第5話 「物々交換 ── 経済の原点」


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国家債務残高:¥1,532,784,100,000,000

ダンジョン税収:¥0

配信視聴者数:12人

カウントダウン:348日

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 語彙五百六十語。文法パターン認識稼働。翻訳精度、推定四十二パーセント。


 数字で言えばまだ半分以下だ。だが体感は全く違った。


「ケンイチ。今日は何を持ってきた」

「おにぎり。いつものやつだ」

「鮭か」

「鮭だ」

「ガルガは鮭が好きだ」


 会話が成立している。五日前は単語の羅列だったものが、主語と述語と目的語を備えた文になっている。マルサの翻訳AIが音声をリアルタイムで変換し、健一の日本語をゴブリン語に、ガルガのゴブリン語を日本語に。多少の間と不自然さはあるが、意思疎通という点では革命的な進歩だった。


「翻訳精度の体感向上は、語彙数よりも文法パターン認識の寄与が大きいです。語彙百八十六の段階では単語の点と点でしたが、五百六十語で線がつながりました」

「どこまでいける」

「日常会話であれば現在の精度で実用レベルです。抽象概念──法律、権利、義務などの語彙はまだ不足しています」

「税の話をするには足りないか」

「税の話をするには、まず経済の話をする必要があります」


 その通りだった。


「ガルガ。今日は話がある。大事な話だ」

「大事?」

「ああ。交換の話だ」


 ガルガが首を傾げた。マルサが補足する。


「『交換』の概念語はゴブリン語に存在します。『グルヴァ』。物と物を取り替える行為を指します。日常的に使われている語彙です」

「つまりゴブリンにも交易の概念はあるわけだ」


 健一はおにぎりを一つ手に取り、もう片方の手で地面を指した。


「俺はおにぎりを持っている。お前たちは光る石を持っている。これを交換したい」


 ガルガの目が鋭くなった。さっきまでの無邪気さとは違う顔。


「交換。いくつ」


 来た。数量の交渉。健一は内心で居住まいを正した。


「まず地上でのこの石の価値を正直に伝える」


 HUDを起動した。空中に数字が浮かぶ。ガルガはもうホログラムに驚かない。三度目の訪問で慣れたらしい。


「Eランクの光る石。一グラムあたり地上では八万四千円の価値がある。お前が持っている石は平均三・二グラム。つまり一個で約二十六万八千八百円だ」


 マルサがゴブリン語に変換する。ガルガが眉をひそめた。


「おにぎり一つ。石一個。それが交換か」


 健一は首を振った。


「正直に言う。おにぎり一個の原価は百三十円だ。石一個は二十六万円以上。二千倍の差がある。これをそのまま交換したら、俺がお前たちを騙したことになる」


 ガルガが黙った。隣で聞いていた年長のゴブリンが二匹、顔を見合わせた。


「ケンイチ。お前は正直だな」

「税務官は正直でなければならない。嘘をついて取り立てた税は、税じゃなくて詐欺だ」

「サギ?」

「騙すことだ」

「ガルガは騙す者が嫌いだ」

「俺もだ」


 マルサが〇・三秒黙った。それから何事もなかったように報告した。


「ガルガの発話パターンに信頼度の上昇を示す語調変化が検出されました」

「分析を口に出すな。空気が壊れる」


 交渉が始まった。


 健一は地面に棒で数字を書いた。ゴブリンの数体系は十進法。指が十本ある種族は大抵そうなる。マルサが翻訳した数詞をガルガが確認し、頷く。


「おにぎり一個。石は一・五グラムでどうだ」


 健一が提示した。Eランク一・五グラムは約十二万六千円。原価百三十円のおにぎりに対してまだ千倍近い差があるが、健一の計算は別のところにある。


 ガルガが首を振った。


「高い」


 健一は目を見開いた。


「高いと思うのか」

「石は大事だ。火をつける。食べ物を冷やす。子供を温める。一・五グラムは多い」


 経済感覚がある。


 ゴブリンにとって魔石は通貨ではなく生活必需品だ。その重量感覚は地上の市場価格とは無関係に、生活の実感から来ている。一・五グラムの魔石でどれだけの火が燃やせるか、何日分の保温ができるか。ガルガはそれを知っている。


「なら、いくつなら出せる」

「おにぎり一つ。石は一グラム」

「一グラムか。八万四千円。原価の六百四十六倍。……いいだろう。だが、こちらからも条件がある」

「条件?」

「一日の交換量を決めたい。おにぎり十個を上限にする……今は、だ」

「今は?」

「他の集落にも回すことになったら、満苔の日の会議で上限を変える。集落の決まりは、会議で更新する」


 ガルガが考え込んだ。年長のゴブリンと低い声でやり取りする。マルサが傍受しているが、健一には聞こえないふりをした。交渉相手の内部協議を盗み聞きするのは、税務調査では有効だが外交では禁じ手だ。


