最終話 録音された真実
静かだ。
皮肉なことに、俺が追い求めていた理想郷は、鉄格子とコンクリートに囲まれたこの箱の中にあった。
取調室。 壁は分厚く、外部の音を完全に遮断している。換気扇の低い唸り声だけが、心地よいホワイトノイズとして空間を満たしていた。
俺の手首には手錠。目の前には、疲れた顔をした中年の刑事が座っている。
「……設楽 響(したら ひびき)。32歳。無職。住所不定……と言いたいところだが、ゴミ屋敷と化したマンションが一件あったな」
刑事が淡々と書類を読み上げる。 俺は鼻で笑った。無職? ゴミ屋敷? 何を言っている。俺は市役所生活環境課のエースであり、あの部屋は要塞だ。
「訂正を求めます。私は公務員です。今回の件も、騒音規制法に基づく強制執行の現場で起きた、公務中の事故であり――」
「三年前だ」
刑事は俺の言葉を遮り、一枚の書類をテーブルに投げ出した。
懲戒免職処分通知書。日付は三年前。
「市民からの電話相談中に発狂し、受話器を叩きつけ、上司に暴行を働いてクビ。それ以来、お前は毎日スーツを着て、毎朝開庁と同時に、一般用の正面玄関から現れ......そのまま待合室の長椅子に座り込み、ブツブツと架空の電話対応をしながら、チラシの裏に意味不明なメモを書き殴る……。職員の間じゃ有名だったぞ」
……捏造だ。
国家権力が、俺という有能な個体を社会的に抹殺しようとしている。
だが、そんなことはどうでもいい。重要なのは「正義」の証明だ。
「私の経歴など些細な問題です。それより、あの川上とかいう女の聴取は済んだのですか? 彼女こそが、公共の福祉を乱す害悪だ」
俺は身を乗り出した。 刑事が呆れたように溜息をつく。
「被害者の川上さんは、お前のことなんて知らなかったよ。三日前、電車で突然ぶつかられて……それだけじゃない。昨夜だ。駅からの帰り道、薄汚れた男が後ろをつけてくる気配に気づいて、怖くて震えていたそうだ。それに、A駅やB駅でも通報が入ってたぞ。『一日中、柱の陰に立っている不審な男がいる』ってな。それはお前だろ。」
「嘘だッ!!」
俺は机を叩いた。 手錠がジャラリと鳴る。
「彼女は俺に執着していた! 電車の中でも、俺の家の前でも、そして俺の部屋の中にまで、あの汚い声で囁き続けていたんだ!」
俺の脳裏に、あの粘着質な音が蘇る。
『……シネ……キモイ……』
あれが幻聴なものか。鼓膜が震えるほどの物理的な音だった。
「証拠ならある」
俺は勝ち誇った顔で言った。
これが切り札だ。俺の潔癖さと、几帳面さが、この局面で真実を照らす。
「私のスマートフォンを押収しましたね? その中に、音声レコーダーアプリが入っているはずです。私は常に録音を回していた。彼女の暴言、嫌がらせの全てが記録されている」
刑事は眉をひそめ、証拠品袋から俺のスマートフォンを取り出した。 画面はヒビ割れ、手垢で汚れている。
「フォルダ名は『調査記録』だ。昨夜のデータを聞けばいい。私の部屋に侵入してきた彼女の声が、はっきりと残っているはずだ」
刑事が操作し、再生ボタンを押す。 俺は背もたれに深く寄りかかり、目を閉じた。
さあ、聞くがいい。あの女の醜悪な本性を。世界中に、俺の正しさを知らしめる時だ。
プツッ。
再生が始まった。
『…………』
最初は、静寂だった。 やがて、カサカサという衣擦れの音が聞こえる。俺が防音作業をしていた時の音だ。
そして、その時は訪れた。
『……ズズッ……』
聞こえた。 これだ。この音だ。
「ほら、聞こえるでしょう! この不快なすするような音! 彼女が近くにいた証拠だ!」
俺は叫んだ。だが、刑事は無表情のまま、黙って先を促した。
『……ア、アァ……』 『……シネ……キ……モイ……』
女の声が響く。 俺は勝利を確信し、目を開けた。 どうだ、と刑事の顔を見る。
