第2話 禁欲の公爵
翌朝、王都の空は抜けるように青かった。
けれど公爵邸の玄関ホールには、ひんやりとした冷気が漂っている。それは季節のせいではなく、この屋敷の主が纏う空気そのものだった。
「行ってらっしゃいませ、アレクシス様」
私は使用人たちと並び、王城へ出仕する夫を見送るために頭を下げた。
大理石の床にコツ、コツ、と軍靴の音が響く。
騎士団の礼服に身を包んだアレクシス様は、相変わらず氷像のように整った美貌をしていた。少し癖のある銀の髪を僅かになびかせ、その瞳はどこか遠くを見ている。
彼は私の前で足を止めると、革の手袋を嵌めた手をわずかに持ち上げ――そして、空中で躊躇った末に下ろした。
「……今日は、神殿の者が来るかもしれん」
事務的な報告のような口調だった。けれど、その声の低さには、わずかな懸念が滲んでいる。
「昨夜、君がメイドに言ったこと……耳に入った。余計な波風を立てるなとは言わないが、奴らは執念深い。一人で相手をするな」
「ご心配には及びません。私は公爵夫人として、当たり前の線引きをしただけですから」
私が顔を上げて微笑むと、アレクシス様は眩しいものを見るように目を細めた。
その視線が、私の首元や手首――肌が露出している部分を避けるように泳ぐ。
「……君は、強いな」
ぽつりとこぼれた言葉は、称賛というよりは、自嘲に近かった。
「俺には、その強さがない。……いや、強すぎてはいけないのだ」
彼は視線を落とし、自身の手を見つめた。
黒革の手袋に覆われたその手。
私には視えていた。その手袋の下、皮膚の表面に、びっしりと「拒絶」の糸が巻き付いているのが。
ヴァルトール公爵家の聖痕は、生まれつきのものではない。次期当主となる者がまだ幼い頃、神殿の最深部で行われる『継承の儀』によって右手に刻み込まれる。
王国を守護するための、誉れ高き神の印――表向きには「国の結界という巨大な力に耐えるため、幼少期から印を刻み、長い年月をかけて身体を慣らしていく必要がある」と語り継がれていた。すぐに完全な力を扱えるわけではなく、成長とともに適応を重ね、次代の当主となる頃には守護者として機能できるよう備えるのだ、と。
その聖痕は、王国の結界を維持するために膨大な魔力を吸い上げる。
だが、その供給源はどこか?
聖痕が最初に狙うのは、一度でも素肌で触れた相手だ。触れた瞬間に「縁」が結ばれ、情が跳ねた時ほど吸引が強くなる。
手袋や衣服は刃を鈍らせるが、万能ではない。だから彼は、触れない。触れさせない。
かつての伝承では『大気から得る』とされていたが、現実はもっと残酷だ。
縁が結べない時は、持ち主が長く手に取ったもの――身近な道具や、愛着のある品からも、少しずつ奪っていく。
そして感情が高ぶった瞬間、その吸引力は牙を剥く。。
(だから、彼は誰も愛さない。愛せない。そう、深く愛してはいけないのだ)
アレクシス様が「氷の公爵」と呼ばれる所以。
それは彼が冷酷だからではない。感情を凍らせ、誰にも心を動かさないことでしか、周囲を「捕食」から守れないからだ。
彼にとって、愛は幸福ではなく、大切な人を殺す凶器でしかない。
「アレクシス様」
私は一歩、彼に近づいた。
とっさに彼は半歩下がる。その反応の速さに、胸がずきりと痛んだ。
拒絶ではない。これは、訓練された反射だ。
「クラヴァットが、少し曲がっております」
「……あ」
彼は自分の首元に手をやったが、厚い手袋のせいか結び目を上手く直せない。
もどかしそうな彼を見て、私は自然と手を伸ばした。
「失礼します。私が――」
「だめだ!」
鋭い声がホールに響き、使用人たちがびくりと肩を震わせた。
私の手は、彼の方へ伸ばされたまま空中で止まった。
アレクシス様の顔色は蒼白だった。まるで、猛毒に触れそうになった子供を叱るような、必死な形相。
「……すまない。大声を出した」
彼はすぐに表情を鉄仮面の下に隠し、荒くなった呼吸を整える。
「私に、触れてはいけない。……神殿の教え通り、清めの期間だからな」
「それは建前でしょう? 本当は、私から何かを奪うのが怖いのですか」
「!」
図星だったのだろう。彼の瞳が揺らぎ、その周囲にある空気がきしりと音を立てて凍りついた。
私には視える。彼の中から溢れ出そうになる「触れたい」という渇望の糸を、理性の鎖がギリギリで締め上げている様が。
その鎖はあまりに強く、彼の肌に食い込み、血を流させている。
(なんて……痛々しい人)
彼は禁欲的なのではない。
誰よりも温もりを求めているのに、誰よりもそれを恐れている。
その矛盾が、彼の中で嵐のように渦巻いている。
私は伸ばした手を、ゆっくりと引っ込めた。
今、無理に触れれば、彼の理性の糸が切れてしまうかもしれない。それは彼を傷つけることになる。
「分かりました。触れません」
私は一礼し、穏やかな声で告げた。
「ですが、クラヴァットが曲がったままでは、公爵家の威信に関わりますわ」
「……む」
「ですから、こうしましょう」
私は近くにあった姿見を指差した。
「鏡を見ながら、ご自分で直してくださいませ。私が言葉でお伝えしますから。『もう少し右』『そこです』と」
「……言葉で?」
「はい。触れなくても、整えることはできます」
アレクシス様は少し呆気に取られた顔をして、それから迷うように鏡の前に立った。
鏡越しに、私たちの目が合う。
「右の結び目を、もう少しきつく引いてください」
「こうか」
「ええ。そして襟を少し下げて……はい、完璧です」
数回のやり取りで、クラヴァットは美しく整った。
指一本触れていない。けれど、鏡の中の彼は、先ほどまでの張り詰めた気配が少しだけ緩んでいた。
彼は自分の首元に触れ、それから鏡の中の私をじっと見つめた。
「……器用なことだ」
「言葉は、人を縛ることもできますが、ほどくこともできますから」
私が昨夜の騒動を含めてそう言うと、彼はわずかに口元を緩めた。本当に、ごくわずかに。
それは氷の大地に差した、最初の日差しのようだった。
「行ってくる、アニエス」
「行ってらっしゃいませ、あなた」
初めて名前ではなく、「あなた」と呼んでみた。
彼は背中を向けたまま、一瞬だけ動きを止め――何も言わずに屋敷を出て行った。
けれど、その耳がほんのりと赤くなっているのを、私は見逃さなかった。
閉ざされた扉を見つめながら、私は胸の前で手を組む。
視界に残る残像。
彼が去った後の空間には、淡い銀色の粒子が漂っていた。それは彼が必死に抑え込んだ、私への想いの欠片だ。
「……今はまだ、鏡越しで精一杯」
でも、いつか必ず。
その手袋を外させ、直にその手に触れてみせる。
奪う力なんて、私の「治す」力で相殺してしまえばいいのだから。
私は決意を新たに、屋敷の奥へと振り返る。
今日はこれから、孤児院への支援物資の確認がある。神殿が「祈りが足りない」と言うなら、こちらは「実利」で返答しなければならない。
「さあ、忙しくなるわよ」
足早に歩き出す私の視界の端で、窓の外に白い鳥が横切った。
――それが、神殿からの次なる「招待状」を運ぶ使い魔だとは、まだ知らずに。
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