講義Ⅴ:結界の構築と、物理的破壊工作
熱い。
空気が煮えている。
エアコンが壊れたわけではない。
彼の手にある
「忠告しましたよ、先生」
御子柴は無造作に足を踏み出した。
革靴が床を叩くたびに、部屋の隅々に溜まっていた「冷気」が蒸発していく。
清浄な静寂が、土足で踏み荒らされていく。
「どのみち、この部屋は隔離が必要だ。特級呪物が固定されている上に、管理者が正気を失っている。……物理的に封鎖します」
彼は
長さ二十センチほど。使い込まれた
呪具。
それも、土地の四隅を
「やめろ……ッ!」
僕はバールを構え直した。
だが、
彼の放つプレッシャーが、生気のない僕の肉体を縫い止めている。
ドスッ!
乾いた音が響いた。
御子柴が、部屋の四隅の一角――入り口のドア付近の床に、杭を突き立てたのだ。
ハンマーも使っていない。
ただ手で押し込んだだけで、杭はコンクリートの床板をバターのように貫き、根元まで埋没した。
「一つ」
彼は涼しい顔で移動する。
窓際へ。書庫の側へ。そして、
ドスッ、ドスッ、ドスッ。
四本の杭が打たれた瞬間。
バァン!!
空気が爆ぜた。
四つの点を結ぶように不可視の壁が出現し、部屋全体を
熱い。
苦しい。
酸素がなくなったように息ができない。
お線香と
『あ、ぐぅ……ッ!』
悲鳴が上がった。
繭だ。
彼女はソファの上で小さく丸まり、自身の白いワンピースをかきむしっていた。
美しい肌から、シューシューと白煙が上がっている。
結界が放つ「聖なる浄化の力」が、死者である彼女を焼いているのだ。
『せん、せい……あつい……いたい……』
「繭!」
僕は駆け寄ろうとした。
だが、見えない壁に弾かれた。
熱風の壁が、僕と彼女を分断している。
「無駄ですよ」
結界の外側で、御子柴が冷ややかに見下ろしていた。
「四方結界。密教における基本的な封陣ですが、霊力の弱い浮遊霊なら一瞬で蒸発します。……彼女は土地の力が強いから、しぶといですね」
彼は感心したように、苦しむ繭を観察している。
「これなら、一晩か。ゆっくりと『
「貴様……ッ!」
殺意が湧いた。
これは除霊ではない。虐待だ。拷問だ。
繭が何をした?
ただ、理不尽に殺され、この冷たいコンクリートの下で眠っていただけだ。
それを、後から来た人間たちが勝手に「不吉だ」「危険だ」と決めつけ、暴力で消そうとしている。
「それが、君たちの正義か!」
僕は壁を叩いた。
「危険分子を排除する。それが秩序です」
御子柴は眉一つ動かさない。
「痛いでしょう? 熱いでしょう? それが、生きた人間の『真っ当な世界』の温度ですよ、先生。……そこでおとなしく、リハビリしていてください」
彼は背を向けた。
仕事は終わったと言わんばかりに、出口へと向かう。
繭の悲鳴が弱まっていく。
姿が薄れている。
このままでは、彼女は消滅する。僕の心臓が止まる。僕の世界が、くだらない太陽の光で満たされてしまう。
考えろ。
思考しろ。
僕は民俗学者だ。オカルトの専門家だ。
結界とは何か?
御子柴は言った。「四方結界」だと。
四つの
その強度は、術者の霊力と――「杭」の物理的な固定力に依存する。
そうだ。
霊的な壁は、物理的な依り代の上に成立している。
なら、壁そのものを破れなくても、支えている「土台」を壊せば?
「……待てよ、御子柴」
僕は呼び止めた。
震える足を踏みしめ、バールを握り直す。
「まだ、講義は終わっていない」
御子柴が振り返る。「
言いかけた彼の目の前で、僕はバールを振り上げた。
狙いは、彼ではない。
僕たちの間を隔てる「見えない壁」でもない。
床だ。
四隅に打たれた杭の一つ。その根元。
「授業で教わらなかったか? ……日本家屋における結界の
ガァンッ!!
