ヒトは可能性を信じない

古 散太

ヒトは可能性を信じない

 不幸な未来ならいくらでも想像できる。その逆はどうだろう。

 不幸な未来はいくらでも想像できるから、各種保険会社がたくさんあり、誰もがこぞって契約しようとする。リスクを考えたら契約しておいて損はない。しかしどうだろう。自分のこれからの人生は、それほどリスクばかりだなのだろうか。それほど不幸が押し寄せてくるのだろうか。そんな人生を生きたいと思えるだろうか。

 不幸な未来を想像することが、さほど難しいことではないヒトは多い。そのわりには多くのヒトが長寿を求めている。不幸な未来が待っていると想像しているのに、長生きしたいとはどういうことなのか。

 そもそも、長生きできるヒトばかりではない。残念なことだが若くして亡くなってしまう方もいる。生きていても寝たきり生活になってしまうヒトもいる。最近では認知症も数多く報告されるようになった。自分でありながら自分ではなくなる。周囲のヒトも大変だが、当の本人の不安はいかばかりか。

 ヒトという、か弱い生き物にはリスクしかない、と言っても過言ではないように思う。ヒトはか弱い生き物であり、人生のほとんどを科学技術によって支えられている。それだけでなく、社会における様々な支援制度や社会的サービスのおかげで、か弱いヒトという生き物は生き永らえることができるようになった。

 逆に言えば、医療や介護にかかわる科学技術や、社会的な制度がサービスがなければ、長寿大国と呼ばれるほど長生きはできない、ということになる。

 寿命が延びた、というのは、ヒトの能力があがったわけではなく、こういった技術やサービスのおかげで生きることができるようになっただけだ。それに、実際には寿命が延びているわけではない。活動できる期間が延びただけであって、最高齢自体はほとんど変化がない。それでも自分も含めて愛するヒトが長く生きてくれるのは喜ばしいことだろう。

 現実として、科学技術の進歩や進化により、ヒトはより便利に、より快適に、しかも長生きできる環境が整っている。が、多くのヒトが自分の未来を想像するとき、具体的な夢や希望があればそれらを思い浮かべることはあるだろうが、そういったことがない場合、身近な不安や恐怖を元にした未来を想像してしまう。

 夢や希望にワクワクしているヒトに対して、「現実を見ろ」とか「地に足をつけて生きろ」と言うヒトがいるが、現実を見ていないのはどちらなのだろうと考えてしまう。社会という人生の上澄み部分だけを見て、本質を生きている人にクレームをつけているのは、ヒトの人生の足を引っ張っているにすぎない。


 ヒトの人生は、夢や希望、楽しさや面白さなどを本質として成り立っている。

 ヒトの歴史の中で生みだされたものや発見されたものなどは、そのほとんどが、好きで生みだしたり発見したものばかりだ。調査、観察、実験、研究、継続など、どれもよほど好きでなければ続けることはできないことばかりである。

 ヒトにとって、社会にとって、便利さや快適を追求したものから、医療技術や薬剤のようにヒトの生命や健康を維持するためのもの、それとは逆にヒトを殺傷するための武器から大量殺戮兵器まで、そのほとんどが、どこかの誰かにとっての夢や希望、楽しさや面白さ、すこし付け加えるなら好奇心や探求心などによって生みだされたり、発見されたりしたものばかりである。

 それは、「ヒトが生きる」という行為の本質が、ポジティブな思考によって存在していることを指し示している。太古の時代から現在に至るまで、ヒトの歴史というのはそのようにして紡がれているのである。

 そう考えると、現実的にヒトは、今考えられる最大限の安全や安心、豊かさや便利さや快適さの中で生きているということになる。

 ではなぜヒトは、自分に不都合な、あるいは不幸な未来を想像してしまうのか。

 根本的なこととしてヒトは、比較して、区別して、理解するという習性がある。

 言葉的な意味はすこし違うかもしれないが、そのためにヒトの脳にはネガティブな思考や感覚的な言語がプリセットされている。それは今体験していることが幸せかどうか、楽しいかどうかを判別するために用意されている。あくまでも判定するためのネガティブ思考なので、例えるなら天秤で重さをはかるときの分銅のようなものだ。

 しかし現代を生きるヒトの多くが、分銅をメインに据えてしまっているため、何がポジティブかを測るためではなく、何がネガティブを知るためにポジティブを分銅にしてしまっている。

 本来は、誰でもヒトは希望を見据えて生きていく。希望のない人生など、とてもじゃないが生きていくことは困難だ。それは、生まれながらにしてヒトは、希望を想像することができるようになっているということである。その希望は成長していくにつれて、その可能性を大きく拡大させていく。まさに多種多様で無限の可能性が、いつも目の前に存在している。

 社会的な立ち位置もたしかに大切だろう。冷たい話だが多くの人の場合、いくらでも代替えがある。とは言え、自分にとって自分の人生は一度きり。この瞬間をネガティブに過ごせば、自分史にネガティブな時間という瞬間が残るだけである。

 可能性は、さまざまな角度から見ればいくらでも見つかる。今がつらくても苦しくても、自分の視点次第でいくらでも見つかるものだ。

 希望を自分の中心に据えて、未来を見てみる。その想像は絶対に現実化できないものだろうか。そんな未来は存在しないのだろうか。

 自分の可能性を、希望という色に染めて未来の人生を見つめてみてほしい。

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