『俺達のグレートなキャンプ274 激流を素足で渡る!家族が止めに来て杉田も止めに来た(行かないで)』
海山純平
第274話 激流を素足で渡る!家族が止めに来て杉田も止めに来た(行かないで)
俺達のグレートなキャンプ274 激流を素足で渡る!家族が止めに来て杉田も止めに来た(行かないで)
午前十一時。岐阜県某所、川沿いのキャンプ場。
川の音がうるさい。とにかくうるさい。ごうごうと、どこまでも途切れない水の音が、キャンプ場全体に響き渡っている。昨日まで続いた雨のせいで水量が増しているらしく、川幅いっぱいに茶色がかった水が勢いよく流れていた。水面が白く泡立っている箇所もある。見るからに、近づいてはいけない川だった。
富山はその川を見て、サイトに到着した瞬間から嫌な予感がしていた。
石川も川を見ていた。
石川の目が、ぎらぎらしていた。
「グレートだ」と石川が言った。
「何が」と富山が言った。
「この川が」
「…………」
富山は何も言わなかった。言う必要がなかった。この目を知っている。この目をしている石川が「グレートだ」と言うとき、ろくなことが起きたためしがない。富山は黙ってテントの設営を始めた。早めに動いておかないと何かに巻き込まれる。富山の本能がそう告げていた。
千葉は川を見て「水多いですね」と言った。それだけ言って、焚き火台の組み立てを始めた。千葉はいつもそうだ。石川の目がぎらぎらしていても動揺しない。「へえ」と「なるほど」と「それ楽しそうですね」の三つしか持っていない男だ。
テントを立て、荷物を整理し、昼飯を食べた。川沿いのキャンプ場は空気がひんやりしていて気持ちがよかった。水の音さえなければ。いや水の音があっても悪くはないのだが、今日に限っては水の音を聞くたびに富山の嫌な予感が三ミリずつ大きくなっていった。
昼飯を食べ終えたところで、石川が口を開いた。
「今回の暇つぶしを発表する」
「……聞きます」と千葉。
「……聞きたくない」と富山。
「激流を、素足で渡る」
沈黙があった。
川の音だけがごうごうと響いていた。
「……素足で」と富山が繰り返した。
「素足で」
「あの川を」
「あの川を」
「今の、増水してる状態で」
「増水してるから面白い」
「面白くない!!」
富山の声が裏返った。石川はびくともしなかった。千葉が「激流って、どのくらいの深さを想定してますか」と真剣な顔で聞いた。こういうとき千葉の質問は大体、止めるためではなく参加するための確認だ。富山は千葉を見た。千葉はにこにこしていた。だめだこいつも乗り気だ、と富山は思った。
「石川、本気で言ってる?」
「本気」
「あの川、昨日の雨で増水してるよ。普通に流されるよ」
「流されたらそれもグレートだ」
「グレートじゃない!!死ぬ!!」
「大げさ」
「大げさじゃない!!」
富山が立ち上がった。腰に手を当てた。石川を真正面から見た。石川は涼しい顔をしていた。川を見ながらコーヒーをすすっていた。この男の顔のどこにも「やめようかな」という感情が存在していなかった。
富山はため息をついた。深くて長いため息だった。肺の底まで絞り出すようなため息だった。
「……絶対に一人で渡らないで。千葉くん、ロープ出して」
「あ、富山さんも来るんですか」
「来ない!!ロープで繋いで岸で待つの!!」
千葉が「了解です!!」と言って荷物からロープを引っ張り出した。なぜキャンプ道具にロープが入っているかというと、石川がいつも「いざというとき用」として持参しているからだ。そして今日、そのいざというときが来た。
川岸に移動した。
三人が川のそばに立った。間近で見ると、川の迫力が段違いだった。水が岩にぶつかって白い飛沫を上げ、ごうごうという音が体の芯まで響いてくる。水の色は茶褐色で、底が見えない。川幅は十メートルほどだが、真ん中あたりは明らかに流れが速い。
「……本当に渡るつもり?」と富山がもう一度聞いた。最後の確認だった。
「渡る」と石川が言った。即答だった。