僕は渾身の力で、床材を叩き割った。
古いリノリウムが
この研究棟は古い。戦時中の突貫工事の基礎の上に、増築を繰り返した継ぎ接ぎだらけの建物だ。
床の強度は均一ではない。特に、隅の部分は
「なっ!?」
御子柴が目を見開く。「馬鹿な、物理で術式を!?」
霊力勝負なら、僕は彼に勝てない。
だが、物理破壊なら話は別だ。
バールという「テコの原理」の結晶があれば、人力でコンクリートだって粉砕できる。
「壊れろォォォッ!」
僕は叫び、バールの
杭には強力な守護の呪がかかっている。
普通なら触れることすらできないだろう。
だが、僕はもう半分、死んでいる。
僕の肉体には繭の因子が――この土地の記憶が満ちている。
聖なる杭が、僕の手を焼く。皮膚が焦げる音がする。痛みはない。繭が守ってくれている。
バキバキバキッ!
床板が持ち上がる。
杭が、土台ごと浮き上がる。
結界の構成要素は「四つの点」だ。
そのうちの一つでも座標がズレれば、正方形は崩壊する。幾何学的な強度はゼロになる!
「やめろッ!」
御子柴が駆け寄ってくる。
遅い。
ベリッ!
ゴオンッ!
鈍い音と共に、一本の杭が床から引き抜かれ、宙を舞った。
パァンッ!!
耳をつんざく破裂音。
部屋を包んでいた熱気が、風船が割れるように霧散した。
結界崩壊。
「はぁ、はぁ……」
僕は床に膝をつき、バールを杖にして身体を支えた。
右手の平は真っ黒に焦げていた。杭の浄化の力に焼かれたのだ。
だが、勝った。
スゥゥゥ……。
空気が冷えていく。
熱帯夜のような熱気が去り、本来の――墓地のような冷涼な静けさが戻ってくる。
『……先生』
繭が、顔を上げた。
その身体は薄れていない。むしろ、怒りで鮮明になっていた。
彼女はふわりと立ち上がり、僕の前に進み出た。
駆け寄ってきた御子柴との間に、立ちはだかる。
『よくも、先生を傷つけましたね』
彼女の髪が逆立つ。
部屋中のガラス製品――ビーカー、窓ガラス、時計――が一斉に共鳴し、カタカタと震え出した。
ポルターガイスト。
特級呪霊の、本気の威嚇。
「くッ……!」
御子柴が舌打ちをして飛び
結界を失った今、生身で彼女の冷気を受けるのは危険だと判断したのだ。
「とんでもないデタラメだ……! 床ごと結界石を引っこ抜くなんて!」
彼は信じられないものを見る目で僕を見た。
「それが人間のすることですか、先生!」
「……人間じゃないと言ったのは、君だろう」
僕は痛みのない右手で、冷ややかな汗を拭った。
「言ったはずだ。僕たちは共生している。……僕の知性と、彼女の力が合わされば、君の教科書通りの
御子柴は数秒、僕たちを
彼は独鈷杵を懐にしまった。
「……撤収します」
悔しげに、けれど冷静な判断だった。
「物理的な防壁が破壊された状態じゃ、再構築には時間がかかる。……それに、どうやらあんたは、本当に『あっち側』へ片足を突っ込んでるらしい」
彼は
「でも、忘れないでください。これで大学側は確信した。……あんたの部屋には、確実に『害悪』がいるとね」
捨て台詞を残し、御子柴は部屋を出ていった。
ドアが閉まる。
静寂。
その瞬間、僕は床に崩れ落ちた。
緊張の糸が切れたのだ。
「先生!」
繭が覆い被さるように抱きついてきた。
冷たい。
焼かれた右手に、彼女の冷気が染み込んでいく。
「手が……! 私のせいで、こんな!」
彼女は泣きそうな顔で、僕の黒焦げの手を包み込んだ。
「構わない。……君が無事なら、安い代償だ」
僕は微笑んだ。
痛みはなかった。だが、確実に肉体は損なわれている。
生きた人間としての機能を、また一つ喪失した。
「許しません。あんな男、私が殺して……」
「駄目だ」
僕は彼女の唇を指で
「殺せば、彼らが正義になる。……僕たちは、静かにここにいられればいい」
そう。僕たちの望みはささやかなのだ。
ただ二人で、この冷たい部屋で、静かに朽ちていきたいだけなのだ。
それを許さない世界の方が、狂っている。
その夜。
僕は高熱を出して寝込んだ。
だがそれは風邪の熱ではない。
御子柴の聖気と、繭の瘴気。相反する二つの力が体内で衝突し、僕の細胞を書き換えるための熱だった。
夢を見る。
それは僕の夢ではない。
コンクリートの底。暗闇の中で、一人の少女が膝を抱えている夢。
繭の記憶だ。
境界が消えていく。僕と彼女は、今夜、また一つになる。
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