第50話 【福利厚生の罠】

光の坂道の終端、そこには「それ」がいた。


光の正多面体。虚無の核。この理不尽な役務を引き起こしている、元凶のCEO。何の防備もなく、ただ悠然と、そこに「在る」。


「……はぁ、はぁ、はぁ……ッ!」


背中で、聖女が過呼吸気味に喘いでいる。彼女が敷いてくれた光の道は、もうない。ここが終着点だ。


射程圏内。目の前の「白いやつ」は、実体がない。概念的な存在だ。


だからこそ、ここからは聖女の仕事だ。彼女が『境界』を付与し、こいつを「殴れる物体」として定義する。そうすれば、俺の最後の一撃が、こいつを粉砕する。


俺は背中の聖女へ意識を向けた。合図はいらない。彼女なら、分かっている。


さあ、やれ。線を引け。こいつを「在る」ものにしてくれ。俺に、タスクを終わらせさせてくれ。


「……はいッ!」


聖女が悲痛な気合と共に杖を掲げると、その先端が最後の魔力を振り絞って輝いた。


「境界よ……画定せよ! 其は……!」


カッ……。杖の先から金色の光がほとばしろうとした、その刹那。


シュン。


間の抜けた音がして、光が消えた。杖の先端から、黒い煙のようなものが頼りなく立ち上るだけ。


「……え?」


聖女の呆然とした声が空気を震わせる。


「あ……あれ……?」


彼女は必死に杖を振るが、カチカチと空虚な音が鳴るだけだ。


「なんで……出ない……?」


俺は、悟った。


魔力枯渇だ。ここまで来るのに、彼女はリソースを使いすぎた。道を作り、加速させ……その全てを、移動コストだけで吐き出してしまったのだ。


「う、そ……」

「ごめんな、さい……デスナイト、様……」


彼女の声が、絶望に震える。


俺は、振り上げていた左拳をゆっくりと下ろした。


目の前には敵がいる。手は届く。だが、殴れない。そこにあるのは「無」だ。定義されていないデータだ。俺の拳は、虚しく空を切るだけだろう。


詰んだ。あと一歩。なのに、決定的なリソース不足(予算切れ)で、プロジェクトが凍結した。


全身の骨が軋む音がする。魂を燃やした熱が急速に冷め、徒労感が見えない鉛となって全身にのしかかった。


終わった。俺たちはここで燃え尽きて、ただのゴミとして処理されるのか。


その時。静止していた白い多面体が、キィンと高く鳴いた。


《……個体識別名『デスナイト』》


鼓膜を介さず、脳内に直接声が響く。性別も年齢も感じさせない、合成音声のようなフラットな響きだ。


《観測した。其方の行動原理は『安息への希求』である。……なぜ、抵抗する? 》


問いかけられ、俺は眉をひそめた。なぜだと?


《此方(こなた)の目的は、この世界の『苦悩』の総量をゼロにすることだ。生命活動に伴う摩擦、競争、疲労。それらを全て消去し、完全なる静寂をもたらす》


光が明滅する。


《それは、其方(そなた)が求めていたものではないか? 》


《其方を融合したいと望む。さすれば、其方は二度と働く必要はない。軋む骨も、精神の摩耗も、他者との煩わしいコミュニケーションも、全て不要となる。》


《個体識別名『デスナイト』。それは死ではない。夢の世界への移住である。其方が望む夢を用意しよう。》


甘い。あまりにも甘美な提案だ。


それは究極の早期リタイアであり、一生分の生活費を保証され、南の島で暮らすようなものだ。断る理由があるか?


俺の拳を持つ手が下がる。そうだ、もう疲れたんだ。ここまで頑張ったんだから、もういいだろう。


ふと、前世の記憶が脳裏をよぎる。上司の顔だ。


「有給? いいよ、取って。ただし、携帯は繋がるようにしておいてね」

「今日はもう帰っていいぞ。……明日は早出だがな」


……あ゛?


思考にノイズが走る。心臓があったはずの空洞に、ぞっとするような冷たい風が吹き抜けた。


あれは「休み」ではなかった。次の労働のために、効率よく回復させるための「メンテナンス期間」だったのだ。


管理された休息。許可された安息。それは、主導権が自分にない状態だ。


この「神」が提示しているのも、同じではないか?


「苦痛を消す」という目的のために、俺をシステムに組み込み、静止状態で「保存」する。


それに……「死では無い」と言ったな。ならば、こいつの都合で、また呼び戻されるという事じゃないのか?


それは休んでいるのではない。「在庫」として棚に並べられているだけだ。


「……デスナイト、様?」


聖女の震える声が、鼓膜のない耳を打つ。彼女は俺を見ている。システムの声が彼女には聞こえていないのか、不安そうだ。でも、何が起きているのかを確認しようとはしない。


その絶対的な信頼が、逆に俺の目を覚まさせた。


彼女は俺のために、自分の命を削ってここまでついてきた。それは誰かに命令されたからではない。彼女自身が「そうしたい」と選んだからだ。


俺も、そうだ。俺は、俺の意志で寝たい。


誰かに「寝ていいよ」と許可されるのではなく、「今から寝る! 邪魔するな!」と宣言して、布団に潜り込みたいのだ。主導権は俺が握る。


俺は下がっていた拳を再び持ち上げ、ゆっくりと、しかし確かな意志を込めて、白い多面体へと向けた。


《……理解不能。なぜ、より効率的な解決策を熟考する? 》


神が、演算エラーを起こしたように激しく明滅する。


効率? 知ったことか。


俺は非効率な人間なんだよ。わざわざ面倒な道を選んで、泥にまみれて、それでも「自分で選んだ」という実感だけを抱いて眠りたいんだ。


俺の胸の空洞で、静かな怒りが青白い炎となって燃え上がった。


それは、かつて社畜だった頃の自分への怒りであり、同時に、そんな俺を支配しようとする全ての「システム」に対する、強烈な反逆の狼煙だった。

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