第2話 夜に溶ける

授業中、ノートの端に視線を落とすたび、昨日のハルの筆跡が目に飛び込んでくる。


『影踏む帰り 息を白くす』

……あんなの、反則だ。


結局、学校にいる間、私は一度もハルと目を合わせられなかった。


休み時間の教室は、進路の話で騒がしい。


その輪の中にいるハルは、昨日図書室で私の和歌に下の句を付けた彼とは、まるで別人のように見えた。


約束、忘れてるのかな。そんな不安が胸の奥で小さく渦巻く。


けれど、放課後のチャイムが鳴り、校門を出てすぐの街灯の下。ハルは、自転車を引いて待っていた。


「……待った?」


「ううん。今、来たとこ」


ハルの鼻の頭は、寒さで少し赤くなっている。


私たちは、どちらからともなく歩き出した。


駅へと続く坂道は、下校する生徒たちの声が遠ざかるにつれて、しん、と静まり返っていく。


「これ」


ハルがポケットから取り出したのは、小さく折り畳まれたノートの切れ端だった。


差し出されたそれを受け取ると、指先がハルの指に一瞬だけ触れた。冷たいはずなのに、そこだけが熱い。


街灯の下で、私はその紙を開いた。


『言えぬまま 白く消えゆく この息の』


胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。


――「言えぬまま」。それは、私たちが飲み込んできた全ての言葉の代わりみたいだった。


「……続き、明日までに考えてくるね」


私は、その紙を宝物みたいに両手で包み込んだ。


空には、昨日よりも少しだけ欠けた月が昇り始めている。


――卒業まで、あと二十七日。私たちの和歌は、まだ始まったばかりだった。 




ハルから渡された画用紙の切れ端を、私は筆箱の中に大切に隠して持ち帰った。


「言えぬまま」


その四文字が、部屋の電気を消したあとも、まぶたの裏にスノームーンの光みたいに焼き付いて離れなかった。


――本当は、「好きだよ」って言いたかった。

 

本当は、「どこにも行かないで」って縋りたかった。


でも、卒業までのカウントダウンが刻まれる中で、そんな言葉を口にする勇気なんて、どこにもなかった。


翌朝、私は誰よりも早く教室に入り、凍える指でシャープペンを握った。


素直になれない自分を、そのまま言葉に閉じ込めるみたいに。


『行方も知らず 夜に溶けゆく』


結局、本音を言えないまま、想いは夜の闇に消えていくんだ。


そう自分に言い聞かせるような、冷たい下の句。


一時間目の休み時間。


廊下ですれ違ったとき、私は無言でそのメモをハルの手に押し付けた。


ハルは驚いたような顔をして、それから、少しだけ寂しそうに笑った気がした。


――あのときのハルの表情の意味を、当時の私はまだ、半分も分かっていなかったんだ。

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