石川が靴を脱いだ。靴下も脱いだ。ズボンのすそを膝上まで折り上げた。準備が整っていた。というか靴を脱いだ瞬間に「ああこの人は絶対渡る」と富山は悟った。
千葉がロープの片方を石川の腰に結んだ。もう片方を自分の腰に結んだ。
「千葉くん!あなたも結ぶの!?」
「石川さんが流されたら一人では止められないので」
「それはそうだけど!!あなたまで流されたら!!」
「僕が流されたら富山さんが止めてください」
「私まで流されるじゃん!!」
千葉がロープのもう片方の端を富山に渡した。富山はそれを受け取ってしまった。受け取ってしまったからには、もう岸で踏ん張るしかなかった。富山は大きな岩に背中を預け、ロープを両手でしっかり握った。表情が完全に「これは事故だ」という顔になっていた。
そのとき、川上の方から声がした。
「あ、あの!!」
三人が振り返った。
川沿いの遊歩道を、一家族が歩いてきていた。父親、母親、そして小学校低学年くらいの男の子と女の子。父親がこちらに向かって手を振っていた。表情が心配そうだった。
「危ないですよ!!今日は水量多いので!!」
「大丈夫です!!」と石川が川に足を入れながら言った。
「だ、大丈夫じゃないですよ!!」父親が早足で近づいてきた。「昨日の雨で増水してて、昨日も子どもが足を取られて——」
「ロープ付けてるから大丈夫です!!」
「ロープ付けてても流されますよ!!!」
父親がロープを見た。ロープの先に千葉が繋がっていて、千葉のさらに先に富山が岩に背中を預けて踏ん張っているのを見た。その構図を五秒ほど眺めた後、「……なんですかこれ」と言った。困惑と心配が五分五分の声だった。
「グレートなキャンプです!!」と石川が言った。すでに足首まで川に入っていた。水が冷たいのか、顔が少し引き攣っていたが目は輝いていた。
「ぐ……グレート……」
父親が母親を振り返った。母親が「あなた、止めてあげて」という目をした。父親が「止めようとしてるんだけど」という目をした。男の子が「パパあの人川入ってる!!」と無邪気に言った。女の子が「すごーい」と言った。
そのとき、遊歩道の少し離れたところから、もう一つの声がした。
小さな声だった。でも確かに聞こえた。
「あ、あ、あの……」
全員が振り返った。
木立の影に、くすんだグリーンのアウタージャケットを着た人影が立っていた。帽子を目深にかぶって、大きなバックパックを前に抱えて、足が半歩前に出たまま止まっていた。
杉田千秋だった。
杉田千秋が、また、いた。
(い、いた……!!あの人たち、いた……!!石川さんと富山さんと千葉さん……!!また会った……!!また会ったよ……!!でもなんで川に入ってるの石川さん……!!なんで川に入ってるの……!!増水してるのに……!!止めないといけない……!!でも知らない家族もいる……!!わ、わたし、何て言えば……!!)
石川が杉田を見た。
目が輝いた。
川に膝まで入った状態で、輝いた。
「千秋さん!!」
「ひゃっ!!い、い、石川さん……!!あの、えっと、そ、そこ、危な——」
「来てたんですか!!グレートだ!!」
「グ、グレートじゃないです!!で、出てきてください!!あの川、増水して——」
「大丈夫!ロープ付けてるから!」
「ロープ付けてても流されます!!」
父親が杉田を見た。「知り合いですか」という顔をした。杉田が父親を見た。「知り合いです、たぶん」という顔をした。たぶん、という顔をするあたり、杉田と石川達の関係性が端的に表れていた。
富山がロープを握ったまま「千秋ちゃん!止めて!この人の言うこと聞かないから!」と叫んだ。
杉田は一瞬フリーズした。
(富山さんに「千秋ちゃん」って呼ばれた……!!ちゃん付け……!!うれしい……!!じゃなくて!!止める!!止めなきゃ!!でも何て言えば……「危ないです」は言った、「出てきてください」も言った、次は……「お願いします」?「頼みます」?「命が大事です」?「命が大事です」はちょっと重いかな……でも重くないか今の状況……!!)
