第八章

星星之火、可以燎原 上

 夜が明けきる前の高台は、朝靄に包まれて霞んでいた。夜空が白み始めている。夕べの星が空に置き去られ、弱々しく光っていた。


 棚田の最上部、水源の森にほど近い平地に、白慧心は立っていた。朝露に濡れ、草の湿った匂いがする。少し離れた所に立つ白婉が、趙朱燿から別れの挨拶を受けていた。


「師匠、お世話になりました。この御恩は一生忘れません」

「まるで永遠の別れのような口ぶりだな」


 大げさだ、と趙朱燿の額を指で突いた白婉は微苦笑を浮かべた。


「本当に立派になった。朱雀の里でも驕らず、鍛錬を忘れぬように」

「はい」

「お前はすぐに頭に血が上るからな……。怒りを感じたら息を整え、八秒数えるんだぞ」

「はい」


 今まで、白婉が散々言い聞かせてきた注意だった。真剣な顔の弟子に、白婉は柳眉を寄せ苦み走った表情を浮かべた。


「師匠、それは無理ですよ。こいつ、昨夜も俺に喧嘩を売ってきて……」

「なんだと? そもそも、あれはあんたが」


 いつもの調子で白慧心が弟弟子に絡んだ。応戦しようとした趙朱燿を白婉が制した。


「慧心、やめなさい。朱燿も」

「は~い」

「……はい」


 はあ、と溜息をついた白婉は両腕を組んだ。


「寂しいのは分かるが……こんな時にまで、喧嘩はやめなさい」

「なっ! 師匠! 俺はさみしいなんて」


 趙朱燿は、合点がいったように笑った。


「構ってほしいならそう言え」

「構っていらん!」


「……なんとも、締まらん別れだな。朱燿、もう行きなさい。日が昇ると人に見つかる」


 師に促された趙朱燿は頷いた。最後に去りゆく弟子の頬を撫でた白婉は、「さみしくなる」と呟いた。黒目がちの彼女の目は、潤んでいるようだった。

 

「ほら、慧心。朱燿に言いたいことはないのか?」

「……俺は」


 白婉に手招かれた白慧心は言い淀んだ。朱雀の里に帰郷することになった弟弟子。誰よりも白慧心に近かった男は、明日から居ないのだ。寂寥が胸に去来する。心細く、寒い。


 その時何を思ったのか、趙朱燿が大股でこちらへ向かってきた。強い腕が動揺する白慧心の首を捕らえ、引き寄せる。艶のある深紅の髪が頬に触れた。


「さらばだ、兄弟」


 ――耳元で朱雀の低い声が別れを告げた。


 抱擁は一瞬だった。抱き返そうとするも、すでに体は離れていた。身を翻した趙朱燿は、崖を目指して駆け出した。


「朱燿!」


 趙朱燿は地を蹴り跳躍した。中空で白慧心の呼びかけに振り向き、笑った。見る者の心に残る、艶やかな笑みだった。男は跳躍した勢いのまま、崖の端から飛び降りた。


 刹那、白い霧に赤い閃光が走った。深紅の巨鳥が霧から飛び出し、強く羽ばたいた。瞬く間に高度を上げていく。


 朱雀と共に朝日は昇り、朝霧が引いていく。夜が明ける。


 霊鳥の翼端から出た炎が、山の斜面の棚田に反射した。空と大地が赤と橙に染めあげられる。


 白慧心の顔を熱風が嬲り、髪を弄ぶ。やがて朱雀――趙朱燿は蒼天の向こう側へと消えていった。


「行ってしまったな」


 白婉が、ぽつりと漏らした。寂しさの滲んだ声だった。肯首した白慧心は、青さを取り戻した空を見つめた。もう姿が見えなくなった弟弟子に呼びかける。


「必ず、また会おう。朱燿」


(次に会ったら、俺から抱き締めてやろう)


