三月の告白予報

秘色

短編

 ★〜第一章:不安定な気象予報〜★



 三月の風は、少しだけ泣き虫だ。


 校門の桜のつぼみはまだ硬いのに、空気だけは妙に春めいていて、鼻をくすぐる。

 それは新しい季節の匂いであると同時に、もう二度と戻らない時間を告げる、少し切ない匂いでもあった。


 その春の空気が、私の心をひどく不安定にさせていた。


「明日、晴れるかな」


 私は屋上のフェンスに寄りかかりながら、独り言のように呟いた。

 コンクリートの壁はまだ冷たく、私の手のひらの熱を奪っていく。


 隣で、真央が呆れたように顔を上げた。彼女はいつものように、スマホでSNSのタイムラインをスクロールする手を止めて、私をじっと見つめている。


「天気予報じゃ、明日は晴れ時々曇り、降水確率二十パーセント。……で、何? その『晴れるかな』は、気象の話じゃないんでしょ?」


 図星を突かれて、顔が熱くなる。

 冷たい風に吹かれているはずなのに、耳の裏まで熱い。


「……明日、卒業式じゃん。だから」

「だから? 瀬戸川くんに言うんでしょ、告白」


 真央の直球すぎる言葉に、心臓がドクリと大きな音を立てた。

 私は慌ててその口をふさごうとしたが、真央は軽い身のこなしでひらりとかわし、ニヤニヤと笑っている。


「声が大きい! ここ、屋上だよ? 誰か来てたらどうするの」

「いいじゃん、もう最後なんだから。屋上に誰か来るなんてないし。……っていうか、あんた、三年も片思いしてて、このまま黙って卒業するつもり? ここで精算しなきゃ、一生後悔するよ」


