第六章

心有霊犀

 その夜、白婉の強張った笑顔が頭をついて離れず寝付けなかった。


 普段、養い親として振る舞う彼女は抱えてる悩みを弟子に打ち明けたことがない。趙朱燿が朱雀の里に帰ってからも、決して「寂しい」とは口にださなかった。


 一方の白慧心は事あるごとに、「師匠、あいつどうしてますかね?」と白婉に尋ねていた。


「仕事上の悩みだろうか。俺は頼りないかもしれないけれど、話してくれてたらいいのに」


 気付くと朝になっていた。白慧心は溜息を吐いて起き上がり、朝の身支度を始めた。今日は休みのはずだったが、白婉は「至急の用で出かける」と書置きを残していた。どうやら天界へ行ったらしい。


(……これは好機かもしれない)


 ――白婉の居室の扉を開けた白慧心は、昨夜彼女が作業をしていた文机に向かい合った。


 誘惑に負けてしまった己を、心の中で罵りながら周囲を探す。机の上は整頓されているとは言い難かったが、昨夜、白婉が見ていた図面はさすがに見つからなかった。出しっぱなしの筆記用具をできるだけ触らないように、目視で探す。筆、硯、磨られたあとの墨。書き損じの書類が丸めてそこらに置いてあり、広げて見てみたが刀剣の修理報告書で怪しいところは無かった。


「すみません、師匠!」


 白慧心は、そう声にだしつつ、勢いよく机の引き出しを開けた。引き出しの中もやはり雑然としていたが、机の上に置いてあるものよりは、重要とおぼしき書類がしまわれていた。


 書類の上に、不自然に折りたたまれた紙片が置いてあった。開けてみると墨の匂いが漂う。まだ書かれたばかりのようだ。紙片は折り目に沿って、少し墨が滲んでいた。


「なんだ? 『術を書き換えた後はできるだけ神器を使わないこと』――は?」


 大雑把なその筆跡は、確かに白婉のものだ。見間違うはずが無かった。己に文字を教えてくれた養い親の、見慣れた字だ。紙片には白婉の愛用の香が微かに残っていて、行いを咎められているような心地がした。


(一体どういうことですか? 師匠)


 名工である白婉は当然、刀剣を鍛えるために日常的に神器を使っているはずだ。鍛冶で鉄を鍛えるための槌、貴重な霊石でできた砥石。それらを使わなければ仕事がままならないはず。


 白慧心は正体の知れない戦慄が背中に走るのを感じながら、しばらく動けずに立ちすくんでいた。



◆◆◆



 客から聞き取った情報を元に、地図に墨で印をつけていった。墨の香りに、二百年前に白婉の居室で見た紙片が思い出された。――あの時、盗み見した罪悪感で彼女を詰問することを躊躇った。日常を過ごすうちに、そのうち違和感も忘れてしまった。


 王光明に辿り着けそうな今、白慧心は当時の行いを悔やんでいた。筆を握っていた指に、知らずに力が籠った。


 秋の乾いた空気が、夜市の夜を包み込んでいる。紅葉した街路樹には、二百を超えるおびただしい数の灯篭が吊られていた。鼻の先を灯篭の油脂と煤の匂いが掠める。星が降り注ぐような明るさの中、趙朱燿が動きを止めた白慧心に問いかけた。


「大体の目星は付いたか?」

「……ああ、どうも南西があやしい。特にこの坊――区画が匂うな。さっきの娘子が言っていた空間の歪んでる箇所だが、他の客との証言とも一致する」


 新参者で、かつ怪しい風体の男二人の占い屋は流行らないと思っていたが、案外と繁盛していた。一時は客が短い列を作るほどだった。無料というのもよかったようだ。占い屋の客は若い女、次いで商いに悩んでいる男たちの順で多かった。若い女が占い好きなのはわかるが、商売人の男が占いに頼るとは意外だった。男たちに話を聞くと、大体が田舎出身だった。税の取り立てで生活が苦しく、一発当てたい一心で都へやってくる者が多いようだ。


