第16話 一番の温度
スマホのアラームは七時半にセットした。電気を消して眠ったのは午前一時。それなのに私が目を覚ましたのは午前四時だった。こんな時間に目を覚ました理由は分からないけど、どうしてか意識もはっきりしている。このまま布団の中に戻っても眠れないような気がした。
「あれ?」
どうしたものかと辺りを見回してみると、隣の布団にはじめがいないことに気が付いた。トイレだろうか。それとも私と同じように目が覚めて散歩にでも行っているのか。
「いや、違うわね」
色んな可能性を考えたが、確信に似た天啓がそれらを否定し、一つの答えを与える。私はそれに従い、真っ暗な部屋から出て行った。
「やっぱりここに居た」
「いちか?」
露天風呂の湯煙の隙間から金髪が見える。広い温泉に顔だけ出して漂うはじめは、月のように優しく輝く金の糸を透明なお湯の中で天使の羽のように広げていた。綺麗だな。自由に羽を広げる彼女を絵画の中に閉じ込めれば、きっととんでもない値段が付くだろう。石畳の上を歩き、ゆっくり温泉につかる。するとすぐにはじめが肩を寄せてきて、温泉の中でも彼女の蜂蜜のような甘い香りがはっきりと感じられた。美しい天使は、私の隣に来た途端、ご機嫌に笑う大切な友達に早変わり。私はこっちのはじめの方が好きだった。
「もしかして起こしちゃってた?」
「ううん。勝手に目が覚めただけ」
ほんの少し触れたはじめの肩は温かくて、それなりの時間一人でいたことがわかる。私が起きた事とはじめが温泉に行ったことは何の因果関係もない。
「髪、温泉につけちゃダメでしょ」
「えへへ、貸し切りだし、一人だし、良いかなって思っちゃって」
「もう。はじめの髪、綺麗で目立つんだから気をつけなさいよ」
透明な温泉で金色に輝くはじめの髪はよく目立つ。あとで抜け毛が見つかったらトラブルになるだろう。でも、不思議なことにどこを見渡しても彼女の髪の毛は落ちていなかった。
「いったん上がってまとめようかな」
「別にいいわよ。何か言われたら誤魔化せばいいの」
私の指摘を受けて温泉から上がろうとするはじめを引き留める。本当なら温泉のルールに従うのが正しいに決まってるけど、彼女の長い髪が水滴で濡れている姿があまりにも綺麗だったから、誰かにかかる迷惑に目を瞑ってしまった。
「ヒーローなのに、いちかってばワルだね」
「実行犯はあんたよ」
「じゃあ、共犯だ」
はじめが悪戯っぽく笑って見せる。綺麗な花には棘がある。美しい羽と蜂蜜の香りに誘われて、まんまと犯罪の片棒を担がされてしまったようだ。でも、共犯ならせめて相応の報酬があるべきだろう。そんな理由を言い訳に、こっそり彼女の金髪に触れて、くるりと指に巻いてやった。金の指輪、なんて。一人遊びでクスリと笑った私をはじめは不思議そうに見つめていた。
まだ日は昇っていないけど、ほんのり夜空が明るくなってきた。静寂に包まれた露天風呂は妙な緊張感があって、今日はどうしようとか明るい話題で盛り上がることを許してくれない。そんな勝手な空気の決めつけと、旅先という解放的で密接な雰囲気が、静寂を切り裂く話題を選ばせた。
「どうして私が好きなの?」
はじめはずっと私が好きだと言い続けてきた。でも、それがどうしてなのかはまだ知らない。私がはじめと関わるようになったのは勝負を挑んだ日から。正直、あの勝負のどこに私に惚れる要素があったのだろうか。何度も挑んでは負ける姿は情けなかっただろうし、自分より圧倒的に弱い存在に興味がわくとも思えない。ずっと聞くタイミングがなかったこの話に、どんな答えが返ってくるのか。何の気なしに話題を振ったフリをして、その実、緊張していた。
「いちかはあたしのヒーローだから」
はじめは迷うことなくそう答えた。ヒーローって、魔法少女のことだろうか。でも、それなら私はむしろ助けられた方が多い。はじめが魔法少女に覚醒した時も、人型シャドウと戦った時も、私は助けられた側だ。ピンと来ていないところに、はじめはこう続けた。
「あたしの才能はみんなを傷付けちゃう。どうしたらみんなで笑えるようになるんだろうってたくさん悩んで、苦しんで、でも答えなんてなかった。もう全部がどうでもよくなってたの。だから、誰かを傷付けてもあたしは天才でいようって決めてた。そんな時に、いちかに出会ったの」