 趙朱燿はどんな顔をするだろうか。想像すると腹の底から喜びが溢れた。哀惜はいつの間にか消え去っていた。



◆◆◆



 祝恒は肩で呼吸をしていた。上司の危機と聞いて、全速力で駆けつけたようだ。


「白慧心……? 将軍!? お前、彼に何をした?!」


 祝恒は白慧心の膝に横たわる南方将軍に気づくと、その体を奪い取り、一足飛びに後退して距離を取った。素早すぎて動きを目で追えなかった。


「何もしてない。そいつの身を守ってやってくれ」


 肩をすくめた白慧心を睨みつけた祝恒は、上司を抱えなおした。青年の肩にもたれ掛かった趙朱燿の身体は脱力し、生気の無い人形のようだ。罪悪感に、じり、と心臓が灼ける。


「あなたは、二百年前に死んだと思っていました」

「……まだ生きてる。死にぞこないだ」


 はっ、と鼻で嗤うと、白慧心は床に座り込み、鳥籠を抱えなおした。命灯同士が触れ合い、がちゃりと音を立てた。ふと、祝恒が間合いを詰めようとしていることに気づいた。


「……俺を捕縛するのはいいが、すべてが済んでからにしてくれ」

「そんな言い訳が通るとでも? どうやって天界へ侵入したんですか?」


「少し静かにしててくれ、朱燿の命灯を修理する。修理が終わったら、説明しよう。それでも納得いかなかったら……天刑司へ突きだすなり、捕縛するなり、好きにしたらいい」


『おいおい! こいつに全て明かす気か?』


 耳の勾玉が喚く。白慧心は王光明に対しても「うるさい」と一言告げて黙するに徹した。


 祝恒はひとまず様子を見ることにしたようだ。南方将軍を床に寝かせると、凡庸な顔立ちに似合わぬ獣のような鋭い目つきで、白慧心を見据えた。


「逃げようなどと、思わぬように。私は甘くありませんよ」

「……誰が逃げるか」


 吐き捨てた白慧心は、鳥籠の隙間から手を入れた。趙朱燿の命灯に触れる。無機質で冷たい金属の土台部分とは対照的に、玻璃で囲われた命の灯は熱い。しかし、始めに見た時よりも炎の勢いが弱まっている。――持ち主の思念は感じない。普通の神器とは造りが違うのだろうか。


 命灯の中の深い部分を探っていく。命脈――趙朱燿をこの世に留めている命そのものは、因果の端々が切れかけていた。……もう一歩遅ければ、この世の全ての因果から切り離されていたかもしれない。想像すると肝が冷えた。


 丁寧に、この世と趙朱燿を繋ぐ因果を霊力で繋いでいった。元の通りに、いやそれ以上の強度に補修する。身体の中から、温かなものが流れ出していった。白慧心は本能的な生命の危機を感じ、手を放したくなるのを理性で押さえつけた。最後の一片を縫い付け直し、そっと手を離す。


 残存霊力――六十七。


 己の霊力値を探った。残り七割弱。天道を直す旅に出る前は、百だった。体を覆っていた倦怠感が更に増していた。


「将軍? 顔色が戻ってきた……」

「う……」


 祝恒の言葉に反応したように、趙朱燿がうめき声を上げた。白慧心は胸を撫でおろした。


「一体、あなたは何を……」

「手短に説明する。二百年前からのあらましをな」


 白慧心は端的に説明した。二百年前の白婉の死から始まる、天道の故障と暴走について。


 ――現在の標的が、趙朱燿だということも。


「では、師匠殺しは冤罪だったとでも? 天道の故障と命灯の真実……それを僕が信じると? あまりに荒唐無稽すぎる」

「信じるも信じないも、好きにしろ。俺は行く。命灯と朱燿を頼む」


 信じないと言いつつ、祝恒の声は震えていた。力づくで捕縛する気は無くなったと踏んで、白慧心は鳥籠を武人の胸に押し付けた。……自身の命灯も入っていることは黙っておいた。


「……確かに、あなたの事件は謎が多かった。当時の裁判記録を見ましたが、状況証拠だけで結審していました。しかも当時の天刑司はみな、あなたが犯人であることになんら疑問を抱いていなかった」