石川は川の真ん中に向かってじりじりと進んでいた。水が腰近くまで来ていた。流れが速くて、足を一歩前に出すたびに体がぐらつく。それでも顔が楽しそうだった。完全に楽しそうだった。
千葉がロープをぴんと張りながら「石川さん、流れ速いですよ!」と言った。
「知ってる!!だから面白い!!」
「流されたら止めます!!」
「頼む!!」
この二人の会話が成立しているのが富山には信じられなかった。
父親が「あの、本当に危ないので……」と石川に呼びかけた。石川には届いていなかった。川の音がうるさすぎて。
そこへ、第一のハプニングが来た。
石川が、岩を踏んだ。
川底の、苔のついた岩を。
右足が、ズルッ、と滑った。
「あ゛ッ」
石川の体が、傾いた。
「石川さん!!」と千葉が叫んだ。
ロープがぴんと張った。千葉が後ろに引っ張られた。千葉の後ろで富山がロープを握りしめたまま「う゛ッ」と前に引かれた。富山が岩に踏ん張った。三人がロープで繋がったまま、一瞬、川の流れに持っていかれそうになった。
父親が反射的に富山のロープを掴んだ。
母親が「あなた!!」と叫んだ。
男の子が「わあ!!」と興奮した声を出した。
杉田が「あ゛ッ」と言った。言いながら、気づいたら川岸を駆けていた。石川のすぐそばまで来て、川に半分足を突っ込んだ状態で石川の腕を掴んだ。
石川はなんとか体勢を立て直した。
全員が止まった。
川の音だけがごうごうと鳴っていた。
「……大丈夫ですか」と杉田が言った。息が少し荒かった。足が川に浸かっていて、冷たそうに眉をひそめていたが、石川の腕を離さなかった。
「……大丈夫」と石川が言った。
「で、で、出てきてください」
「……うん」
石川は素直に岸に戻った。
富山が「石川ァ!!」と叫んだ。怒りと安堵が半々の声だった。
千葉が「惜しかったですね!!」と言った。惜しかった、という感想を持てるこの男がすごいと富山は思った。
父親がロープを離した。ほっとした顔をしていた。「大丈夫でしたか」と石川に言った。石川が「大丈夫です、ありがとうございます」と言った。
杉田は石川の腕を離した。離してから、自分が川に足を突っ込んでいることに気づいて「ひゃっ」と声を出して岸に上がった。靴がびしょびしょになっていた。
(靴が……濡れた……でも、大丈夫だった……石川さん大丈夫だった……よかった……!!でも靴が……濡れた……)
「千秋さん、靴!」と富山が駆け寄ってきた。「ごめんね、濡れちゃった!」
「い、いえ、ぜぜ全然……! あの、えっと、だ、大丈夫、です……靴下、予備、あるので……」
(予備の靴下はある、ある、でも靴がびしょびしょなのは靴下を替えてもあまり変わらない……まあでも、大丈夫、大丈夫……石川さんが流されなかったから大丈夫……)
石川が杉田を見た。杉田が石川を見た。
「ありがとう」と石川が言った。
「い、いえ……あの、あ、ありが——」
また「ありがとう」と言いそうになった。杉田は口を閉じた。深呼吸した。
「……どういたしまして」
「靴、乾かします。焚き火で」
「あ、えっと……で、でも私、自分のサイトが——」
「一緒にキャンプしましょう」
(また!!!!また言われた!!!一緒にキャンプしましょうって!!また言われた!!でも今日は靴が濡れてるし、靴を乾かしてもらえるなら助かるし、それに……それに……)
杉田の視線が、父親一家に流れた。父親がこちらを見ていた。母親もこちらを見ていた。子どもたちもこちらを見ていた。四人分の「この人たちは何者?」という視線が杉田に刺さった。
(知らない家族の人たちも見てる……!! 返事しなきゃ……!! 石川さんに返事……!!)