 地図を差し示された趙朱燿は身を屈めた。艶のある黒髪が肩からさらりと零れた。端正な横顔に、灯篭の灯りが深い影を作り、見知らぬ男のようだ。詰められた距離を意識した白慧心は、なぜか身を引きそうになった。


「今から行ってもいいが、夜半に騒いで人目を引いてもまずい。明日にするか」


 兄弟子の動揺に気づかない趙朱燿はそう言って身を起こし、不思議そうに首をかしげた。「どうした」と言いたげな態度だ。


「あ、ああ……。そうだ、少し夜市の様子を見ていかないか?」


 慌てた白慧心は、特に何も考えずに口にした。都に着いてから、明らかに趙朱燿の態度が軟化している。白慧心は困惑していた。かつての二人に戻ったように、錯覚しそうになる。


「あんたは、都が初めてと言っていたな。夜市も初めてか」

「……うむ」

「そうだな、では帰りがてら見ていくとするか」

「…………」


 生真面目な将軍様のことだから絶対に断られると思ったのに、やわらかく提案を受け入れられた。どぎまぎしながら、白慧心は店じまいの準備を進めた。とはいえ、椅子と机はそのままでいいと宿の顔役に言われている。のぼりを降ろすくらいなので、片付けはすぐに済んだ。片付ける白慧心を眺めていた南方将軍は、「行くか」と言い放った。


 ――手伝おうとする素振りくらい見せろよ、と内心文句をいいつつ、白慧心は趙朱燿の後を追った。


 楽器の音に混じって異国語の断片が聞こえた。近くの屋台は砂糖絵のようで、注文を受けた店主が金糸のように光る飴で鳥の絵を描いている。飴を受け取った若い女が連れの男と目を合わせて笑っていた。季節柄かあちこちで栗の焼ける香ばしい匂いが漂っていた。


 大勢がこの夜市を訪れていたが、昼間の喧噪とはまた異なった賑わいだった。熱気があるのは昼間と同じだが、闇を照らす灯篭の灯りも相まって、市の全体が幻想的な雰囲気に包まれている。


「おお! 南方将軍、聞いてみろ。語り部が詩歌を歌っているぞ」


 白慧心は少し先を行く背中を呼び止めた。文士だろうか、一人の男が朗々とした声で夜市の情景を読み上げている。周りの人々はその歌に聞き入っているようだ。『夜市の千の灯りが青空を照らし、高楼には赤い袖の美女がいて客が入り乱れている』といった内容だ。


「へえ、うまいこと詠んだもんだな。まるで夜市の情景を切り取ったみたいだ」

「……『今は平時とは違うのに、笙の音と歌声が暁まで聞こえる』か。ここからさらに東の都の夜市を詠んだものだな。人界は瞬く間に変わりゆくものだが、根本は変わらんな。虚飾を愛し、享楽的で図々しい」


 趙朱燿は詩歌の続きを口ずさむと、呆れたように肩を竦めた。


「そこがいいだろ。短い生だからこそ、楽しく生きたいんじゃないか。朝になったらみな、現実に戻っていくんだ。夜市の間だけは幻想に浸って慰めを得たいんだろう」

「ふん、あんたとは相容れないな」


 言葉こそ冷たかったが、趙朱燿はいつまでも立ち止まって詩歌を聞いている白慧心を待ってくれているようだ。「置いていくぞ」と促され、胸がしくりと痛んだ。昔を思い出させないでほしかった。この命を使うと決めたのに、未練になってしまいそうだ。


 二人は帰路につきながら、夜市の様子を見学した。


 笛の高音が聞こえ、太鼓の低い響きに合わせて踊り子が踊る。犬の曲芸に子供らが歓声を上げ、影絵の屋台では物語の展開に合わせて観客が手拍子をしていた。夢の話を聞いて織り、布にする織女、代金の代わりに自分の秘密を話さなければいけない茶屋。店の棚には小さな銅鏡や香袋、絢爛な布地が並べられ、若い女たちが笑いあいながら商品を品定めしていた。


