第3話:摩擦ゼロの最短手順

大河原(おおがわら)が連行された後の教室は、不気味なほど静まり返っていた。



カーストの頂点から転落した佐竹は、もはや枢(くるる)の視界にすら入っていない。



「……九重、放課後、体育館裏に来い。一人でな」



声をかけてきたのは、ボクシング部主将の猪瀬(いのせ)だった。

失脚した佐竹と癒着していた彼は、この学園の「秩序」が書き換えられるのを防ぐため、実力行使に出ようとしていた。



(演算開始。猪瀬の平均パンチ速度、秒速十メートル。

 リーチ、八十五センチ。……単純すぎて、欠伸が出るな)



放課後。

西日に照らされた体育館裏には、猪瀬と、その取り巻きの部員たちが集まっていた。



「九重、お前が何をしたか知らねえが、ここは力(パワー)がルールの場所だ。

 賢いつもりでいるなら、そのツラをパズルみたいにバラバラにしてやるよ」



猪瀬が鋭いジャブを放つ。

繭(まゆ)は、少し離れた物陰から、頬を紅潮させてその光景を見つめていた。



枢は、一歩も動かない。

彼が事前に「最短手順」として用意したのは、スプレーではない。

理科室の床にワックスをかけるための、ごく一般的な「剥離剤」の残りだった。



(……足元のタイルのひび割れ、角度、十五度。

 猪瀬の踏み込み速度から逆算される、摩擦係数の限界値は――そこだ)



枢がわずかに足をずらす。

そこには、西日の反射で見えなくなっていた「極薄の油膜」が、タイルの継ぎ目に沿って一線だけ引かれていた。



「死ねッ!!」



猪瀬が渾身のストレートを叩き込もうと、右足に全体重を乗せて踏み込んだ、その瞬間。



――ガクンッ。



計算された「摩擦ゼロ」の領域に足をとられた猪瀬の体は、慣性の法則に従い、制御不能なまま前方へと滑り出した。



枢は、避けることすらしない。

ただ、猪瀬が滑り込む軌道の先に、あらかじめ「重心の支点」となるよう、重たい鉄製の跳び箱の踏切板を立てかけておいただけだ。



ドォォォォォォン!!



猪瀬は自身の拳の勢いを殺せず、さらに滑る足のせいで踏ん張りもきかず、そのままコンクリートの壁に自ら激突した。

自分の力(パワー)をそのまま自分のダメージへと変換され、猪瀬は白目を剥いて崩れ落ちる。



「……最短手順だ。自分の勢いに負けて自滅する。

 力(パワー)を誇るなら、せめて重力制御くらいマスターしてからにするんだね」



枢は一度も服を汚すことなく、無造作にその場を後にした。

取り巻きの連中が、あまりの「理解不能な光景」に、戦う意欲を失って逃げ出していく。



「……九重くん。最高だよ、やっぱり」



暗がりにいた繭が、音もなく枢の背後に寄り添った。

彼女は、倒れ伏す猪瀬の顔面を、まるでゴミを見るような冷たい目で見下ろす。



「ねえ、次は誰を壊す? 学園全体? それとも……この街の『バグ』、全部消しちゃう?」



繭の細い指が、枢の眼鏡の縁を愛おしそうになぞる。

彼女にとって、枢はもう「クラスメイト」ではない。

世界のバグを正しくデリートしてくれる、唯一絶対の「演算機(神)」だった。



(……やれやれ。手順通りに片付けたはずなのに、一番のイレギュラーは隣にいたな)



枢は溜息をつきながら、繭の手を振り払うこともせず、雨の降り始めた街へと歩き出した。

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