第3話 縫い目が見える

 私、アニエス・ヴァルトールの世界は、他の人よりも少しだけ「線」が多い。


 幼い頃、それに気づいたのは刺繍の授業中だった。

 先生が手本に見せた美しいタペストリー。皆がその絵柄の美しさを褒める中、私だけはそこに違和感を覚えていた。


 ――そこ、糸が引き攣れているわ。

 絵柄ではなく、その奥にある「構造」が見えたのだ。布を構成する糸の張り具合、縫い目の結び目の強弱、作った人の焦りや妥協といった感情の「糸」までもが。


 その力は成長するにつれ、物理的な物だけでなく、人の縁や誓約、魔術的な結界にまで及ぶようになった。

 世界はすべて、見えない糸で縫い合わされている。

 そして私の指先は、その縫い目をほどいたり、緩んだ結び目を整えたりすることができるのだ。


「……奥様。これで検品は全てですか?」


 低い声に意識を引き戻され、私は顔を上げた。

 目の前には、大量の木箱が積み上がっている。公爵家の食料庫の一角だ。

 声をかけてきたのは、公爵家筆頭執事補佐兼、アレクシス様の側近であるガイゼルだった。彼は片眼鏡(モノクル)の位置を指で直しつつ、手元のリストにペンを走らせている。


「ええ、ありがとうガイゼル。孤児院へ送る古着と毛布、それから保存食の仕分けは終わりました」

「手際が良いですね。これほどの量を、わずか半日で終えられるとは」

「ただ仕分けるだけではありませんから」


 私は手元にある、古びた熊のぬいぐるみを撫でた。

 孤児院から「修繕不能」として戻ってきたものだ。腕が千切れかけ、綿が飛び出している。

 普通なら捨てるしかない。けれど、私には見える。

 このぬいぐるみに、持ち主だった子供の「寂しさ」と「愛着」という、桃色の糸がまだしっかりと結びついているのが。


(まだ、役目を終えていない)


 私は右手をぬいぐるみに掲げた。触れはしない。掌を数センチ上に浮かせるだけだ。

 集中する。

 千切れかけた物理的な糸と、その概念を繋ぐ糸。

 ――見える。ここの結び目が、ほつれているだけ。


「……結べ」


 心の中で唱え、指先を指揮者のように動かす。

 すると、飛び出していた綿がふわりと内側へ戻り、千切れた布の端が吸い寄せられるように閉じた。

 魔法のように「新品に戻る」わけではない。古びた風合いはそのままに、傷口だけが丁寧に縫合され、持ち主の愛着が再び循環するように「整え」られたのだ。


「……ほう」


 ガイゼルが感嘆の息を漏らした。

 彼はアレクシス様の実務を支える切れ者だ。私のこの力を「便利だが得体の知れないもの」として警戒しつつも、実益があるなら利用する冷徹さを持っている。


「ただの修繕魔術とは違いますね。魔力の波長がほとんど感じられない。まるで、物が自ら元通りになりたがっているようだ」

「私は縫い目を整える手伝いをしただけです。……これで、あの子もまた眠れるでしょう」


 ぬいぐるみを箱に収め、私はガイゼルに向き直った。


「それで? ここに顔を出したということは、アレクシス様について報告があるのでは?」

「お察しの通りです」


 ガイゼルの表情が曇る。


「閣下は先ほど帰還されましたが……かなり消耗しておられます。王城の結界維持装置に不具合があり、ご自身の聖痕から直接魔力を供給されたそうで」

「……」


 胸の奥が冷える。

 アレクシス様の「聖痕」。それは王国の守護神である証だが、同時に彼を蝕む呪いでもある。


「すぐに向かいます」


 私は作業の手を止め、執務室へと急いだ。


          ***


 執務室の扉を開けると、そこは冬の夜のような静寂に包まれていた。

 暖炉には火が入っているのに、部屋の空気は凍りつくように冷たい。


「……入るなと言ったはずだ」


 部屋の奥、革張りのソファに深く沈み込んだアレクシス様が、掠れた声で言った。

 彼は上着を脱ぎ捨て、シャツのボタンをいくつか外して、荒い息を吐いている。

 顔色は蝋のように白く、額には脂汗が滲んでいた。


「お茶をお持ちしました。体を温める薬草が入っています」


 私は彼の拒絶を聞かなかったことにして、湯気の立つカップをローテーブルに置いた。

 彼は私を睨もうとしたが、その瞳には焦点が定まっていない。

 限界なのだ。


 彼が右手の手袋を外し、乱暴にサイドテーブルへ放り投げる。

 露わになったその右手の甲。

 そこに、王国の守護者たる証――『聖痕』が刻まれていた。


 それは本来、神聖な幾何学模様であるはずだった。

 けれど、私の目に見えたものは違う。


「……っ」


 私は思わず息を呑んだ。

 ひどい。あまりにも、ひどい。


 彼の右手の甲を中心に、どす黒い銀色の糸が、皮膚の下へ、肉の中へと食い込んでいる。

 それは神聖な「印」などではない。

 まるで生きた肉体に、呪いの縛めを無理やり縫い付けたかのような、歪で、醜悪な『結び目』の塊だった。


(これが、聖痕……?)