「すごい行列だな。有名店か?」


 ある屋台の前で人々が三重の列をなしていた。胡椒と焼けた肉の匂いが漂ってくる。


「……食いたいのか。並ぶか?」


 食欲をそそる匂いにはしゃぐ白慧心に、趙朱燿が驚きの提案をしてきた。


「え、いい! いらんいらん! 並ぶ時間がもったいない」


 咄嗟に拒否すると、南方将軍は「そうか」と返し再び歩き出した。気を悪くしたのかと思ったが、特にそんな様子でもないようだ。やはりおかしい。どう考えても、白慧心に対する当たりが柔らかくなっている。


「そういえば、なぜ七百年前に消えた神仙を追っていたんだ?」


 隣に並んで聞くと、ちらりと視線を投げかけられたが、趙朱燿は存外素直に教えてくれた。


「……百年前に王光明が消え、全く手がかりが見つからなかった。そこで同じように消えた神仙が居なかったか、片っ端から過去の失踪事件も洗い出してみた。所謂、ヤケというやつだ。その際、時期は違うが例の海老壺神仙の記録を見つけたんでな。何か掴めないかと、妖魔の盗伐がてら村に寄った」


 「まさかあんたを見つけるとは」と、趙朱燿は自嘲気味に続けた。白慧心はようやく腑に落ちた。


(俺を探し回っていたわけではなかったのか)


 白慧心は自意識過剰だった己を恥じた。両者の失踪に直接的なつながりは無かったものの、天道の歪みという因果は絡んでいたわけなので、結果的には的外れというわけでも無い。


「そう、だったのか。……今更だが。偶然だとしても、あの時は驚いた」

「……私は」

「え?」


 趙朱燿が足を止めたので、つられて立ち止まる。辺りはいつの間にか静まり返っていた。屋台の店主が店じまいの準備を始め、店の横に線香を置いた。細い線香の煙がひとすじ、暗がりに細くたなびく。


 灯篭の火がひとつ、またひとつと消えゆく中、朱雀の目が真っ直ぐにこちらを見つめてきた。黒に変化させていたはずの瞳は、いつの間にか深紅に戻っていた。瞳に炎が踊っている。白慧心が忘れ去ることができなかった、鮮やかな閃火だった。


「私はずっと、あんたに会いたかった」

「な……」


 真摯な言葉が胸を深く突き刺した。心臓がわななき、指先が震えた。兄弟子の動揺を見て、ふ、と口の端を緩めた趙朱燿は、夜目にも冴えわたる美貌にからかうような笑みを浮かべた。


「あんたはどうだ? 私に、会いたくなかったのか?」

「お、俺は……俺も」


 この二百年、師の遺言を噛みしめながら人界で緩慢に生きてきた白慧心を慰めたのは、新進気鋭の神仙として活躍する、南方将軍の噂を聞くことだった。白婉を失い、天界での栄達の道も絶たれ、霊根も壊れかけている。そんな男に残された、たった一つのよすがに問われ、ほろりと口から本音が零れ落ちそうになった。


(俺もずっと、お前に会いたかった)


「……大通りは夜警が巡回している。裏道を行くぞ」


 黙り込んだ白慧心の手首を掴んだ趙朱燿はそう言うと、やや早足で路地を抜けた。目の前の背中に艶のある黒髪が流れていく。白慧心は手を引かれながら、月明かりが男の髪に反射するのを見つめていた。


 東の市近くにある宿屋の裏口に辿り着いた白慧心らは、待ち構えていた従業員に、湯はもう火を落としたこと、しかし早朝に用意を整えられることを伝えられた。

 

 中庭を囲む独立した宿坊に案内された二人は、各自寝室に戻ることになった。庭の一角には小さな東屋もあり、従業員の気遣いか石灯篭にはまだ灯りが灯っていた。


「じゃあ……明日。卯の正刻(午前六時)に庭の東屋で待っている」

「ああ。あんた寝汚いからな。絶対寝過ごすなよ」


 趙朱燿の言い分に、「だれが寝汚いって?」と怒ってみせた白慧心だったが、目元で笑われただけだった。屋根付きの回廊で別れた二人だったが、自分に割り当てられた寝室に入った途端、白慧心は唸りながらしゃがみ込んだ。


 どうも己の心の有り様がおかしい。先ほど感じた情動は、きっと深堀りしてはいけない類のものだ。


(そもそも、あいつの態度が軟化したのはいつからだ? 都に入ってから……いや、その前の老人一族の海老壺を直したあたりだろうか)