「……は、はい」
石川がにやりとした。「グレート」と言った。
一家の父親が「あの……」と恐る恐る声をかけてきた。
「何ですか」と石川が振り返った。
「えっと……こちらの方々は、その……大丈夫な人たちですか?」
意味深な質問だった。「大丈夫」の定義が複数あり得る質問だった。
石川が「大丈夫です。グレートなキャンパーです」と答えた。
父親が「グレートな……」と繰り返した。理解できていない顔だった。
千葉が「よかったら一緒にお茶でもどうですか!」と一家に向かって言った。
富山が「千葉くん!!急に!!」と言った。
千葉が「だって助けてくれましたよね、ロープのとき」と言った。
それはそうだった。父親がロープを掴んでくれなければ富山が引っ張られていた。富山は「……そうだけど」と言った。言い返せなかった。
父親が母親を見た。母親が「せっかくだし」という顔をした。子どもたちが「行く行く!!」と言った。
こうして、川沿いのキャンプ場に妙な集団が出来上がった。
石川・富山・千葉の三人。杉田千秋。そして父親の田中さん、母親の田中さん、小三の男の子・健太、小一の女の子・さくら。合計八人。
サイトに戻り、焚き火を起こし、杉田の靴を火のそばに置いた。靴下も脱いで並べた。杉田は靴下を脱いだ足を焚き火に向けてぼんやりしていた。隣で健太がじっと杉田を見ていた。
「おねえちゃん、なんで川入ったの」と健太が言った。
「あ、えっと……そ、そこの人が、川で、滑って……」
「石川のおじさん?」
「おじさん……」と杉田が呟いた。
「石川のおじさんがすべったの?」
「そ、そうです……」
「ぼく見てた! すべってた!!」
「う、うん……」
「おねえちゃん速かった! 走ってた!!」
(走ってた……そうか、私、走ってたのか……自分でも気づかないうちに……なんか、反射的に……前回も杉田さんが焚き火台を支えてくれたって石川さんが言ってたし、私、わりと体は動くのかもしれない……)
「すごかったよ!!」と健太が言った。満面の笑みだった。
「あ……あ、ありが……」
杉田が「ありがとう」を言いそうになって止まった。この場合は言っていいのか?でも子どもに「ありがとう」って……いや言っていい、言っていい、子どもに「ありがとう」は普通だ……
「……ありがとう」
「どういたしまして!!」
健太が元気よく言った。杉田は少しだけ笑った。子どもは会話が早くて助かる、と思った。
田中父が石川に「先ほどは本当に危なかったですよ」と言った。石川が「ありがとうございます、助かりました」と言った。珍しく素直だった。
「でも、なんで渡ろうとしたんですか……?」
「グレートなキャンプをしたかったので」
「グレートな……」
「普通のキャンプじゃつまらないので」
田中父が「はあ……」と言った。「キャンプに激流を渡る要素が必要なんですか」と聞いた。
「必要じゃないけど、あったらグレートになる」
「グレートになる……」
田中父はこの会話の着地点が見えなくなってきた顔をしていた。田中母が「でも楽しそうですね、グレートなキャンプ」と言った。石川が「グレートですよ」と言った。田中母が笑った。
お茶を飲んだ。田中家が持ってきたお菓子が出てきた。さくらが杉田のそばに来て「おねえちゃん、これ食べる?」とお菓子を差し出した。
「あ、あ、あ……た、ありがとう……!」
今度はちゃんと言えた。杉田が受け取った。さくらがにこっと笑った。
(かわいい……!! さくらちゃん、かわいい……!! 子どもって、こう、なんか、ストレートで……怖くない……!! 大人相手だと何て言おうとかどう思われるかとか考えすぎて詰まるのに、子どもだとなんか、するっと言葉が出る……!!)
