第8話:暴落のトリガー(パニック・セル)

 バルトレイ領の市場は、静かな地鳴りのような不安に包まれていた。

 ゼノスがリヒトから借りた一億エリスを使い、強引に物資を買い占めて「見せかけの豊かさ」を演出していたからだ。

「見ろ、棚にパンが並んだぞ! ゼノス様万歳だ!」

 領民たちが歓喜する声を、リヒトは隣国の高台から「鑑定」していた。

 彼の瞳には、市場に流れる通貨の**【実質価値:下落率35%】**という数字が赤く点滅している。

「クロエさん、準備はいいですか? 仕上げの時間です」

「ええ……。指示通り、この領地で発行されている『バルトレイ紙幣』を、市場で一斉に売りに出したわ」

 リヒトの戦略は単純かつ残酷だった。

 ゼノスが市場に一気に金を流したことで、領内の通貨供給量が過剰になった。そこへリヒトが、隠し持っていた旧来の債権を使い、バルトレイ紙幣を「他国の硬貨」へ大量に両替させたのだ。

 経済学で言うところの、**【通貨暴落(ハイパーインフレ)】**の誘発である。

 数時間後。

 市場の掲示板に、信じられない数字が貼り出された。

「な、なんだって……!? パン一個が、昨日の十倍の値段だと!?」

「金貨を出しても、お釣りがないって言われたぞ!」

 領民たちの歓喜は、一瞬にして怒号へと変わった。

 ゼノスが持っていた一億エリスの価値は、リヒトの操作によって、実質的に「一千万エリス」程度まで目減りしてしまったのだ。

 パニックに陥った商使たちが、公爵館へと押し寄せる。

「ゼノス様! 支払いを金貨でお願いします! 紙幣じゃ紙クズ同然だ!」

「うるさい! 黙れ! 私は一億も持っているんだぞ!」

 ゼノスが金庫を開ける。しかし、そこにあるのはリヒトが貸し付けた、今や価値を失いつつある「数字上の札束」だけだった。

「……鑑定しろ! この金の価値を調べろ!」

 新任の鑑定士が震える手で水晶をかざす。

【鑑定結果:信用崩壊により価値測定不能】

「ひ、ひぃぃっ! ゼノス様、このお金……もう、ただの紙です!」

 その報告を聞いたゼノスの顔から、一気に血の気が引いた。

 返済期限まで、あと十日。

 彼の手元に残ったのは、巨額の「紙クズ」と、怒り狂った領民たちだけだった。

 リヒトは手元の帳簿をパタンと閉じ、クロエに微笑みかけた。

「さて。そろそろ『買い叩き』の準備を始めましょうか」

【返済期限まで:残り10日】

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