 あの時、天道に命を狙われてることを趙朱燿本人に告げた。――単に自衛してもらったほうが都合がよかったからだ。白慧心が弟弟子を天道から救おうとしていることは、おそらくその時本人に気づかれている。その証左か、最近は憎しみが籠った視線を向けられることが無くなった。


「よし、もう考えるのはやめよう。寝るか」


 潔く思考を放置した白慧心は、そう口に出すと立ち上がった。考えても答えはでない、つまり時間の無駄だ。


 寝室の内装は、高級宿なだけあって豪華絢爛だった。磨かれた木の板が床に張られ、文机と椅子が一式置かれていた。高さのある寝台には、繊細な刺繍が施された赤い絹の布団が敷かれている。


 部屋の片隅に置かれた荷物から着替えを取り出し、淡々と寝支度を整えていく。寝巻に着替えて寝台に横たわると、背中を雲のような極上の感触が包み込んだ。こんなにやわらかな布団で寝るのは久々かもしれない。


 屋敷に居た頃は、何の疑問もなく絹の布団で眠っていた。白慧心は連鎖的に、白婉の紙片を思い出していた。『神器を使わない』という注意書きは、誰の指図を受けてだったのか。考えられるのは――王光明。二百年前、彼女の遺言を持ってきた男。白慧心に対して、意味ありげな態度を取っていたあの術師が全ての鍵を握っている。


 なんにせよ、もうすぐ尻尾が掴める。弟弟子とのやり取りがまた頭の片隅に浮かび上がったが、あわてて掻き消した。目を閉じると疲れていたのか、たちまち意識が闇に吸い込まれていった。


 ――早朝、秋風が吹く中庭。東屋の椅子に座り、花の夜露を眺めていた白慧心は人の気配に振り向いた。膝には開いたままの店舗日誌を乗せている。


「おはよう。まだ約束の時間よりも早いぞ」


 きっちりと身だしなみを整えた趙朱燿が回廊に立っていた。髪と目の色は昨日に引き続き黒色に変化させていたが、いつもの見慣れた甲冑姿だ。


「何を書いていたんだ?」


 不思議そうな南方将軍の様子に、白慧心は開いていた紙面を片手で閉じた。


 残存霊力 八十七。


 手習い性で、旅先にまで店舗日誌を持ってきてしまっていた。丁度、霊力値を書き終わって数字を眺めていたところだった。


 残存霊力値、霊力が補充できない事情、これら全て趙朱燿に明かしていない。上級神仙である南方将軍には、再会するやいなや「霊力が薄い」と見抜かれていたので、おおよその霊力値は予測されているかもしれない。


 いずれやって来る天道との対峙。そこで霊力をすべて失えば、己の存在は消える。果たして、趙朱燿に明かしておいたほうがいいのか、黙っておいた方がいいのか。白慧心は、考えあぐねていた。


「……ちょっとした日記みたいなもんだ」

「そうか。少し、じっとしていろ」


 追及されなかったことにほっとしていると、趙朱燿が近付きながらふいに手を伸ばしてきた。猛禽に狙われた鼠のような心持で、黙ってその手を受け入れる。武人らしくない細く長い指が耳の後ろの髪に触れ、撫でつけてくる。こんなに距離が近いのは、再会したあの日以来かもしれない。目を見開いて固まっていると、趙朱燿は熱心に髪を整えながら文句を漏らした。


「寝ぐせか? 髪が跳ねている。起き抜けでも身嗜みは整えろ」

「……ああ」


 最初は緊張していた白慧心だったが、懐かしい指の感触にだんだんと体の硬直を解いていった。そういえば、いつかは髪を梳いてもらったこともあった。昔を思い返しながら、目を伏せ優しい動きを享受していると、くせ毛に苦戦していた趙朱燿が「直らん」と呟いた。


「……風呂に入ってこい。これは湯で濡らさねば、どうにもならん」

「はは、相変わらず世話好きだな。ありがとな」


 自然と笑みを零すと、手を離した趙朱燿が凝視してきた。「なんだ?」と問いかけると慌てて目が逸らされる。整えられた黒髪から覗く耳が赤く染まっていた。趙朱燿につられて、顔が燃えるように熱くなる。