 真央の言うことは、いちいちもっともだった。

 明日、私たちはこの学校を卒業する。


 瀬戸川くん――瀬戸川理人せとがわりひとくんは、クラスの委員長で、成績優秀、野球部のエース。

 私はといえば、目立たない図書委員で、成績は平凡。


 彼とは住む世界が違うと、自分に言い聞かせてきた。

 それでも、三年生の春、同じ図書委員になった日から、私の世界は彼を中心に回り始めた。


 図書室の窓から差し込む陽の光。本を探す彼の横顔。

 返却された本のページをめくる、綺麗な指先──。

 そのひとつひとつが、私にとっての特別な記憶だった。


 屋上の風が、私の前髪を乱す。遠くで、吹奏楽部の練習する音が聞こえる。

 もし、告白して振られたら──。


 いや──振られるに決まっている。


 だって、彼は私と話すとき、いつも少しだけ困ったような、優しい顔をするだけだから。


 それは特別な感情じゃない、誰にでも優しい彼だからこその表情かおだ。

 私なんて、彼にとって“クラスメイトの一人“以上の存在にはなれない。


「怖いなら、言わなきゃいいじゃん。別に告白しなきゃいけないルールなんてないし」

「……怖いよ。でも」

「でも?」


 真央が私の返答を待つように、問いかけてくる。


「明日言わなかったら、一生、彼を見上げるだけの関係になる。彼の中に、私は何も残らない。それも……怖い」


 私は小さく息を吐き、フェンスを握る手に力を込めた。

 手のひらに、冷たい金網の感触が残る。


 明日──卒業式。


 三月の告白予報は、晴れか、雨か。

 私の心はまだ、決まらないままでいた。



 ★〜第二章:青空と焦燥〜★



 卒業式当日。


 カーテンの隙間から差し込む光で目を覚ました時、胸の中にあったのは、澄み切った朝の爽やかさではなく、泥のように重く沈殿した不安だった。


 予想に反して、空は抜けるような青空だった。

 でも、私の心は曇り空のまま。体育館へ向かう上履きの音が、妙に重い。


 廊下に響く足音さえ、これから始まる『終わりの儀式』を急かしているようで、心臓がトクン、トクンと規則正しく──しかし鉛のように重い音を立てる。


 式の最中も、答辞を聞きながら、私の視線は自然と前方にある卒業生席の、瀬戸川くんの背中に吸い寄せられていた。


 整えられた髪、背筋の伸びた姿勢。


 ──ああ、もうすぐ、この背中を見つめることもなくなるんだ。


 校舎の隅で彼を隠し撮りしようとして失敗したこと、図書室で彼が選んだ本をこっそりチェックしたこと。

 そんなささやかな思い出が、走馬灯のように頭をよぎる。


 卒業証書授与が終わり、退場、そして最後のホームルーム。

 先生が最後の一人一人に証書を渡していく時間が、恐ろしいほど速く過ぎていく。


 担任の先生の言葉も、クラスメイトの涙も、今の私にはどこか遠い世界のことのように感じられた。


 ただ、時間が過ぎていくことへの焦りだけが、胸の中で膨らんでいく。

 私の時間は、彼と離れ離れになるこの瞬間に向かって、無情にも秒読みを続けている。


「それじゃ、解散!」


 先生の言葉とともに、教室は一気に喧騒に包まれた。

 写真を撮り合う声、別れを惜しむ声。

 あちこちで制服のボタンを交換する甘酸っぱい光景が繰り広げられている。


 私は自分の席で、カバンの中に隠した小さな手紙を握りしめていた。

 これは──渡せるんだろうか。


 指先が冷たく冷え切っている。


陽菜ひな、どうする?」


 真央が私の机に腰をかける。

 彼女はもう目を真っ赤にして、マスカラが少し滲んでいた。

 その姿を見て、自分の心臓がさらに激しく脈打つのを感じた。


「……探してくる」

「うん。行ってきな。……ダメでも、あんたの三年間は最高だったってことだから」

「うん……ありがとう」


 私は立ち上がり、椅子を引きずる音さえ大きく感じながら、教室を出た。

 廊下にはまだ卒業生や保護者であふれかえっていたが、私はただ、彼を探して歩いた。



 ★〜第三章:風に消えた言葉〜★



 彼の姿は、すぐに分かった。

 校舎の裏、桜の木の下で、野球部の後輩たちに囲まれている。


 彼が一番輝いている場所。

 彼は後輩たちから色紙や花束を受け取り、何度も頭を下げていた。


 そのたびに覗かせる、気恥ずかしそうな、でも嬉しそうな笑顔。

 私は、そこまで歩いていく勇気が出なくて、少し離れた廊下の角で立ち止まった。


 制服の袖をぎゅっと握りしめる。

 心臓がうるさいくらいに鳴っていて、自分の鼓動が耳の奥で響いている。


 彼に近づくにつれて、空気が冷たく感じられるのは、春のせいじゃない。

 それは、私の恋がここで終わってしまうかもしれないという恐怖のせいだ。


 待つこと十分ほど。

 ようやく後輩たちが去り、彼が一人になった。


 彼は手にした花束を見つめ、それから空を見上げた。

 深く息を吸い込むその背中が、今の私にはあまりに大きく、遠く感じられた。


 ──行くなら、今。


 今行かなきゃ、もう二度とチャンスはない。


 私は足を動かした。鞄の中で握りしめていた手紙の角が、手のひらに食い込む。

 彼に近づくにつれて、心臓の音はさらに激しくなり、吐き気すら覚えてきた。


「……瀬戸川くん」


 声をかけた。

 か細い声だった。


 彼はゆっくりとこちらを振り返る。

 その顔を見た瞬間、喉の奥がキュッと締め付けられた。

 この顔、この笑顔を、私は三年間ずっと追いかけてきたんだ。


「あ、高橋さん」


 彼はいつも通りの、優しい微笑みを浮かべた。

 その笑顔が、今の私には眩しすぎて、ひどく切ない。


 彼はきっと、私をクラスメイトの『高橋さん』として見ている。

 それ以上でも──それ以下でもない。


「……あの」

「なに?」

「……これ」


 私はカバンから手紙を取り出そうとした。

 中身は、彼への想いと、もしよかったら返事がほしいと書いた、精一杯の言葉──。


 でも、手が震えて上手く掴めない。

 手紙の端が少し折れてしまった。

 ただでさえ不器用な私が、さらに不器用になっている。


 どうして、もっと上手くできないんだろう。

 どうして──私はただの図書委員の女の子のままなんだろう。


「高橋さん?」


 彼が怪訝そうな顔をして、一歩近づいてくる。

 その距離が、私の限界を超えそうだった。彼が近づくたびに、私の心が叫び声を上げる。


 ここで伝えて、もし彼が困ったら。

 もし、その優しい笑顔が消えて、私を見る目が冷たいものに変わったら──。


 そんなの──嫌だ。

 思い出が、ひび割れてしまう。


「……何でも、ないの」


 声が、掠れた。

 自分でも何を言ったのかわからないくらい、小さな声だった。


「え?」

「何でも、ないの。……卒業、おめでとう」


 私は手紙をポケットに押し込み、逃げるように彼に背を向けた。

 あんなに練習した言葉も、隠し持っていた勇気も、全部、春風に消えていった。


 視界がぼやけて、涙がこぼれ落ちそうになるのを必死に耐えながら、私は早足でその場を去った。



 ★〜第四章:図書室の天気予報〜★



「待って、高橋さん」


 彼に腕を掴まれた。

 心臓が止まるかと思った。


 腕に伝わる彼の体温に、逃げようとした足が凍りつく。

 ゆっくりと、彼の方を振り向く。


 彼は、私の目を見ていた。

 いつもみたいに優しく笑っていない。


 少しだけ真剣な、でも、戸惑っているような、そんな目。

 私を呼び止めた彼自身も、まだ自分の気持ちに整理がついていないようだった。


「僕も……言いたいことがあった」

「え……?」


 頭が真っ白になる。


 ──瀬戸川くんが、私に?


「図書委員の時、本を探すふりして、何度も高橋さんの後ろ姿を見てた。本当は、高橋さんが借りた本に、メッセージを残したかったくらい」


 心臓が、跳ね上がった。

 全身の血が一気に顔にのぼる感覚。

 時が止まったような感覚──。


 校舎の裏を吹き抜ける三月の風が、私たちを包み込む。彼が掴んでいた私の腕の力が、少し緩んだ。


「だから……その、」


 彼は少し顔を赤くして、私の目をまっすぐに見つめた。

 それは、私がずっと憧れていた、でも私には向けられないと思っていた、特別で真っ直ぐな視線だった。


「明日、晴れたら……じゃなくて、今日、このあと。……図書室、空いてる?」


 それは、彼なりの告白だった。

 私は、呆然としたまま、小さく頷いた。

 震える手で、ポケットの中の手紙を握りしめる。


「……うん」


 三月の告白予報は──晴れ。


 私の初恋の結末は、ここではないどこか、これからの物語へと繋がっていく。



            〜〜〜おしまい〜〜〜

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

三月の告白予報 秘色 @itihiro1324

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