 鳥籠を受け取った祝恒は、記憶を思い返すように、目線を下に向けた。


「なぜ二百年前の裁判記録を?」

「なぜ? ――ああ、あなたは本当に。この二百年、苦しんでいたのは自分だけだと思っているんですね」


 祝恒は嘲け、嗤った。


「若くして南方将軍の座に就いた趙将軍は、当初侮られていました。――所詮、親の七光りだと。しかし、自ら進んで危険な任務を受けることで……そして圧倒的な功績をあげることで、周囲を黙らせた。今や名実ともに、上級神仙と呼ばれるまでになった」


 趙朱燿の二百年が語られた。白慧心の知らない、弟弟子の姿だった。


 祝恒は趙朱燿が南方将軍に就任した直後に、部下として配属された。南方将軍は妖魔との戦いで、部下を亡くした直後だった。将軍は負った傷もそのままに、祝恒を紹介した上官に食ってかかった。


『部下はいらぬと言っている! もう誰の死も見たくない』と。


 結局、上の決定には逆らえず祝恒は彼の部下に収まった。部下は不要と言いながらも、面倒見のよい将軍に尊敬の念を抱くのに、時間はかからなかった。


 趙朱燿は部下が亡くなると、その家族を気に掛けていた。――圧倒的な戦力を有しているにも関わらず驕らず潔癖で、情の厚い南方将軍を慕うものは多いらしい。


「彼が無茶な任務を受ける度に、僕は聞きました。何を焦っているのかと。最初は武功を立てたい一心だと思っていた。でも、違った。世を捨てた神仙で、痩躯の黒髪の男、そういう人物の目撃情報がある度に、任務の合間に探しに行っていたようです。将軍は……白慧心、あなたをずっと探していた」


 白慧心は床に寝かされた趙朱燿の顔を見た。血色を取り戻した南方将軍は、穏やかな呼吸を繰り返している。過酷な任務をこなしてきたとは到底思えない。傷一つない滑らかな頬だった。


「戦果を上げて、口さがない周りを黙らせたいのもあったのでしょうが――任務があれば、それを名目に各地を移動できる。二百年、彼は死んだ兄弟子を探し続けていた。行き場のない憎しみからだと思っていましたが……」


 祝恒はそこで言葉を切った。不審に思った白慧心が「なんだ」と尋ねると言いにくそうに言葉を続けた。


「あなたに対する彼の態度を見て、憎しみだけではないと気付きました。あなたの話は荒唐無稽ですが、将軍の二百年の苦悩と結び付けると辻褄は合う。全面的に信じたわけではありませんが、納得感はある。……しかしまさか、大罪人の白慧心が、こんな巫山戯ふざけた色男だったとは」


「……ありがとう?」


 唐突に褒められ、白慧心は面食らったが反射的に礼を言った。


「くっそ、腹が立つな! 褒めてない!! 変な色香で趙将軍を惑わすなと言っているんです! そもそも、なぜ二百年前に助けを求めなかったんですか?」

「いっ、言いがかりだ! 惑わしてなどいない。助けを求めようにも、俺には手立てが無かった……」


 ――それは誠か? 祝恒に責められ、自問自答する。修行中の弟弟子に迷惑をかけまいと、趙朱燿に知らせなかった。白婉が死んだ事実に自暴自棄になり、自らを救うことを放棄した。

 

 白慧心は初めて自覚した。あの時、生を諦めていた。


「面会は許されていたと、記録に残っていました。天界に勤めていた頃の知り合い、あるいは師匠の天工元君の知り合いに言づてを頼むことはできた。――朱雀王も、あなたと接触しようとしていた。でも、全てを拒否したのは、あなた自身だ」

「ち、違う……」

「違いません。あなたはそれで満足だったかもしれない。師匠に殉ずることで、一種の安らぎを得られる。でも、遺されるものの悲哀を考えたことはありますか?」


 祝恒の言葉に、地面が揺らいでいる錯覚を覚えた。遺された者の痛切な悲しみは、白慧心自身が一番よく知っていたはずなのに。己が楽になることしか、考えていなかった。今もだ。趙朱燿が味わうであろう苦しみは、本当にちらりとも考えつかなかった。


「あなたは傲慢だ。再会した直後に、全てを趙将軍に打ち明けて協力を仰げばよかった。独り善がりの自己犠牲の精神で、師匠殺しが冤罪であったことも打ち明けず、長く彼を苦悩させた。結局は己の手に余り、天界まで将軍を同行させている。――これ以上、僕の敬愛する上司を苦しめないでくれ」