「十個。石は十五グラム」

「十五? こちらは十グラムの提示だが」

「おにぎりは十個。石は十五グラム。だが──石は一・五グラム掛ける十ではない。一グラム掛ける十と、残り五グラムは別だ」

「別?」

「残り五グラムは……次に来る約束の代金だ。お前が来なくなったら困る」


 健一は言葉を失った。


 ガルガは取引を二つに分割した。物品交換分と、継続的関係の担保分。商学部の教授が聞いたら拍手するレベルの交渉構造だ。


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▶ LIVE ダンジョン資源管理庁 公式👤12


💬 税理士たまご:おにぎり1個で126,000円の取引

💬 名無し   :錬金術かよ

💬 経済ヲタ  :ゴブリン側の交渉がうまいな

💬 名無し5  :「継続保証金」の概念あるのすごい

💬 会計士   :この取引記録D税法20条の適用前例になるぞ

💬 深夜の税務署:マルサちゃんの横顔映った!

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「……分かった。おにぎり十個、魔石十五グラム。うち十グラムが物品対価、五グラムが継続取引の保証金。これでいいか」

「いい。ガルガの集落はこれを認める」


 握手の代わりに、ガルガが拳を差し出した。健一が自分の拳を合わせた。ゴブリン式の合意のサインらしい。


 マルサがHUDに取引条件を投影した。


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■ 取引記録 第1号

日付:202X年5月XX日

場所:地下5階ゴブリン集落


取引内容:

おにぎり(鮭)10個 ⇔ Eランク魔石15g

内訳:物品対価10g + 継続保証金5g

評価額:¥1,260,000(税別)


双方合意済み

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「日額百二十六万円。年間換算で約四億六千万円の取引規模です。なお、この取引はD税法第二十条の適用対象となる可能性が──」

「分かってる」

「課税対象取引に該当します」

「分かってると言った。だがまだ早い」

「……理由を」


 健一はガルガたちがおにぎりを分け合っている光景を見ていた。


「課税には順番がある。まず関係を作る。次に経済を理解する。それから法を説明する。そして初めて、税の話ができる。順番を飛ばしたら全部壊れる」

「時間的制約があります。カウントダウンは三百四十八日です」

「分かってる」

「分かっていることが多いですね」

「分かっていてもできないことが多いのが公務員だ」


 健一は帳簿を取り出した。紙の帳簿。電子記録はマルサが自動で行うが、健一は必ず手書きでも残す。国税庁時代の癖だ。数字は手で書くと頭に残る。


 日付。取引先。品目。数量。評価額。備考欄に「継続保証金5g」。


 書き終えて帳簿を閉じようとしたとき、マルサが横から覗き込んだ。


 〇・三秒の間があった。


「主任の筆跡は、一画ごとの力の配分が均等です。性格分析上、几帳面さと強迫的な正確さを示しています」

「褒めてるのか」

「観察の報告です」


 ガルガが戻ってきた。


「ケンイチ。一つ聞いていいか」

「何だ」

「この食べ物──おにぎり。他の集落にも分けたいと思っている。遠くの集落は食べ物が少ない。分けてやりたい」


 他の集落。流通の概念だ。この集落から別の集落へ、物資を移動させる。ゴブリンが自発的に流通網を構想している。


「それはお前たちの自由だ。ただし一つだけ。どの集落にいくつ渡したか、記録を残してくれ」

「記録?」

「数を覚えておいてほしいということだ。後で大事になる」


 ガルガは不思議そうに頷いた。


 帰路。地下三階の階段を登りながら、マルサが報告した。


「本日の視聴者数、最大十二名。既知三名、前回からの未確認二名が継続。内閣府政策統括官室一名が継続。本日新規六名のうち、四名は省庁関連IPですが、二名はプロバイダ経由の一般回線です」

「一般人がこの配信を見てるのか」

「非公開URLが外部に漏洩した可能性があります。あるいは意図的なリークです」

「誰が」

「特定できません。ただし、一般回線の二名はいずれもダンジョン関連の民間企業が集中する港区のIPアドレスブロックに属しています」


 港区。JADEコーポレーションの本社所在地。


 健一は何も言わず、階段を登り続けた。


 税収、ゼロ。だが帳簿の一行目が埋まった。


 取引記録第一号。おにぎり十個。魔石十五グラム。百二十六万円。


 これがいつか、D税法第二十条の最初の適用事例になる。


 その日が来るまでに、あとどれだけのおにぎりを握ることになるのか。健一にはまだ分からなかった。



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第5話「物々交換 ── 経済の原点」了

次回──【第6話】「税とは何か ── 文明への問い」

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