第49話 【持ち出し残業】

……おい、ダンジョン。聞こえるか。


俺は意識の深層へと沈み込み、ダンジョンを統括する冷ややかな管理インターフェースの不可視のコンソールへと直接アクセスを試みた。


黙って検索しろ。


この理不尽極まりない膠着状態を打破するための『特例』はないのか。接続許可領域外(圏外)の死地であっても稼働できる、隠された例外処理(バックドア)だ。


脳髄の奥底に、感情の一切存在しない無機質で冷徹なシステム音声が返ってくる。


《……検索中。……該当する運用規定は存在しません。ただし、深刻なシステム損傷を伴う非推奨の『緊急自律稼働モード』が存在します》


緊急自律稼働。


いかにもブラック企業が末端の社員に強要しそうな、おぞましい名称だ。


それは何だ。どういう仕様だ?


《外部からの魔力供給を完全に遮断し、管理者個人の存在データ――記憶、人格、霊的構造――を直接燃焼させて動力源へと転換します》


眼窩の奥が、ヒヤリと凍りついた。


それはつまり、俺という個体を構成する魂の残骸そのものを、使い捨ての燃料(薪)として炉にくべるということだ。


死ぬのか?


《活動停止時の体積の残存量に依存します。定量を割った場合、存在の復元は不可能となります》


やめろ。


生存本能が強烈なブレーキをかける。俺が欲しかったのは平穏な隠居生活だ。存在が消滅してしまえば、休みを楽しむための「俺」という主体がいなくなってしまうではないか。


……いや、待てよ。


『定量を割った場合』復元不可能、なのだろう?


ならば、定量を割る前に――ほんの少しの間にあの核を粉砕し、即座に境界線の内側(Wi-Fiエリア)へ帰還すれば、俺の存在は維持されるはずだ。


そうだ。これは命を捨てる特攻ではない。一晩だけ徹夜すれば終わるような、超短期の高負荷残業だ。一瞬で片付ければ、問題ない。


俺の脳内で、詭弁にも等しい損益計算が、どす黒い恐怖を強引に塗り潰していく。


システムの都合で強制終了させられるくらいなら、自分の意志でタイムカードを切り、俺のタイミングで退勤する。


「デスナイト様……?」


背中にしがみつく聖女が、不安そうに俺の顔を覗き込んだ。


【ホウホウ アル イクカ?】


彼女は、俺の燃え上がる眼窩の炎を真っ直ぐに見つめ返し、迷いなく告げた。


「……行きます。連れて行ってください」


俺は彼女の細い腰を無言で抱き寄せ、漆黒の腕で乱暴なまでにしっかりと固定した。


「え……? きゃっ!」


突然の拘束に、聖女が小さく悲鳴を上げ、その白い指先が俺の肋骨を強く掴む。


俺は決して越えられなかった境界線の向こう側を睨み据えた。そこには俺たちの足掻きを嘲笑うかのように、静かに浮かぶ虚無の核がある。



システム。緊急自律稼働モード、承認だ。


《……承認されました。存在の燃焼シークエンスを開始。ダンジョンシステムからの魔力供給を、完全停止します》


カチリ、と。


脳の奥深くで、俺をこの世界に繋ぎ止めていた絶対的な安全装置(リミッター)が外れる音がした。


瞬間、凄まじい「熱」が内側から爆発的に溢れ出した。


それは外部から与えられる安価な魔力ではない。


俺という存在の輪郭、記憶、そして魂の残滓そのものがドロドロに溶け、純粋なエネルギーへと変換されていく、神経を直接焼かれるような死の痛覚だ。


燃費など気にするな。全てを、この一瞬の速度に全振りしろ。


眼窩の炎が狂ったように青白く燃え上がり、視界の解像度が極限まで高まる。


「師匠!? 体から、光が……!」


後方で悲痛な声を上げる勇者を置き去りにし、俺は聖女を抱えたまま、大きく一歩を踏み出した。


境界線。


先ほどまで俺の存在を無慈悲に拒絶していた「圏外」の絶対的な闇。


そこへ、重力すら振り切る速度で突っ込んでいく。


もう、ダンジョンからの命の接続なんていらない。


定量を割る前に、ASAP(最速)でこの残業を終わらせる。


「――む、無茶苦茶です!」


突如として圏外へ身を投げ出した俺の暴挙に対し、背中で聖女が悲鳴にも似た、けれど裂帛の気合と共に叫んだ。


事前の説明など一切なかったにも関わらず、彼女は俺の体から溢れ出す「自壊の熱」と突撃の意図を瞬時に察し、文句を言うよりも先に即座にサポートへと回ったのだ。


彼女が両手で握りしめる白木の杖が、フルオートのマシンガンのように激しく、そして痛々しく明滅を繰り返す。


「バウンダリー! バウンダリー! バウンダリー!」


連続する硬質な破砕音が、虚空に響き渡る。


俺の最速の進行方向、何もない空中の座標に、金色の幾何学模様が次々と焼き付けられていく。


『境界付与(バウンダリー)』の乱れ撃ち。


概念上の「内と外」を強引に定義し、俺の鉄の足を支える物理的な「床」として固定させていく。


それも、ただの平面ではない。


遥か上空の核へ向かって一直線に伸びる、希望と破滅の光の「坂道」だ。


キィン、キィン、キィン、キィンッ!


血を吐くような彼女の悲痛な詠唱と共に、俺が次に踏み出すべき座標に、寸分違わず光のタイルが生成される。


俺達は、その光の足場を全力で駆け抜ける。


彼女の荒れ狂う呼吸と、限界を超えて熱を持った体温が、鎧越しに直接伝わってくる。


「届きます……! あと少し!」


俺は魂を全推力に変え、彼女が命懸けで敷いた光の坂道を天に向かって駆け上がった。


己の存在が削り取られていく激しい熱と、鼓膜を刺すような絶対的な無音が、同時に俺を包み込んだ。


そして、そこには「それ」がいた。

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