さくらが杉田の隣に座った。当然のように座った。杉田は少しびっくりしたが、悪い気はしなかった。
石川が「次の暇つぶしを考える」と言った。
「激流渡りは諦めたの」と富山が聞いた。
「今日は無理だと思った」
「珍しく諦めた」
「流されたら千秋さんにまた迷惑かける」
杉田がびくっとした。名前を出された。「め、迷惑じゃ、ないです……」と言いかけて止まった。
(迷惑じゃない……でも靴は濡れた……靴は濡れたけど、迷惑とは違う、と思う……なんか、まあ、うん……迷惑じゃないです、言えた方がいいな、言おう……)
「め、迷惑、じゃないです」
「靴、濡れた」と石川が言った。
「あ、あ、あれは……自分で入ったので……」
「なんで入ったの」
「……え、あの、その……石川さんが、すべって、たから……」
「助けてくれた」
「……べつに、あの、えっと、反射、で……」
石川がじっと杉田を見た。杉田が目をそらした。帽子のつばを引っ張った。
「ありがとう」と石川がもう一度言った。
(また言われた……!! どういたしまして、どういたしまして、どういたしまして……言え……!!)
「……ど、どういたしまして……!!」
言えた。
石川がにやりとした。「グレートだ」と言った。
(グレートって言われた……何がグレートなのかよくわからないけど……でも、なんか……)
杉田は帽子のつばを引っ張った。でも顔がほころんでいた。さくらがそれを見て「おねえちゃんかわいい」と言った。杉田が「ひゃっ」と言った。
昼過ぎから夕方にかけて、キャンプは続いた。
石川が「次の暇つぶしは魚を素手で捕まえる」と発表した。川に入るのではなく、浅瀬で。富山が「浅瀬ならいい」と言った。田中父が「それなら子どもたちも一緒にやりたい!」と言った。健太が「やるやる!!」と飛び跳ねた。さくらが「わたしも!!」と言った。
川の浅瀬に全員で移動した。さくらが杉田の手を引いた。当然のように引いた。杉田が「あっ」と言った。でも引かれるままついていった。
(手、引かれた……!! さくらちゃんに……!! 小さい手だ……あったかい……!!)
浅瀬での魚の素手捕まえは、大変な結果をもたらした。
石川が一番本気だった。腰を落として、じっと水中を見て、来た、と思った瞬間に手を突っ込んだ。魚が逃げた。もう一回。逃げた。もう一回。逃げた。五回やって五回逃げた。
「石川さん、魚に全部気づかれてます」と千葉が言った。千葉は二回目でなぜか一匹捕まえていた。「こういうのは気配を消すのが大事で——」
「うるさい」と石川が言った。
田中父が「私もやってみていいですか」と参加してきた。田中父も逃げられた。健太が「ぼくも!!」と言って飛び込んだ。ただの飛び込みになっていた。魚が全部逃げた。石川が「健太くん!!ちょっと待って!!」と言った。健太が「えへへ」と言った。石川と健太の相性が不思議とよかった。
さくらが杉田に「おねえちゃんもやる?」と聞いた。
「あ、わた、私は……見てます……」
(魚、捕まえたことない……水に手を突っ込むのは……できる、できるけど……冷たいし……でも、さくらちゃんが聞いてくれてるし……)
「いっしょにやろ!」とさくらが言った。
「あ、え、でも——」
「いっしょにやろ!!」
さくらが杉田の手を引いて川に入った。杉田がついてきた。杉田の靴はまだ乾いていなかったが、さくらの引っ張る力が意外と強かった。
(入ってしまった……!! でも、まあ、どうせ靴はもう濡れてるし……!!)
さくらと杉田が並んで水中をのぞき込んだ。
「あ、いた!!」とさくらが言った。
「ど、どこ……?」
「そこ! そこの、石の横!!」
「あ……いる……」
「とって!!」
「え、あ、わ、私が……?」
「おねえちゃん速いから!!さっき走ってたもん!!」
(さっきの話が来た……!! 確かに、速かった……でも魚と激流を救うのは違う……でも……さくらちゃんが……!!)
