講義間休憩Ⅱ:聖域への侵入と、焼き菓子の粉砕

 翌日の研究室は、ホルマリン漬けの標本のように静まり返っていた。


 遮光カーテンの隙間すきまから、午後の陽射しが一本の細い線となって床に落ちている。

 空調の音すらしない。

 この部屋には時計がない。時間の概念は、この厚い防音扉の外側に置いてきた。


「……また、手を洗ってきたんですか?」


 ソファの上でひざを抱えていたまゆが、くすりと笑った。

 彼女の手には、文庫本がある。古い岩波文庫の『遠野物語』。もう何十回読んだかわからない一冊だ。ページをめくる音はしない。


「ああ。……まだ、爪の間に白い粉が残っている気がして」


 僕はデスクに戻り、ハンドジェルをワンプッシュした。

 気休めだ。

 昨夜、コインランドリーから帰宅した後、僕は自宅のシャワーで一時間以上身体を洗い続けた。

 物理的には清潔だ。だが、あの乾燥機の中から吹き出した「他人の死んだ皮膚スキン」の粉末が、まだ鼻腔びこうの奥にこびりついている幻覚が消えない。


「神経質ですね。生きている人間は、代謝を繰り返すのが仕事でしょう?」

「だから嫌なんだ。自分の細胞が死滅し、あかとなって剥がれ落ちるプロセスそのものが、僕には不快だ」


 僕はペーパータオルで手をぬぐいながら、苦い顔をした。


 人間嫌いだ、とよく言われる。

 否定はしない。

 他人の人格が嫌いなのではない。「有機生命体」としてのシステムの欠陥バグが、生理的に受け付けないのだ。

 汗、唾液だえき、フケ、排泄物。

 それらを垂れ流しながら、「愛」だの「絆」だのと叫ぶ人間たちの無神経さが、僕には耐え難い騒音だった。


 だからこそ、この部屋が好きだ。

 そして、繭が好きだ。

 彼女は汗をかかない。排泄もしない。呼吸すらせず、ただ美しい硝子ガラス細工のように、そこに「在る」。

 完全無欠の静止画。

 この世で唯一、僕が汚れる心配をせずに触れられる存在。


 ――コン、コン。


 不意に、乾いたノックの音が静寂を破った。

 僕は肩を跳ねさせた。

 誰だ。今はオフィスアワーではない。学生課の職員か? それとも宅配便か?


 繭が、スッと目を細めるのが視界の端で見えた。

 彼女は文庫本を閉じ、音もなく立ち上がると、書棚の影に溶け込むように姿を消した。

 幽霊死者の処世術だ。招かれざる客が来たことを、彼女は瞬時に察知している。


「……どうぞ」

 嫌な予感を押し殺して、僕は返事をした。


 ガチャリ、と重い防音扉が開く。


「失礼しまーす! あ、げん先生いらっしゃった!」


 弾けるような声と共に、極彩色の熱風が飛び込んできた。

 夏目なつめだ。

 先日、学食で僕に相席を強要したあの二年生。


 僕は思わず顔をしかめて、椅子を後ろへ引いた。

 彼女が入ってきた瞬間、部屋の湿度が跳ね上がった気がしたからだ。

 初夏の日差しの中を歩いてきたのだろう。ひたいにはうっすらと汗が浮き、頬は血色良く上気している。

 生命力ライフの塊。

 この無機質な研究室において、彼女の存在はあまりにも「生」の色彩が強すぎた。


「なんの用だ、夏目君。僕は今、資料の整理で忙しいんだが」

「えー、そんなつれないこと言わないでくださいよ。ほら先生、昨日すごく顔色悪かったから」


 彼女は悪びれる様子もなく、ずかずかと部屋の中へ侵入してくる。

 その足取りに合わせて、床の冷気が乱される。

 不法侵入。環境汚染。


「これ! 差し入れです」

 ドン、とデスクの上に置かれたのは、パステルカラーの風呂敷に包まれた包みだった。


「クッキー焼いてきたんです。昨日の夜、ちょっと作りすぎちゃって。市販のやつより身体からだにいいですから、食べてください!」


 得意げに笑う彼女の口元から、かすかに甘い匂いが漂ってくる。

 バターと、小麦粉と、そして――素手でこねたであろう、人間の手の匂い。


 目眩めまいがした。

 手作り?

 僕が最も忌避きひすべき単語だ。

 工場で機械的に生産され、滅菌されたパッケージに入っているならまだいい。

 だが、個人の家庭の台所で、どんな雑菌がついているかわからない指先で、素手で成形された油脂の塊。

 

 いや、衛生面だけではない。

 もっと精神的な圧迫感がある。

 

 時間をかけて、材料をこね、焼き上げる工程。

 その間に込められた、「食べてほしい」「喜んでほしい」「私を見てほしい」という、粘着質な情念。

 それが、焼き菓子という形を取って、僕の喉元に突きつけられている。

 これは、呪いだ。


「……気持ちは受け取っておくが」

 僕はハンカチで口元を覆い、極力無表情を装った。

 