(まずい。昨夜も思ったが、やはりこのままだとまずい気がする)


「ふ、風呂に入ってくる」


 突然立ち上がった白慧心に驚いた様子の趙朱燿だったが、鷹揚に頷いた。


「……わかった。髪も洗ってこい。坊の開門までまだ時間がある」

「あ、ああ。しまった、幞頭を被っていなかった」


 短髪を目の前の男に詰られたことを思い出し、白慧心は己の髪をかき上げた。趙朱燿は小首を傾げた。また詰られるのか? とうんざりした気分でいると、思いのほかあっさりした言葉が返ってきた。


「何を今更。今はいいが、宿の従業員の前では被っておけ」

「今はいいの、か?」

「ああ? 髪を他人に見られてもいいのか?」

「……よくは、ない」


 白慧心の他人の範疇に、自分が入ってるとは考えていないのだろうか。男の中の線引きに首を捻りながら、白慧心は手に日誌を持ち東屋を出た。入れ替わりに東屋の椅子に弟弟子が腰かけるのを眺めていると、視線に気づいたのか「早くいけ」というように手で追い払われる。


「急いで入ってくる」

「風呂上りは、ちゃんと髪を乾かせよ」

「……まったく、世話焼き朱雀め」

「世話焼き? 私は当然のことを……」


 まだ説教は続きそうだったが、話の途中で足早に去った。背中に視線を感じたが無視した。昨夜からどうも、南方将軍に調子を狂わされている。切り替えよう。


 泊っている寝室に幞頭を取りに行き、従業員の案内で浴堂へ案内された白慧心は、浴槽にたっぷりと張られた香り高い湯に嘆息した。時間ごとに宿泊客が割り当てられているようで自分以外の人影はなかった。浴場内にいい香りが漂っている。いそいそと服を脱ぎ、かけ湯もそこそこに肩まで湯につかると、悩みも消し飛んでいくような心地よさに包まれる。


「はあ、気持ちいい。……そういえばここのところ、湯に浸かってなかったな」


 白慧心がねぐらにしている南方の村には、当然大衆浴場などあるはずもなく。自宅兼店舗の裏で、湯を沸かして体を拭くくらいがせいぜいだった。南方将軍さまさまだな、と考えながら湯に浸かったあとは、体と髪も洗った。体を洗うための澡豆そうず――粉の石鹸が入った壺が置かれており、「おお」と感動の声が漏れた。さすが貴族ご用達の高級宿だ。


 僅かな時間で体を洗浄し、身支度を終えた白慧心は再び中庭の東屋へ向かった。気を引き締めて、王光明を見つけ出さねば。


 ――しかし、決意も空しく初っ端から肩透かしを食らわせられることとなった。


 占い屋で集めた情報から、南西の坊の角が怪しいはずだった。貴族風の若い女は、たしかにこの建物の角が歪んで見えたと言っていた。二人は肩を並べ、目の前の家を眺めていた。


「寺のはす向かいの家……のはずなんだが」

「特に変わった様子はないな。女の見間違いではないのか?」


 庶民が住まう区画だからか坊内は騒々しく、近くの工房からは木を削る音が響いていた。近所の子供たちが数人、笑いながら路地を駆けていく。


 朝食の屋台が二、三出ており、ふくよかな体つきの女が住民に粥を売っていた。今から仕事らしい男が椀に粥を注いでもらっている。秋の肌寒い空気の中、椀から温かな湯気が立っていた。


 該当の住宅の住民は仕事に出かけたようで、ひっそりとしている。土壁に瓦屋根。なんの変哲もない建物だ。角も歪んだ様子はない。白慧心は黙って家の門をくぐった。「おい」と趙朱燿が小声で咎めてきたが構わず歩を進める。小規模な住宅には裏庭があり、そこで鶏を飼っているようだ。小さな鳴き声と生き物の気配がしていた。

 