杉田がそっと手を水に入れた。ゆっくりと、魚に近づいた。魚が動いた。杉田の手が動いた。
ぱしゃっ。
「あ゛」
魚が逃げた。
「おしい!!」とさくらが言った。
「あ、あ、あ……ご、ごめん……」
「もう一回!!」
「あ、う、うん……!!」
石川が横目でそれを見ていた。
(千秋さん、さくらちゃんとはすらすら喋れてる)と石川は思った。(グレートだ)とも思った。
そして第二のハプニングが来た。
健太が「見て!!でかいの見つけた!!」と言いながら、足を滑らせた。
「健太!!」と田中父が叫んだ。
健太がばしゃんと転んだ。浅瀬だったので深さは膝くらいだったが、全身びしょびしょになった。健太が「つめた!!」と叫んで大笑いした。泣かなかった。むしろ楽しそうだった。
その拍子に、健太の近くにいた石川も巻き添えをくらって盛大に水を浴びた。
「あ゛ッ!!」
「いしかわのおじさんごめん!!」と健太が笑いながら言った。
「……おじさんじゃない」と石川がずぶ濡れになりながら言った。
富山が岸で「あーあ」と言った。笑っていた。千葉が「着替え取ってきます!!」と言って駆け出した。田中母が「うちにタオルあります!」と言った。さくらが「パパもー!!」と言った。田中父も足元を濡らしていた。
杉田はその光景を見て、何かが内側からこみ上げてくるのを感じた。笑い、だった。
(笑いそう……!! 笑っていいのかな……!! でも笑える……!!ずぶ濡れの石川さんと健太くんが並んでて……「おじさんじゃない」って……!!)
杉田がぷっと噴き出した。
声を出して笑った。
大きくはなかったが、確かに笑い声だった。
富山が杉田を見た。目が少し丸くなった。それから富山も笑った。
「石川がずぶ濡れになるのは毎回恒例なのよ」と富山が言った。
「ま、毎回……?」
「毎回。前回は雨に打たれながら山菜採りしてた」
「さ、山菜……」
「その前は川で転んで——あ、今回も川で転んだんだっけ」
「……パターン、あるんですね」
「あるある。水に縁がある人なのよ石川は」
「でも毎回楽しそう、ですよね……」
「楽しそうなのよ。それが一番困る」と富山が言った。困ると言いながら笑っていた。
(富山さんと、喋れてる……!! 普通に、喋れてる……!! 前回より、ずっと……!!)
夕飯の時間になった。
田中家が「一緒に食べましょう」と言った。石川が「グレートだ」と言った。富山が「あなたが誘ったんじゃないんだけど」と言った。
田中家の夕飯材料と石川達の夕飯材料が合わさって、なんとも豪勢な川辺の夕飯になった。田中家のホイル焼きと、石川達のスープと、千葉が川で捕まえた一匹の魚を塩焼きにしたものが並んだ。
健太が「いしかわのおじさんが捕まえた魚は?」と聞いた。
「……捕まえられなかった」と石川が言った。
「ぼくも!!」と健太が言った。「おじさんと同じだ!!」
「おじさんじゃない」
「えへへ」
石川と健太の攻防が繰り広げられる中、杉田はさくらの隣に座って夕飯を食べていた。さくらがホイル焼きをスプーンですくって杉田の皿に乗せた。当然のように乗せた。
「あ、さ、さくらちゃん、ありがとう……」
「どういたしまして!!」
(さくらちゃんと「ありがとう」「どういたしまして」ができてる……!! これが自然にできてる……!! すごい……私がすごいというよりさくらちゃんがすごいんだけど……!!)