しかし、刑事の顔には、同情とも軽蔑ともつかない、不気味な色が浮かんでいた。 なぜだ? 証拠は明白じゃないか。
「……設楽。お前、これが女の声に聞こえるのか?」
「何を言っている。どう聞いても――」
俺は言葉を詰まらせた。
静寂な取調室で、スマホのスピーカーから流れるその声が、無防備な鼓膜に生々しく響き渡った瞬間。 違和感が、冷水のように背筋を駆け上がった。
『……ズズッ……ンガッ……シ、シネェ……』
それは、女の声ではなかった。
低く、湿り気を帯びた、しゃがれた男の声。
痰が絡んだような呼吸音。
唇をくちゃくちゃと鳴らす、生理的な嫌悪感を催す咀嚼音。
それは、俺が一番よく知っている声だった。 俺自身の声だった。
「あ……」
思考が停止する。 録音は続く。
『……ユルサナイ……オレハ……エリートダ……』
『……ズズッ……キモイ……オマエガ……キモイ……』
ブツブツと、意味不明な言葉を羅列し、時折奇声を上げ、自分の体を掻きむしる音。
俺が「女の声」だと思っていたものは、すべて俺の喉から漏れ出ていた音だった。
ノイズキャンセリングイヤホン。
あの機械は、外部の音を消す。だが、自分の骨を伝わって響く「骨導音」までは消せない。
静寂になればなるほど、自分の体内から発せられる咀嚼音、呼吸音、独り言は、驚くほど大きく響く。
俺は、俺自身の出す「汚物のような音」を、女の声だと誤認し、それに憎悪を募らせていたのか?
電車の中で「うるさい」と睨みつけていた時も、俺はずっと、ブツブツと呟いていたのか?
――『うるさいのは、お前だよ』
駅のホームで、女が言った(ように見えた)言葉が蘇る。
あれは幻聴ではなかった。
俺の深層心理が、唯一正常な部分が、最後の瞬間に俺に突きつけた「真実」だったのだ。
「う、うわあああああああああ!!」
俺は頭を抱えて絶叫した。 自分の声がうるさい。 叫べば叫ぶほど、喉が震え、鼓膜を内側から殴りつける。
「止めてくれ! 消してくれ! その音を消せえええええ!!」
俺は刑事に掴みかかろうとしたが、手錠がそれを阻む。 刑事は哀れむような目で俺を見つめ、静かに再生を停止した。
プツッ。
音が止まる。 だが、俺の頭の中では、まだ響いていた。
ズズッ、ジュルッ、ブツブツ……。
俺という存在が生きて呼吸している限り、このノイズは永遠に消えない。 俺自身が、俺の聖域を汚す最大の汚染源だったのだ。
「……取り調べは中断だ。医師を呼ぶ」
刑事が立ち上がり、部屋を出て行こうとする。 重い鉄の扉が開く音。廊下のざわめきが流れ込んでくる。
俺は一人、椅子の上で震えていた。 逃げ場はない。 イヤホンなど何の意味もなかった。
耳を塞いでも、内側から響く音からは逃げられない。
なら、どうする? 元を断つしかない。
ノイズの発生源を、完全に破壊するしかない。
俺はゆっくりと顔を上げた。 机の上に、刑事が置き忘れたボールペンが一本、転がっている。
俺は震える手でそれを握りしめた。
公務員時代、数々の苦情を処理してきた、黒いボールペン。 これで「×」をつければ、案件は処理完了となる。
俺はペン先を、自分の右耳の穴に向けた。
「……キャンセリング、開始」
躊躇はなかった。 俺は全身の力を込め、それを奥へ、もっと奥へ、脳髄の静寂に届くまで突き立てた。
グシャリ。
破壊の音が響く。 そして世界は、唐突に、永遠の静寂へと包まれた。
ああ、静かだ。 これが、俺が求めていた世界だ。
俺は、誰にも聞こえない声で、満足げに笑った。
ノイズ・キャンセラー 藤宮 あゆむ @ayumu_fujimiya_0104fr
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