 私が知る神殿の教義では、聖痕は「神の恩寵が、花開くように宿る」とされている。力は内から外へと溢れ、国を守る盾となると。

 だが、目の前にあるこれは逆だ。

 糸の流れがすべて『内側』へ向いている。

 持ち主の生命力、魔力、感情――すべてを強制的に吸い上げ、枯渇させるために縛り上げている。


(違う。これは、神の奇跡なんかじゃない)


 私は「糸」の専門家として確信する。

 この結び目には、人の作為がある。誰かが意図的に、この聖痕の出力を暴走させ、持ち主を苦しめるように、最初から欠陥品として縫い上げた痕跡があるのだ。


 ――『守護者が国を守るため、最も近しい者を供物として差し出す』


 ふと、建国時に王家と神殿が交わした『旧誓約』の言葉が脳裏をよぎる。

 供物が必要なのは、聖痕が神の奇跡だからではない。

 この聖痕が、意図的に魔力を枯渇させるよう『設計』されているからだ。だから常に誰かの命を薪としてくべ続けなければならないように、根本の仕組みから歪められている。


「見るな……醜いだろう」


 私の視線に気づいたアレクシス様が、痛みに歪む顔で右手を隠そうとした。

 その動作だけで、黒い糸が彼の血管をきりきりと締め上げるのが見える。


「……いいえ」


 私は首を振った。

 怒りが、腹の底から湧き上がってくる。アレクシス様に対してではない。彼をこんな「道具」に作り変えた、見えない何者かに対してだ。

 清め? 慈悲? よくもそんな言葉を並べられたものだ。


「痛いでしょう。……少し、楽にします」


 私は彼の手を掴むことはしなかった。

 ただ、彼の右手の甲、その数センチ上に自分の手をかざす。触れれば「縁」が結ばれる。今ほどきたいのは、もっと浅いところだけだ。


「やめろ、吸われるぞ……!」

「大丈夫です。奪われたりしません。……ただ、絡まっているのを、ほどくだけ。全部は無理でも、今いちばん痛い結び目なら」


 私は目を凝らす。

 複雑怪奇に絡まり合った結び目の中で、表面に近いところ――痛みだけを増幅させる一本を見つける。

 それは、力の流れには必要のない、無意味な飾り結びだ。むしろ、締め付けを誇示するため『だけ』の結び方。


(こんなもの、ただの悪意だわ)


 指先を小さく弾く。

 ピン、と見えない糸が弾ける音がした――同時に、掌の奥をかすめるような引力が走り、私は反射的に息を詰める。


 その瞬間、アレクシス様の右手の甲から、どす黒い色がすうっと引いていった。

 締め付けが緩み、止まっていた血流が再開する。けれど、聖痕そのものが消えたわけではない。深い結び目は、まだそこに残っている。


「……は……?」


 アレクシス様が、呆然と自分の手を見つめた。

 ズキズキと脈打っていた激痛が、嘘のように引いている。だが、痛みの“根”が抜けた感覚ではない。ただ、喉元に突きつけられていた刃が、ひとまず鞘に戻ったような――そんな軽さだ。


「何をした……?」

「痛みを増やす結び目を、一つだけほどきました。……また締まり直すかもしれません。でも、今は楽に呼吸できます」


 私は努めて何でもないことのように微笑んだ。

 けれど心臓は早鐘を打っている。今の一瞬、触れていないのに引かれた。見えないまま同じことをすれば、命ごと引き裂かれる。


(だからこそ、今まで誰もこのおかしな構造に手を出せなかった……いえ、気づくことすらできなかったのね)


 確信した。

 これは国を守るための聖なる印なんかじゃない。意図的に痛みを増幅させ、持ち主の心身を削り、神殿に依存させるために作られた『首輪』だ。

 

「アレクシス様」

「なんだ……」

「貴方のその痛みは、貴方のせいではありません。……私が必ず、その重すぎる荷物を軽くしてみせます」


 彼は不思議そうな、けれどどこか縋るような瞳で私を見ていたが、やがて痛みが和らいだ安堵からか、静かに目を閉じて深い眠りに落ちた。

 私は眠る彼にそっと毛布を掛け、静かに執務室を後にした。


 自分の執務室に戻り、窓の外――神殿のある方向を睨み据える。

 敵の正体が見えた。

 戦うべき相手は、ただの意地悪な神官や偽聖女ではない。

 彼らの背後にある『制度』そのものだ。


 コツ、と窓ガラスを叩く音がした。

 見れば、夜の闇に紛れて一羽のフクロウが止まっている。その足には、真っ黒な封筒がくくりつけられていた。

 蝋封には、神殿の紋章が押されている。


「……来たわね」


 あの毒の花束に続く、第2の矢。

『清めの招待状』。

 夫の痛みを和らげた私を咎めるように、タイミングを見計らったかのような招集命令。


 私は震える指を握りしめ、しかし唇の端を吊り上げた。

 上等だわ。

 その縫い目、私が全部暴いてやる。

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