焚き火が揺れた。川の音が遠くに聞こえた。八人分の話し声と笑い声が混ざり合って、なんだかにぎやかだった。
食後、田中家が「そろそろ」と立ち上がった。健太が「もっとあそびたい!!」と言って田中父に「また明日ね」となだめられた。さくらが杉田に「またね」と言った。
「また、ね」と杉田が言った。
さくらが手を振って去っていった。田中父が「楽しかったです、ありがとうございました」と言った。田中母が「石川さん、次は無茶しないでくださいね」と言った。石川が「しません」と言った。富山が「絶対します」と言った。
田中家が去った。
残り四人になった。焚き火のそばで、しばらく黙ってコーヒーを飲んだ。
「また会いましたね」と千葉が杉田に言った。
「あ、うん……また、あいました……」
「不思議ですよね」
「ふ、不思議ですね……日本、広いのに……」
「千秋さんがキャンプ場の趣味が俺達に近いんだと思う」と石川が言った。
「そ、そうかも……しれないです……私も、川沿いとか、山間のとか、そういうの好きで……」
「グレートな趣味だ」
「……グレート……」
(グレートな趣味……私の趣味が……グレート……なんか、なんか、そういう言い方、されたことなかったから……)
杉田はコーヒーカップを両手で持って、川の方を見た。水の音がずっとしていた。さっきまで怖い音に聞こえていたのに、今は少し違って聞こえた。
「あの、石川さん」と杉田が言った。
「うん」
「激流、渡りたかったんですか……今でも」
石川がすこし間を置いた。
「渡りたかった」
「……なんで、ですか。危ないのに」
「面白そうだから」
「……面白い、かな……」
「千秋さんはやってみたいと思わなかった?」
(やってみたいと……思ったか……? わからない……怖いとは思った……でも……でも石川さんが入っていくとき、なんかこう……ちょっとだけ、どうなるんだろうって、見てた……気が……する……)
「……少しだけ」と杉田が言った。
「少しだけ?」
「少しだけ……どうなるんだろうって、思いました……怖かったですけど」
「じゃあ今度水量が少ないときにやろう」
「え、あ、え……!?」
「ロープ付けて。今度は流されない」
「え、え、え……」
(今度……今度もキャンプがあるの……? 今度も一緒に……? でも激流は……激流はちょっと……でも、水量が少ければ……少なければ……少なければ……?)
「少なければ、少しなら……」
「グレートだ」と石川が言った。即座に言った。
富山が「またそうやって巻き込む」と言った。呆れた声だったが笑っていた。
千葉が「次のキャンプも来てくださいよ!!」と言った。
杉田は帽子のつばを引っ張った。隠し切れなかった。
「……来ます」
川の音がごうごうと鳴っていた。焚き火がゆらりと揺れた。
杉田千秋は今日、石川の腕を掴んで川に半分入り、さくらに手を引かれて浅瀬に入り、魚を一匹逃がし、声を出して笑い、富山と普通に喋り、少しだけ激流を渡りたいと思った、と言った。
全部、前回できなかったことだった。
(……私、前回よりしゃべれてる……気がする……声も、出てた……気がする……さくらちゃんのおかげかもしれないけど……健太くんのおかげかもしれないけど……でも……でも、少しだけ……)
翌朝、杉田が一番先に起きた。湯を沸かし、コーヒーを淹れ始めた。テントのジッパーが開いた。石川だった。
「おはよう」
「お、おはようございます」
「昨日より更に喋れてる」
「そ、そうですか……? えっと……」
杉田は少し考えた。
「……きのう、さくらちゃんと喋ってたら、なんか、慣れた、気がして……」
「さくらちゃんに教わった」
「……おかしいですか」
「全然」
石川はコーヒーを受け取った。今日は自分で持てた。
「グレートな成長だ」と石川が言った。
(グレートな成長……私の成長が……グレート……)
杉田は帽子のつばを引っ張った。川の音がした。昨日より少し、水量が落ち着いていた。
「……水、少し減りましたね」と杉田が言った。
石川が川を見た。目がぎらりとした。
「千秋さん」
「……あ、ちょっと待ってください」
「待てない」
「待ってください!!」
富山がテントの中から「石川また何かやろうとしてる!?」と声を上げた。千葉が「石川さーん!!一緒にやります!!」と言いながらテントから転がり出てきた。
川の音がごうごうと鳴った。
今日もグレートなキャンプが始まろうとしていた。
『俺達のグレートなキャンプ274 激流を素足で渡る!家族が止めに来て杉田も止めに来た(行かないで)』 海山純平 @umiyama117
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