらひらと心もとなげに羽ばたいております。蓮池の外周には彼岸花が群れ咲き、微かなる風が朱き花弁を揺らすたび、蛍にも似た儚き光がふわり、ふわりと淡く光りては消へております。現と思へぬ景色の中で、星星のみは変はることなくきらりと輝きては尾を引き流れ、落ちておりました。
ああ、これが文献に見られし「あの世」の光景でございましょう。文官は己が井戸に落ちて死んでしもうたものと思ひ、ひどく落胆いたしました。
ともすればここは世に聞く閻魔天の王宮。これから己が生前の罪を問はるるのでございましょう。なればこそ、うまく云ひくるめでもすれば、冥界の王の気を変へることもできるやもしれぬ。放胆にも文官は眼前の扉を押し、豪奢なれども寂寞とせし王宮の中へと足を踏み入れました。
王宮の内壁には幾重にも重なりた帳が下ろされ、星星の光は一条も入らぬ代はりに、天井からは幾本もの蝋燭の立てられた銀色の燭台が下がり、灯された明かりがちりちりと影を揺らしております。あかあかと燃ゆる火の灯りしは何者かが居る証にございましょうが、妙なることに、王宮の中は物音のひとつもございませぬ。莫とせし広間は、美しく保たれてはおられるものの、足元には冷ややかなる澱が感ぜられました。
ふと気がつくと、物陰から小さき二つの影がこちらを覗ひております。文官がその姿を認むると、小さき影はぱたぱたと小気味良き足音を響かせながら、広間より奥へと走り行きます。文官はその足音を追ひ、奥の間へと向かひました。ぱたぱたと走る二つの足音は、一つの玉座の両脇へ、二手に分かれて収まりました。歳の頃は五つほどでございましょうか、ひとりの童は陽色の衣を白き肌に纏ふた、栗色の髪をしたもの、もう片方の童は月色の衣を浅黒き肌に纏ふた、灰の髪のものでありました。彼らは互ひを鏡で写し合はすやうに瓜二つの顔貌をして、二対の金色の眼でじいと文官を見つめております。ひとりは不安げに、もうひとりは訝しげに。そうして互ひの眼を見合はせ、ふたりにしか聞こへぬ音の交はしたるやうに目棲を送り合ふております。
ふたりの童に挟まれし玉座には、ひとりの天が座しておられました。闇色をした絹糸のやうに流るる髪を結ひ上げ、手には金色のほそやかなる煙管を持ち、三つの目をもつその天こそ、死後に寄る辺なき人の罪を測り、魂の導となるる閻魔大王であられました。
王は突然の来訪者にたいそう驚かれたご様子であられ、しばし思案を巡らすやうに煙管を弄ばれておりました。煙管の先からは糸のやうにほそやかし紫色の煙が絶へ間なく吐き出され、ゆらゆらと揺らめく煙の先からは瑠璃色と黄金色の蝶が羽ばたき出でております。その煙の香でございましょうか、蓮と白百合の混ざり合ふたやはらかなる香で広間は満たされ、その香は文官にどこか懐かしき、遠けき彼方へと去りし記憶を思ひ起こさせるやうでございました。
文官が何も云へずにぼうと立ち尽くしておりますと、王は目を伏し、諦めしやうにこうべを振られ、とうとう口を開かれました。
「このふたりの童は倶生神と申す。人の善きこと、悪しきことを記録し、裁判を助くる双子也」
王に促され、倶生神と称す双子の童はおずおずとこうべを垂れました。
文官は己が冥土に参じた理由の解らぬことを王に述べ、現世還りができぬものかと申し出でました。王は目を伏したまま煙管を吸ひ、紫色の煙を音もなく吹くと、倶生神らになにやら指図をされました。やがて倶生神らはつるりとした厳しき玻璃の鏡をふたりがかりで運び参じ、それを文官の傍らに据へました。妙なることに、その鏡は王宮のきらびやかなる風景や、ふたりの倶生神、かの王は映し出すものの、文官の姿は鏡の中のどこにもございませぬ。
「浄玻璃鏡は冥土の御魂を映す鏡也。姿の映らぬならば、其方の御魂は冥土にあらず」
王は煙管から口を外すと、深く息をつかれ、こう云はれました。
「常世の者は常世へ、現世の者は現世へ、然るべき地にあるが摂理也。古より、常世と現世は然るべき座にありし星のつくらるる門によりて繋がれり。その頃、常世の者が現世へ、現世の者が常世へ生まるること無きにしもあらず。
されどこの頃星乱れ、星の門は閉ざされ、常世と現世は隔たれり。然すれば其方がこの地へ降りしは稀なることと覚ゆべし。天部たる我が力を以てども、其方を現世へと還すことは叶はぬ。其方が現世還りを望むであらば、この地にて命を断ち、再び現世へ生まるる輪廻を待つより他なし」
文官は思案を巡らせたのち、決心して、王に申しました。
「なれば、わたくしめが星の乱れを鎮めましょう。現世にあらぬ手立てが常世にあり、常世の者に見へぬものが現世の者には見へりと存じます。此度わたくしめがこの地に至りしは、星の導きでありましょう。どうか、わたくしめが現人の身のままこの地に留むるをお許しください」
王は目を瞑りしままに、文官の申し出を聞ひておられました。双子の倶生神らは揃ひて押し黙りて、王と文官とを遠慮がちに見比べております。幾ばくかの沈黙ののち、王は初めに口を開かれた時と同じく、もう一度軽くこうべを振られ、微かに口を動かされました。
「逃れんとすは、いと難し」
そして、初めて文官を真直に見据へ、口を開かれました。
「其方を我が臣下とし、冥界に留むるを認めん」
すると文官の右手の甲に、奇妙な紋が浮かびました。車輪のやうな形をしたそれは、倶生神らの手の甲に刻まれたる紋と同じでありました。
「その紋は我が臣下たるを示す。他の天部と見ふる折には紋を示し、王宮の冥官であると告げよ。
また冥界では鬼にその名を取らるるは魂を取らるるが故、偽名を名乗るが慣し也。して、其方の名を『揺光』とす。この地ではこの名を用ふるべし」
そう云はれると、王は紫色の煙をふうと吹き、忽ちその姿は幾羽もの輝く蝶となり、消へてしまはれました。
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