 沈黙が落ちた。二人の重苦しい空気とは対照的に、祠堂の窓からは春の暖かく穏やかな光が差し込んでいた。小鳥の囀りが聞こえる。天界にも小鳥は居るようだ。


 春の日差しが、室内に差しこむ。趙朱燿の頬が日に照らされた。整った顔立ち、流れるような深紅の髪。今は瞼に隠されている、美しい炎が踊る瞳。白慧心は、目に焼き付けた。死の直前まで決して忘れぬように。


 白慧心の視線から守るように、南方将軍の前に立ち塞がった祝恒は、怪訝な顔をした。


「何が可笑しい? なぜ笑う?」


 白慧心は、己が自嘲めいた笑みを浮かべていたことに、気付かなかった。


「笑ってる……? ああ、きっと俺は」


(自分自身を、嗤っているんだ。愚かな『白慧心』を)


 祝恒の言い分に、思うところはある。あの時、白慧心は正常な判断力を失っていた。では、どうすれば良かったのか。人生の岐路において、正解ばかりを選択できるわけではない。忸怩たる思いが、白慧心の胸を灼いた。


『……あと一刻だ。急げ』


 勾玉を通じて、王光明が認識阻害術の期限を指摘した。白慧心は頷くと、祝恒に告げた。


「こいつを頼む。今は霊力を失っているが、ここは天界だから放っておけば勝手に回復するだろう。この霊力量だと動けないはずだ」

「どこへ行くのですか」

「天道を直す。世界平和には興味がないが……俺は全く私的な理由で、世界を救うことになるな」


 祝恒はもはや白慧心を止めようとしなかった。貧弱な男がひとり行動したところで、天界にさしたる脅威を与えないと判断したのか。或いは、気に食わない男が敬愛する上司の前から永遠に消えると知り、好都合だと思ったのか。どちらでもよかった。


「王光明、天道への抜け道はどこだ?」


 祠堂から抜け出た白慧心は駆けながら問うた。全速力で屋敷の回廊を走る。倦怠感が体中を覆う。息苦しさに、溜息を吐いた。


『そのまま、官庁区へ向かえ。書庫から、天道機構が置かれた地下へ行ける』

「なんでまた、書庫に……」

『知るか。昔の設計士に聞け。……なあ、大丈夫か?』

「……ああ、平気だ。祝副将の言い分は正しい。俺は、選択を間違えてばかりだな」

『…………』


 勾玉は、それ以上言葉を発しなかった。


 白慧心は門の扉を開け、屋敷の外へ出た。一度だけ朱色の屋根を振り返った。来るときと変わらず、南方将軍の壮麗な屋敷は静かに佇んでいた。


「……よし、行こう」


 天界の中央区には天帝の座する宮殿がある。それらを囲むように設置されているのが官庁区だ。各神仙が担当する役所の一角、南東の端に書庫はあった。天界で働いていた頃、何度か訪れたことがある。

 

 足早に移動した。途中で何人かの神仙にすれ違ったが、王光明の阻害術が効いているためか白慧心に視線を向ける者はいなかった。どの神仙も、呑気な顔をしている。


 官庁区に流れる川にかかる橋の上、欄干にもたれ掛かっていた神仙らが白慧心の目を引いた。白婉と同じ年頃の女仙と、若い男仙二人の三人組だ。女仙が川の向こうで鳥を見つけ、指さした。女の発言が面白かったのか、男二人がおかしそうに肩を叩き合い笑う。柔らかな春風が、女仙の羽衣を揺らしていた。


 在りし日の自分たちの姿を重ねた白慧心は、郷愁を振りほどくように下を向き、彼らを抜き去った。


――天界の書庫にはこの世のすべての書が収められている。白慧心は天を衝く書庫の瓦屋根を見上げた。書庫は一見平屋建てだが、内部はいくつかの階層に分かれており、貴重な書は地下に収納されている。白慧心は今まさに書庫へ入らんとする神仙に続き、何食わぬ顔で中に入った。