 白慧心は家の外壁に手を滑らせ、術の痕跡が無いか確かめていった。家の正面、横……と、ここで不自然な跡に気づいた。一定の境界から先に足を踏み出すと、鶏の声が途切れて聞こえる。


「南方将軍、来てみろ。ここに、認識阻害術の痕跡がある」

「……どこだ?」


 表を見張っていたらしい趙朱燿が傍に寄ってきた。白慧心は、手元に意識を集中させた。壁の下部に霊力を流すと――神仙にしか可視できない術式の複雑な紋様がほの赤く光った。白慧心は己の霊力を術にぶつけ、跳ね返ってくる方向を探った。逆探知を試みたのだ。


「よし、よし。うまいこと術に方向性が付いている。発信されている方角がわかった。次、行くぞ!」

「わけがわからん。説明しろ」


 駆けだそうとする白慧心に、趙朱燿が問うた。


「移動しながらでいいか? どうやら、王光明は慎重な性格らしい」


 術は複数個所に渡ってかけられていた。坊から坊へ移動し、その度に霊力を流す羽目になった。少量とはいえ、じわじわ削られると塵も積もれば山となるだ。やっと最終目的の住宅を探し出した頃には、霊力消費は七、八も削られていた。


 残存霊力――七十九。


 ……というところだろうか。


「くそっ、慎重すぎないか?」


 最終的に辿り着いたその区画は空き家が多く、打ち捨てられた雰囲気すらあった。都でこんなに寂しい場所があるとは、驚きだ。烏が一羽、井戸の傍にとまっていた。黒々とした賢しい目が白慧心らを見つめている。


 ここまで来るのに、優に一刻はかかっていた。その間の移動距離は……考えたくもない。白慧心は息を整えた。隣で悠然と腕を組む南方将軍は目線をよこしたあと、答え合わせを口にした。


「結局、南の城壁間際、閑散としたこの坊に隠れているとはな。それで? 攪乱のために術をあちこちにかけていたのか?」

「恐らくな。あの術には認識阻害と、霊力を反射する式も組み込んであった。お陰で居場所を掴めたが、術同士を繋げて管理しやすくしたのはやつの失敗だったかもな」

 

 半ば朽ちかけた家を前に、白慧心は深く息を吐いた。いよいよ、王光明との再会だ。指を握りこみ一歩を踏み出した……途端、手首を掴まれ体が前につんのめった。いつの間にか傍に寄っていた趙朱燿が動きを止めたようだ。


「な、なんだ? 早く行くぞ」

「……また霊力が薄くなっている。ここで倒れられては困る。人界の霊脈に行く暇がないというのなら、これで」


 手首の内側を親指で探られた。軍人の固い指の感触が薄い皮膚をたどり、背中がぞくりとした。経穴けいけつ――霊力の入り口を探っている。分け与える気か。


「やめろって!」


 白慧心は勢いよく武神の手を払った。霊力を流されると、身の内の霊力も釣られて外に漏れだしてしまう。水滴のそばに、より大きな粒を落とすと吸収されるように、霊力は大きな流れに付いていってしまうのだ。


 白慧心の事情を露とも知らない趙朱燿は、払われた手を呆然と眺めた。その目が傷ついたように陰る。


「なぜ拒む……。私の霊力が汚いとでもいう気か」

「ち、ちがう!! そうじゃなくて」

「大罪人扱いしたから、仕返しか? さすがに……堪えるな」


 辛そうに眉をしかめ、それでも趙朱燿は笑っていた。――孤独に二百年を過ごした弟弟子を、傷つける意図は決してなかった。白慧心は甲冑姿の両肩を掴み、言い募った。

 

「だから、違う! お前のことは汚いとも憎いとも思ってない! もう、霊力が補充できないんだよ!」

「……は? どういうことだ」


 南方将軍は表情を消し、逆に白慧心の両腕をわしづかんできた。


(しまった、つい……)


