番外編 皆既月食 (エピローグ後)

 高層ビルに囲まれた大手町の交差点を、北斗は保坂と並んで歩いていた。三月になったとはいえ、頬を撫でる夜の風はまだ冷たい。北斗は胸元のマフラーを合わせ直し、赤く変わった歩行者用信号に立ち止まった幾人かの塊の最後尾についた。

 

 と、一番前にいた女性二人が空を指差し、

 

「まだ見えたよ。ほら」

「わ、ガチ赤い」

 

 小さなざわめきが起きた。

 そこにいた皆が、勿論、北斗もつられて夜空を見上げた。


 東の空、ひときわ高いビルの隣に、赤銅色の満月がかかっている。

 皆既月食だ。

 今週のニュースで幾度か聞いていた。雛祭りの夜、東京の空でも、二十時からという見頃な時間帯に皆既食が始まると。


「お、本当だ。確かに赤い」


 保坂は、さっとスマホを出して撮影した。

 

「すごい見やすいですね」

 

 ほの暗い、黒のような不思議な赤。

 腕時計を見ると、二十時半をまわっていた。食の最大が過ぎたばかりだ。

 七星も見ているだろうか。

 そう思った瞬間、ちょうどピコンと小さな音がして胸ポケットが震えた。

 北斗はスマホを半分ひきだす。

 通知欄に浮き出た『七星』という文字に、思わず頬が緩んだ。

 

「少し失礼します。弟からです」

「ああ、例の既読スルーの君」


 保坂の認識はこの一年変わらないが、実際、七星の既読スルーは夏休み以降も変わらなかった。

 ただ、写真添付の頻度は増えた。星空、天の川、星雲、惑星。 

 星は、七星の心そのものだ。

 

 今は夜空だけでなく、夕方の風景写真や、稀に実家の花の写真も送ってくれる。

 

「写真は、本当に上手いですよ。ほら、皆既月食も」


 月面のクレーターと海が鮮明に写し出され、暗い赤銅色も鮮やかにグラデーションを作っている。


「確かに、うまいな。こんなに綺麗に撮れるもんなのか」

「そうみたいです」


 歩行者用信号が青に変わった。だが、保坂はその場に留まり、北斗のスマホをスクロールして七星の写真を見続ける。

  

「しっかし、本当に『言葉』のない子だな。今時珍しい。おい、佐伯」

「はい」

「たまには通話でもしてやったらどうだ。あんまり話せてねぇんだろ」

「通話…… ですか」

「俺も、愛しの妻にかけようかな。ヒマリの雛祭りの夕飯の様子も聞きたいし」

 

 ヒマリは、保坂の愛娘だ。

 保坂は、道の端に寄ってパッとボタンを操作し始める。

  

「ほら、お前も」

「そうですね」

 

 北斗は、保坂が喋り始めたのを見て、七星のアイコンをタップする。写真を送ってくれた直後だし、実家の庭にでもいるだろう。

 庭の梅は、まだ咲いていないかもしれないが、星空の下、静かに立つ七星が北斗の脳裏に浮かんだ。





 七星は、家の庭にいた。

 山梨の空気はまだ真冬だ。刺すような冷気が沈んでいた。

 新芽もなく、花もなく。だが、七星は、この透き通った空気が好きだ。

 月明かりが皆既により落ち、星の瞬きが明るさを取り戻している。四等星まではっきり見えるようになった。

 気持ちがいい。

 大きく息を吸うと、胸に冷えた空気がしみこむ。


 ヴヴヴ、とスマホが揺れる。

 さっき送った写真の返事だろう。すぐに返信が来たということは、仕事はもう終わってるのか。『兄さん』という文字を見たくて、スマホを取り出した七星は、手を止めた。


 揺れ続けるスマホに、『通話』の緑色のアイコンが表示されている。

 七星は、目を大きく開いたまま、スマホを凝視する。

 なんで。

 止まってくれねぇかな、と大きくまばたきするが、緑のアイコンは消えてくれない。


 おそるおそる、緑色のアイコンに触れ。

 プッと小さな音と共に、

  

『――』


 スピーカーの音が小さい。

 あわてて、スマホを耳にあてた瞬間。


 『今、話せますか?』


 北斗の静かな、低い声が耳に直接触れる。

 声が、あまりにも近い。

 七星は動けなくなった。耳がじわりと赤くなる。


『写真ありがとう。今、ちょうど見えてる』


 鼓膜を震わせる穏やかな声。かすかな息遣い。

 

 ――待てよ。おい、待てよ。


 言葉が、喉でつまる。

 逃げ場がない。

 口の中が乾く。


 

『――月食、綺麗だね』


 その一言に、心臓が跳ねる。

 スマホを持つ指が震える。


『えーと、聞いてる?…… 七星?』


 七星、と柔らかく名前を呼ばれる。

 もう駄目だ。無理。

 無理過ぎる。

 

「あのさ……!」


 声をなんとか絞り出す。


「ちゃんと、…… 返事するから!…… 今日は、それで許して!」


 それだけを何とか絞り出して、素早く通話を切った。

 大きく息を吐く。知らずに、ずっと息を止めていた。

 

 七星は、その場にしゃがんで頭を抱えた。

 

 ――七星?


 色々…… 反則だろ!

 しゃがみこんだまま、しばらく立ち上がれなかった。

 顔が熱い。

 さっき呼ばれた名前が、耳の奥に残って離れない。

  

 



「…… 」

 

 北斗は、切られたスマホを呆然と眺め、立ち尽くした。

 何かまずい事を言ってしまっただろうか。


「佐伯?」

「いえ、何でもありません」


 スマホをしまい、交差点を渡り地下鉄の駅入り口で保坂と別れる。

 新宿駅から私鉄に乗り換えてすぐ、ヴ、ヴ、ヴ、と、連続でスマホが震えた。

 

 ごめんなさい

 緊張しすぎた

 同じ月見れて嬉しい

 星よく見える

 おやすみなさい

 

 初めてのまとまった文の返信に、北斗は胸があたたかくなる。

 ふわっと揺れる黒髪を思い出した。

 

 おやすみ、七星

 

 送信したあと、もう一度だけ月を探す。

 南天、明るさを取り戻している大きな満月があった。


 

 

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