『早く行け。天道への入口には結界が張られているが、一時的に無効化する』

「お前……。天界の防衛にも侵入できるのか?」

『中枢には入れないぞ、さすがに。書庫は天界の末端だから侵入する余地があるだけだ』


 それでも十分凄い。白慧心は王光明の規格外な腕に舌を巻きつつ、歩を進めた。


 書庫の壁面は、当然ながら一面を書で覆われていた。書棚には背の高い木製の梯子がかかっている。見渡す限り、果てがなく書棚が続く。内部は吹き抜けになっており、手すりから覗きこむと、階下もやはり連綿と書棚が続いていた。手すりの欄干には小さな灯篭が付いており、辺りをほの明るく照らしている。


「最下層か?」

『いや。ここから八階層下だ』


(……八階程度なら問題なさそうだ)


「わかった。飛び降りる」

『は? おい! 待て!!』


 言うや否や、白慧心は手すりを飛び越えて階下へ身を投げ出した。一、二、と時を数える。体は重力に逆らわず、落下していった。


 ――今だ。


 目的の階層に差し掛かった瞬間、白慧心は体の向きを変え、片手で手すりにしがみついた。途端、片腕に全体重と重力の負荷がかかる。腕の骨がみしりと軋んだ。


『白慧心? 白慧心?! 無事か?!』

「うるさい。無事だ。目的の階層に着いたぞ」


 時間の短縮になった、と笑う白慧心に、王光明は喚いた。


『無茶苦茶するな! そのまま最下層に落ちたら、木っ端微塵になるところだったぞ!』

「……いや、そうはならん。重力と俺の体重、空気抵抗を計算して最適な瞬間に手を伸ばせばいいだけだ」


 反論しつつ、手すりからよじ登った。腕は痛むが、幸い関節は外れていない。霊力は貧弱だが、体の頑丈さは残されていてよかった。化神から退行したとはいえ、高度な修行を経た道士の体は滅多なことでは壊れない。


『はあ……。お前は全く、天才様だよ。ほら、急げよ』


 呆れた王光明が次の指示を出した。入口はこの階層の奥らしい。指し示されるまま、いくつかの角を曲がり道程を進んでいく。地下八階は、確か人界の書が集められた階層だったはず。神仙は人に興味が無いのか、辺りに人気はなかった。


「そういえば……天道の正規の入り口はどこにあるんだ?」


 白慧心は足を止めることなく、耳の勾玉に話しかけた。抜け道というからには、正道もあって然るべきだ。


『天帝の玉座の下だ。地下へと繋がってる』

「宮殿内の玉座か、さすがに侵入は無理だな。……おっと、王光明。行き止まりだ」


 差し示された先は袋小路になっていた。


『そこが入口だ。――結界を解いた、左下だ』


 王光明の声が耳元で響いた途端、左端の書が半透明に透き通り、ごっそりと姿を消した。幻術の類だろうか。穴の向こうは暗く、先が見えない。丁度、人一人が屈んでやっと通れそうなほどの大きさだった。


 白慧心は身を屈め穴へと入っていった。中は狭く、仕方なしに四つん這いで進む。どこからか土の匂いがした。床は石畳のようだ。手探りで壁を触ると、木の板が手に触れる。明らかに、人為的に作られた道だった。


「暗くて何も見えん。もし迷って出られなくなったら、俺はまぬけな白骨死体として、後世に名を残すことになるだろう」

『……一本道だから、迷うことはない。お前、まだ軽口を叩く余裕があるのか? ほら、着くぞ』


 深刻な場面で、つい茶化してしまうのは白慧心のよくない癖だった。静かに自省していると、やがて正面に光が見えた。


「ここは……」


 穴から抜け出した白慧心は、辺りを見渡した。どうやら抜け道は地下室の隅に作られていたらしい。抜け出すや否や、初めから存在しなかったかのように、穴は壁に馴染んで消失した。


 室内は天井が高く、静寂に満ちていた。正規の入り口に繋がるであろう正面の扉は、固く閉ざされている。部屋に明かりは見当たらなかった。では、抜け穴から見えた光は一体なんだったのか、その答えは部屋の中央部に座する奇妙な物体にあった。

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