第3話 嘘つきの喉に咲く茨②

 男の手は、痙攣したように激しく震えていた。

 万年筆の先が、純白の紙の上で「ガリッ」と不快な音を立てて滑る。喉元に巻き付いた黒い茨が、彼が激しく呼吸を乱すたびに、獲物を絞め殺す蛇のようにじわりと食い込んでいく。その棘が皮膚を裂くたびに、男の首筋からはドロリとした鉄錆色の血が滴り、高級そうな白いシャツの襟を汚していった。


「焦らなくていい。……もっとも、君に残された肺活量がどれほどか、僕には保証できないけれどね」


 律は椅子に深くもたれかかり、脚を組み替えた。眼鏡のレンズ越しに放たれる視線は、もはや人間を相手にしているそれではない。故障した機械の部品を点検するような、冷たく乾いた観察眼だ。

 男は涙と脂汗で顔をぐちゃぐちゃにしながら、一心不乱に文字を書き連ねた。そこには、一見すればどこにでもあるような、矮小で、しかし当人にとっては致命的な「裏切り」の告白が並んでいた。


『恋人に、嘘をつきました』


「ほう。どんな嘘だ? 嘘にも『質』というものがある。解呪の難易度を決めるのは、君の誠実さではなく、その嘘がどれだけ強固な論理(ルール)で自分を縛っているかだ」


 男は喘ぎながら、万年筆を走らせる。


『彼女は病弱で……僕がいなければ死んでしまうと言った。だから僕は、彼女に酔いしれるように言ったんです。「君のためなら、僕は自分の声を神様に差し出してもいい。一生、君だけを愛して、他の誰とも話さない」と』


 横で覗き込んでいた累が、げらげらと声を上げて笑った。


「げっ、さっむいセリフ! 愛の誓いってやつか? 律、こいつただのロマンチストじゃねえか。ワニのオレ様でも吐き気がするぜい」

「黙っていろ、累。……続けて。その『神様』への誓いが、どうしてこんな無様な植物に変わったんだ?」


 男のペン先が止まる。インクの染みが、紙の上にじわりと広がった。


『でも、一ヶ月前……別の女性を好きになりました。若くて、健康で、眩しい彼女です。病室の匂いがしない彼女に惹かれた。……病弱な恋人に別れを切り出そうとした瞬間、喉に茨が生えたんです。声を出すたびに、茨が食い込む。別れようとすれば、喉が裂けて死ぬ。僕は……自分のついた甘い嘘の檻に、閉じ込められたんです』


 男は書き終えると、力尽きたように机に突っ伏した。

 「あ……、あ……っ」

 喉の茨は、いまや男の顎の下まで達し、不気味な黒い蕾を咲かせようとしている。その蕾からは、腐った花の蜜のような、甘ったるくも吐き気を催す臭気が漂っていた。


「なるほど。生物学的に見れば、あんたの喉の状態は『拒絶反応』に近い。だが、言語学的に見れば、これは極めて純粋で、かつ醜悪な『自己矛盾』だ」


 律は立ち上がり、ゆっくりと男の背後に回った。磨き上げられた革靴の足音が、静まり返った店内に冷たく響く。男は背後に立つ律の気配に、目に見えて怯えた。


「あんたは『一生、君だけを愛する自分』という全能のルール(石)を、自分の言葉で作り上げてしまった。そして今、そのルールという重しを自分自身で持ち上げることができなくなっている。……典型的な『全能のパラドックス』だな」


 律は男の首元に、細く長い指を伸ばした。茨の棘が律の指先をかすめ、わずかに血が滲む。だが、彼は眉一つ動かさず、むしろ愉悦を含んだように目を細めた。


「おい律、専門用語はいいからよ。……こいつ、助かるのか? 見てみろよ、もう顔が紫だぜい」


 累が、金の瞳を細めて律を見上げる。累自身もまた、律の「言葉の檻」に囚われている身だ。他人事とは思えないのか、あるいは獲物が死ぬのを惜しんでいるのか。


「救う方法は一つ。……あんたの愛した彼女を、今すぐここへ呼びなさい。あんたの裏切りを、彼女に『定義』させる必要がある。彼女があんたの嘘を『許す』か、あるいは『絶望』して契約を破棄するか。他者の観測だけが、あんたの閉じられた矛盾を破壊できる」


 男は絶望に顔を歪めた。自分を信じ切っている病弱な恋人に、別の女が好きになったと告白しろというのか。それも、この茨まみれの無様な姿で、浮気の事実を突きつけるのか。


「嫌だ、という顔だな。だが忘れるな、あんたがここへ来たのは『助けてくれ』と言ったからだ。私は解呪師であって、あんたのプライドや恋愛事情を守る騎士(ナイト)じゃない。あんたが支払うのは金だけじゃない。……あんたのこれまでの『善人としての自分』だ」


 律は男の耳元で、死神のように囁いた。


「報酬は、あんたの全資産の三割。……そして、この呪いを解いた後、あんたが彼女から受ける『一生分の恨み』だ。その泥水を啜る自由を私に差し出す覚悟があるなら、仕事を引き受けよう。……どうする? 茨に喉を焼かれて死ぬか、それとも恥を晒して生きるか。選ぶのはあんただ」


 男は、血と涙にまみれた顔を上げ、必死に、何度も頷いた。

 

「……っ、ぁ……! ぅ……っ!」


「契約成立だ。……累、遊びの時間は終わりだ。準備をしろ。今夜は『ワニの問い』が必要になる」


「へっ、待ってました! 久しぶりの獲物だ、骨までしゃぶってやるぜい!」


 累が獰猛な笑みを浮かべ、机を蹴って立ち上がった。少年の背中に伸びる小さな影から、圧倒的な質量を持つ「怪異」の気配が膨れ上がる。


 店名『二律背反』を照らす夕日が、血のように赤く、不吉な色で室内を塗りつぶしていった。

 救済という名の、残酷な夜が幕を開ける。

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