はじめの才能は規格外だ。勉強だろうと、スポーツだろうと、芸術だろうと、何年もの積み上げを一瞬で飛び越えていってしまう。それに心を折られた人間は嫉妬や敵意を向けてしまうものだ。私も同じようなことをされたが、はじめのそれは私の比ではないだろう。なにせ、負けて努力する私と違って、最初から勝ち続けるのだから。
天才として凡人を傷付け続ける。優しいはじめがそんな選択をしてしまうくらい追い詰められていた。その事実に胸が締め付けられる。
「いちかは本当に強くて、久しぶりに本気で勝負できて楽しかった。何度負かしても諦めずに戦ってくれて、あたしが諦めてた勝負の楽しさを思い出させてくれた。いちかが勝負してくれたおかげで、ありのまま笑えたの」
はじめての勝負。私から見て惨敗だったあの戦いは、はじめにとって自分の全力を出し切れた最高の勝負だったらしい。あの日のことを思い出すはじめの口元は柔らかい弧を描き、大事なものを抱くように胸元に手を当てていた。はじめは私のことになると認知が歪むなんて思ってたけど、全く人のこと言えないな。あの勝負で情けない姿を見せたと思っていたのは私だけだった。
「こんな出会い、もう二度とない。だからこの縁が切れないように気を遣ったりしたんだけど、いちかはその度にありのままのあたしでいいって言ってくれた。あたしに勝って、それを証明してくれた」
本気で戦えたと言っても、結局私は全敗した。孤独の中で現れた私という最後の希望は、当時のはじめからすれば酷く心許なかっただろう。
─いちかのこと、もっと好きになっちゃった
初めてはじめに勝った日に言われたことの意味をようやく理解する。あの日、私はようやくはじめが抱いていた希望を叶えられたんだ。
「あたしがずっと悩んでたこと、いちかのおかげでぜーんぶ解決しちゃった」
はじめが晴れ晴れとした笑顔で両手を大きく広げる。強さゆえの孤独に悩まされていた天才はもういない。今この瞬間をただひたすら楽しむだけの、可愛らしい女の子がそこに居た。
「だから、あたしはいちかが大好きなの」
はじめには何度も好きと言われてきた。はじめの愛は強くて、真っ直ぐで、眩しい。その愛の熱は、理由を知ったことで形を手に入れ、呑気していた私の心の衝突する。今まで感じた事の無い痛みが走り、自分の身体が自分のものじゃなくなっていった。走っていないのに心臓は激しく鼓動し、温泉に浸かったばかりなのに体に熱がこもり、金縛りになったように目の前の彼女から目を逸らせない。彼女の愛は無防備に受けていいものじゃなくなっていた。だって、私は答えに気付いてしまったのだから。
「……いま、何勝何敗だっけ」
「27勝169敗。でも、最近は五分だよね」
「覚えてるんだ」
「いちかとの勝負はどれも特別だから」
のぼせてるのかな。はじめの声が遠く感じるのに、深く響いてくる。特別に温度が灯る。この温度の名前は、何度も伝えられてきた。
「まだ、足りないわね」
人型シャドウを倒してから、私とはじめの勝率は五分。ようやく隣に立てたけど、今まで負け続けた分は取り返せていない。本当の意味ではじめと対等になるには、隣に立つまで待たせた分を取り返さなければならない。
「ねぇ、はじめ」
「んー」
はじめがゆったりとした口調で言葉を返す。答えを手にしても、私はまだこの言葉を伝えられない。でも、抱えておくにはあまりにも大きい。だから、ちゃんと話しておきたかった。
「絶対に追いつくから、待ってて」
「いちか……うん、わかった」
はじめの手を取って約束を交わす。はじめにもらったものはたくさんある。一番の先にある景色も、私の一番の意味も、はじめが居なかったら知ることができなかった。いま私が見えている景色の中心にははじめが居る。はじめにとっての私がヒーローなら、私にとってのはじめは世界を変えてくれたヒロインだ。
「待ってるから、迎えに来てね。私のヒーロー」
「もちろん。ヒーローは嘘つかないわ」
顔を出した太陽がはじめの笑顔を照らす。あぁ、やっぱり綺麗だな。この子の笑顔を守りたい。ずっと隣に居たい。言葉は変わらないけど、そこに込められた想いの形は変わっていた。
「二人だけのヒミツの約束よ」
「うん! 二人だけのヒミツ!」
トラ子もすずめも知らない、私とはじめだけのヒミツ。すっごく欲しがってたから、もうちょっと喜ぶと思ったけど、はじめはいつも全身全霊だから分かんないな。
あーあ、これで私は170敗目。私の一番は、はじめに奪われてしまった。
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