生憎あいにく、僕は甘いものが苦手だ。それに、学生から個人的な贈り物を受け取るわけにはいかない」

「またまた~。照れ隠しですか? そんなに堅いこと言わないで、一つくらい味見してくださいよ」


 夏目は聞く耳を持たない。

 彼女の中で、「手作りをあげること」は絶対的な善行ギルティであり、拒絶される可能性など一ミリも考慮されていないのだ。

 無神経な暴力。


 彼女が風呂敷を解こうとして、身を乗り出した。

 距離が縮まる。

 彼女の呼気が、僕の顔にかかる。

 生暖かい二酸化炭素。汗と香水が混じり合った、濃厚な生活感。


「やめろ……ッ!」


 思わず大声を出しそうになった、その時だった。


 ピシッ。


 硬質な音が、静寂を切り裂いた。

 何かが亀裂を起こす音。


 次の瞬間。

 

 パァンッ!!


 デスクの端に置かれていた、分厚いガラス製のペーパーウェイトが、内側から弾け飛んだ。

 粉々になった破片が、ダイヤモンドダストのようにきらめきながら飛び散り、夏目の足元をかすめる。


「きゃっ!?」

 夏目は短く悲鳴を上げ、飛び退いた。

 風呂敷包みが手から落ち、床に転がる。中のクッキーが砕ける鈍い音がした。


「な、なに……今の?」

 夏目が青ざめた顔で周囲を見渡す。「え、なんで急に割れたの?」


 何かがぶつかったわけではない。

 急激な温度変化だ。

 夏目の持ち込んだ生ぬるい熱気に反応して、この部屋のぬしが、空間を氷点下まで冷却したのだ。

 熱膨張と収縮の差に耐えられず、ガラスが悲鳴を上げて自壊した。


 僕はゆっくりと視線を上げた。

 本棚の影。

 そこに、繭が立っていた。

 彼女は微笑んでいなかった。能面のように感情のない瞳で、ただじっと、床に散らばった「手作りの呪物」と「生きた女」を見下ろしていた。


 嫉妬ではない。

 これは、駆除くじょだ。

 聖域に侵入した異物を排除しようとする、自浄作用だ。


「……危ないから、下がった方がいい」

 僕は声を絞り出した。

 夏目に対して言ったのではない。これ以上、繭を刺激しないための牽制けんせいだった。


「き、気味悪い……なんか、ここ急に寒くありません?」

 夏目は腕をさすりながら、後ずさった。

 本能が警鐘を鳴らしたのだろう。野生動物が天敵の気配を察知するように、彼女の旺盛おうせいな生命力が「逃げろ」と命じたのだ。


「悪いが、片付けがある。……帰ってくれ」

 僕が言うと、夏目はこくこくとうなずいた。

 先ほどまでの強引な勢いは消え失せている。


「す、すみません、また今度……!」


 逃げるように、彼女は扉を閉めて出ていった。

 パタン、と扉が閉まった瞬間。

 張り詰めていた空気が緩んだ。


 同時に、僕の背後から冷たい手が伸びてきた。


「あらあら。お掃除、増やされちゃいましたね」


 耳元で、繭がクスクスと笑った。

 先ほどの能面のような冷徹さは消え、いつもの無邪気な声色に戻っている。

 彼女は、床に散乱したガラス片の上を、裸足で――傷つくこともなく――浮遊しながら、転がったクッキーの包みをつまみ上げた。


「汚い。人間のあぶらと、びへつらいの匂いがします」


 彼女はゴミでも見るように、色とりどりの手作りクッキーを見つめている。

 僕は深い溜息ためいきをついた。


「……ああ。あとで焼却用のゴミ箱に捨てておく」

「駄目ですよ、先生」


 繭は僕の正面に回り込み、冷たい両手で僕の頬を挟んだ。

 僕の目を覗き込む。

 その瞳の奥は、どこまでも深く、暗い。井戸の底よりも。


「捨てるだけじゃ、想いが残ります。形を壊して、なかったことにしないと」

「なかったことに……?」

「ええ。異物は徹底的に粉砕しましょうね。この部屋は、先生と私だけのものですから」


 彼女は笑いながら、クッキーの袋に向けた細い指を、ゆっくりと閉じた。

 力を込めた様子など、微塵みじんもない。優雅に、空気をつかむような動作。


 ――だが。


 バジ、グシャアッ……。


 彼女の手の中で、異様な音が響いた。

 まるで目に見えない万力まんりきで圧縮されたかのように、クッキーが袋ごと無残に押し潰され、粉末へと変わっていく。

 それは物理的な握力ではない。この場を支配する「意志の力」による破壊だ。


 夏目の心そのものを握りつぶしたかのような、決定的な音だった。


 僕は戦慄せんりつした。

 彼女は夏目を認識した。そして、明確に「排除すべき対象」としてロックオンしたのだ。

 割れたガラスは警告に過ぎない。

 次は、形あるものが壊される番だ。


 だというのに。

 僕の身体からだは、彼女の冷たい手による接触を喜んでいた。

 生きた人間の厚かましさより、この幽霊の独占欲の方が、はるかに清潔で安心できる。

 

 そう感じてしまう自分の魂が、あのクッキーのように粉々に砕かれていることに気づかないまま、僕は彼女の冷たい胸に額を押し当てた。

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