第2話 伯爵家の現実

 家の門をくぐった瞬間、私は現実に引き戻される。

 ひび割れた石畳と、手入れの行き届かない庭が、すべてを物語っている。

 ……帰宅した瞬間、母と家令のアグスティンの話す声がする。


 母の香水の香りで、広間がむせ返りそうだ。


 アグスティンは声を潜め、沈痛な面持ちで告げる。


 「治療費の支払い期限は、今月末まで――」

 「金貨20枚……アリーチェ、あなたはこの家に『災いを呼ぶ子』なんだから、せめて何か役に立ってちょうだい」


 その金額は、私が払えと言っているのだ。

 母は当然のごとく私を「災いを呼ぶ子」と言い捨てるが、傷つくのにはもう慣れてしまい、私の心は動かない。


(自分の身を切ることは、お母様は絶対にしない。――いつも、いつも私)

 

 父は病に倒れ、治療費はかさむ。借金もある。

 使用人も雇うお金はなく、いつも人手不足だ。その分は、私がやっている。

 爵位の中身は継ぎ接ぎだらけ。それがオルドラン家の現実だ。


 「お嬢様! 家事などされては手が荒れます! ここは私たちが……」

 

 当然のように家のことを始める私に、メイド長のサラが慌てて止めようとするが、彼女を見据え、首を振る。

 

 「いいえ、私もやります。あなたたちだけにさせるわけには、いかない。人手はあったほうがいいでしょ?」

 

 私は学校の制服のままエプロンを身に着け、そのまま働く。

 帳簿をつけて、それから、厨房で料理人を手伝わなければ。

 毎日のように、やるべきことが頭によぎる。当然のように。


 家の帳簿を見て、父の治療費の支払い期限と、金額が浮かぶ。

 

(金貨20枚……私の装飾品と、ドレスを売れば――)

 

 当然のように浮かぶ考えに、私は苦笑いをする。「せめて役に立て」と母は言う。

 母は、自分の懐を痛めることはしない。「災いを呼ぶ子」なら何も言わず私がやればいいのだ。

 それで家が守られるのなら、私はかまわない。私は置かれている薬の瓶を取り、父の部屋へ向かう。

 

 父の部屋に行くと、薬の匂いが空気を満たしている。

 入ってきた私を見て奥のベッドに力なく横たわっている父が身体を起こそうとする。

 駆け寄ろうとする私を、父は静かに手で止める仕草をする。

 

 「お父様。今月分の薬が届いています。こちらに置いておきますね」

 

 私が声を掛けると、父が弱々しく微笑む。

 

 「すまないね……アリーチェ」

 「お父様が謝ることではありません」

 

 私は口角を上げ、精一杯の笑顔を作る。


 部屋へ戻り、売却する装飾品とドレスを選ぶ。

(お祖母様ばあさまから贈られたドレスも……何もかも私の手元からなくなっていく)

 私の心がぎゅっとしめつけられ、息は浅くなり、少しふらりとする。目には僅かにじわりと熱いものが浮かぶ。

 その時、ドアを叩く音がした。


 「姉様ねえさま……?」

 

 弟のファビオが栗色の髪をふわりと揺らし、部屋へ入ってくる。

 

 「ファビオ、お帰りなさい。どうしたの?」

 「また……姉様ねえさまの装飾品を、売ったの?」

 

 私が静かに頷くと、ファビオは震える声で言った。

 

 「なぜ、姉様ばっかりこんな目に……! 母上は何もしないくせに、僕にだってさせないくせに……!」

 

 私は首を振る。

 そして、諭すように、答える。

 

 「だって、家族だもの。困ったときには助ける。あたりまえのことよ?」

 「――それでも、いつも姉様ばっかり! 姉様の手は荒れて、服だって、古いままだ……犠牲になるのはいつも姉様だ」

 

 私は柔らかく、そして諦めたように、答える。

 

 「それでお父様や……あなたやオルドラン家が助かるのなら、私は、かまわない」

 

 それを聞いたファビオは、射抜くように私を見た。

 その手元は、強く握られ、わずかに震えている。

 

 「姉様、笑い方が変だ……! 姉様はおかしいと思わないの!?」

 

 彼の茶色の瞳が揺れている。


 ファビオの言葉に、返す言葉が見つからなかった。私にとっては当たり前のことで、疑問になんて思ったことがなかったから。

 横にある鏡をちらりと見ると、「呪われた」私の翡翠色の瞳がぐにゃりと歪んで見える。


「『災いを呼ぶ子』なんだから、せめて役に立ちなさい」


 母からはそう呼ばれて育った。自分の立場にも、境遇も疑問に思ったことがなかった。

 

『災いの翡翠の目』を持っているのなら、そう生きるのが当然だと思っていた。


 「ファビオ、あなたはオルドラン家を継ぐ子だからいいの。アリーチェ、部屋にいないで厨房に行きなさい」


 ドアのところに立っていた母の声が冷たく響く。

 母のドレスだけは、古びていなかった。家族が倒れてもいつもの調子を崩さない。それが母だ。

 むせ返るような香りと、きらびやかな装飾を身に着けて――母の視線は、おぞましいものを見るように私を貫く。

 

 私は黙って部屋を出て厨房に行き、夕食を料理人と一緒に作る。


 その時、アグスティンの声が響く。


 「奥様! ――ファルネーゼ侯爵家より使いの者が来ております」


 ――ファルネーゼ侯爵。


 その名を聞いた瞬間、手にしていた包丁がわずかに止まった。

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