第3話
「怖い?」
セナが不思議そうに聞き返す。俺はシロップの甘みに緩んだ口元を引き締め、ぽつりぽつりと語り始めた。
「……知識は、恐れられているんだ。かつて高く高く積み上がった知識は、人間という入れ物から溢れ出した。人間を超えてしまった知性が世界を壊したのだと、村の誰もが信じている」
俺の言葉に、セナはあぁ、と頷いた。
「確かにね。どの集落に行っても、年寄りはそう言うね。行き過ぎた知識は『禁忌』だとか、『神の怒りが訪れる』とか」
「だろう? だから俺は……」
「でもさ」
セナは俺の言葉を遮った。
「背に腹は変えられない。生活を豊かにするための知識は、なんだかんだ言ってどこでも重宝されているよ? 薬草の知識、井戸の掘り方……生きるのに役立つなら、『禁忌』だなんて言っていられなくなる」
セナは身を乗り出し、俺の目を覗き込んだ。
「あの村の人たちは優しい。よそ者の私にも親切だったわ。きっと、貴方のことも受け入れてくれる。なぜ、使わないの? 村の人たちの役に立てば、貴方の暮らしだって今よりずっと豊かになるんじゃない?」
俺は視線を逸らし、焚き火を囲んでいた村人たちの顔を思い出した。凍える我が子を暖めようと、身を寄せる母親。俺に惜しげもなく小麦粉を分けてくれた男。彼らの笑顔には一点の曇りもなく、ただただ純朴で、善良だった。
その光景を思い出すと、胸の奥からどす黒い感情がせり上がってきた。猛烈な自己嫌悪だ。
あんなにも暖かくて、優しい人たち。純朴で善良。だからこそ俺は、こんな俺は、あの人たちと相容れないと思えて仕方がない。
俺の沈黙をどう受け取ったのか、セナが心配そうに声をかける。
「どうしたの? ……もしかして、あの村人たちと何かあったの?」
「いや、別に何もない。俺も、良い人達だと思ってる。ただ……」
俺は、このどす黒くて暗い感情を、出会ったばかりのこの女に伝えるべきか、迷った。ただ、ずっと前から……どうしてもこの感情は、誰かに吐き出したくて仕方がなかった。初対面で行きずりの行商人のセラは、むしろ、この感情を伝えるのに最適な人物の様に思えた。しばしの沈黙の後、俺は重い口を開いた。
「気を悪くしたら申し訳ないけど……」
一瞬の沈黙。
「……あの村人たちは、俺には、まるで動物のように見えてしまうんだ」
吐き出された俺の言葉に、セナは怪訝な顔をした。
「……それは、どういう意味?」
もう、後戻りはできない。自己嫌悪に苛まれながら、ずっと抱え続けていた思いを吐き出した。あの素朴で善良な村人たちを見るたびに思ってしまう、偽らざる感情を言葉にした。あの人たちは、何も持たない。技術も、思想も、哲学も、物語も。何も持たずに、ただ生き続けている。
「生きるために食べて、子供を産んで、増えていって……。それだけじゃないか。まるで、犬や猫みたいだ。獣と同じじゃないか」
口に出した瞬間、自分がひどく傲慢で、醜い存在に思えた。ただ文字が読めるだけで、本を沢山読んだだけで、何様だというのか。あの人たちが知らないことを、遥かに多く知っている。ただ、それだけの違いのはずなのに。それは絶対的な断絶となって、俺と村人を分け隔てている様に思えてならなかった。むしろ、本なんて読まなかった方が、あの村人たちと仲良く暮らせたんじゃないか。そんな妄想すら生まれてくる。
俺は覚悟していた。セナはきっと俺を軽蔑するだろう。俺の傲慢さに憤るだろう。しかし、セナの反応は俺の予想と違った。怒るでもなく、軽蔑するでもなく、ただ純粋な疑問を投げかけてきたのだ。
「……私にはよくわからないな。それって、当たり前のことじゃない。誰だってそうだよ。少しでも長生きして、少しでも多くの子供達を育てたいと思ってる。文字が読めて色んな本を読むと、そんな風に思うようになるの?」
そして、セナは予想外の問いを投げかけたのだ。
「……逆に聞きたいんだけど、動物と人間の違いって何なの?」
深淵を覗き込むようなその問いに、俺は言葉を失った。俺が感じている村人たちとの断絶の、本質に迫るような問い。
――知識を持つのが人間、持たないのが動物……?
ぱっと思い浮かんだのは、そんな答えだった。しかし、それは違う、と即座に頭の中で否定した。もしそれが本当に答えであるなら、俺はこんなにも自己嫌悪に苛まれることはないだろう。その時の俺は、答えを出すことができなかった。ただ曖昧に、はぐらかすように言葉を続けた。
「……すまない。気を悪くしたなら謝る。ただ、俺の知っていることをあの人たちが受け入れてくれるとは、どうしても思えなくて。それに……俺自身が『禁忌』だとか『異物』だなんて言われて恐れられるのも、怖いんだ」
俺は弱々しく首を振った。村人たちとは、本を燃料にすることで、悪くない関係を築けている。下手に本の知識をひけらかすことで、今の関係にヒビが入ってしまうんじゃないか。そんな恐れが、どうしても拭いきれなかった。
セナはしばらく考え込んでいたが、やがて何かを閃いたように手を打った。
「……じゃあ、私たち二人で組みましょう」
「……組む?」
「ええ。貴方は、私に知識を伝える。私が代わりに、それを村の人たちに教えるの。それなら貴方が矢面に立つことはないでしょ?」
セナはにっと笑った。
「私の商売のタネにもなるし、きっと村の暮らしも良くなる。この村は居心地が良さそうだから、しばらく留まることにするわ」
セナは椅子から立ち上がった。
「今夜は、村の広場でテントを張って寝るよ。しばらく村の中にいると思うから、いつでも話して」
そう言い残し、軽やかな足取りで階段を登っていく。その背中は、迷いの中にいた俺には酷く眩しく見えた。
再び一人になった地下室で、俺は静寂に包まれた。本棚に囲まれたこの場所で、母の言葉が蘇る。
――サトシにはこの本たちを役立てて欲しい。守って欲しい。
俺は、明日「燃料」にするつもりだった農業関連の専門書を手に取った。表紙の煤を払い、ページを捲る。そこには、俺がまだ誰にも伝えていない「害虫予防の方法」が記されていた。
まだ恐れはある。それでも、俺はセナと話してみようと思った。
まずはこのページの知識を、彼女に読んで聞かせよう。
そう思いながら、俺は本を丁寧に机の上に置いた。
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