 仏頂面以上に人外の無表情は恐ろしい。白慧心はたじろいだ。振りほどこうとしたが、指の力が強い。腕がちぎれたらどう責任を取ってもらおうか。


「……霊根の故障で、これ以上の霊力は貯められない。お前に霊力を分けられても、漏れていくだけだ。あ、即死するわけじゃないから安心しろ」

「なっ、安心できるか! 霊根は修復したと言っていただろう?!」

「だから、八割がた壊れたのを半壊まで持って行けたんだ、十分だろ。ほら、行くぞ。この間に逃げられたらどうする」


 今度は簡単に振りほどけた。まだ何か言いたげな趙朱燿から離れ、「静かにしろ」と小声で指示しつつ、白慧心は家に近付いた。


「後で、説明してもらうからな」

「あ? さっきの説明で全てだ。あー、くそ! やはり結界が張ってあるか」


 古びた扉は、強固な結界で固く閉ざされているようだった。解呪する為にはさらに霊力の消費が必要だろう。白慧心が迷っていると、何を思ったか趙朱燿が住居の壁に手を触れた。


「どうした?」

「この部分だけ術が薄い。ここから入るぞ」


 そこは壁であり、出入り口ではないはず……白慧心の疑問もつかの間、南方将軍は大きく腕を振りかぶり、素手で土壁を殴りつけた。家が倒壊するかと思うほどの打撃音と共に、土壁に大きな穴が空いた。崩壊した穴から、なおも土と藁が音を立て崩れ落ちる。中から野太い男の悲鳴が聞こえた。――恐らく、王光明だろう。


「おま、無茶苦茶だな……」

「入れたからいいだろう。王光明! 居るか?」


 足でさらに穴を蹴り広げて侵入した南方将軍に続き、家の中に入った。薄暗い室内だった。窓はすべて木の板で覆われ、灯りは燭台がひとつあるきりだった。部屋の中は埃っぽく、壁という壁に呪符が貼られて、異様な空気が漂っている。


 机の上には用途のわからない神具が乱雑に置かれていた。特に目を引いたのは、両手のひらほどある大きな水晶玉だ。中心に暗い色が渦巻いているのが見える。


 そして、部屋の隅で悲鳴を上げている固太りで小柄な男は――二百年、白慧心に師匠の遺言を届けた困り眉の男に、相違なかった。


「見つけたぞ、王光明。さあ、お前が持って行った命灯を返してもらおうか」

「南方将軍? 何故ここに……待て、命灯だと? くたびれてた、あの命灯か?」

「そうだ。寿老人のものだぞ、あれは。重鎮神仙の命灯を持っていくとは大したやつだ」

「し、知らなかったんだよ! そんな偉い方の命灯とは……。あ、殴らないで! 返す、返しますよ!」


 言い訳する男に武神は黙って拳を握りしめてみせた。慌てた王光明は、急いで傍にあった戸棚を探り出した。


 趙朱燿が受けていた任務とは、命灯の捜索だったようだ。しかし、寿老人――天界で命の記録をする、泰山府の重鎮の命灯を盗むとは。南方将軍の言う通り、たしかに命知らずな行いだった。


「王光明、俺も聞きたいことがある。師匠、白婉は何故死んだ? 天道の標的の条件とは合致していなかったはずだ」


 白慧心に話しかけられた王光明は、寿老人のものと思しき命灯を手にしながら目をしばたいていたが、驚いたように零した。


「誰かと思ったら。お前、白慧心か。あの時は死にかけてたのに、よく回復したものだな……。うん、顔つきも悪くない」

「おい、世間話をしに来たわけじゃない。わかっていることを言え」


 呑気な王光明に、南方将軍が先を急かした。その手には、いつの間にか机の上に置いてあった水晶を持っている。ぐっ、と武神の力で握りしめられた水晶玉は惑乱したように明滅した。


「や、やめろ! それを作るのにどれだけ苦労したと思ってるんだ!」

「ならば早く、問いに答えろ」


 水晶玉を人質に取られた王光明は躊躇っていたが、退かない様子の趙朱燿に諦めたのか、投げやりな態度で口を開いた。その口から告げられたのは、到底信じられない真実だった。


「はあ、わかったよ……。お前らの師匠には口止めされていたが。白慧心、白婉は……お前の身代わりになって死んだ」


「――は?」


 言葉が耳に入り込んできた瞬間、衝撃のあまり目の前が白く染まった。汗が滲み、壊れかけた胸からじわりと嫌な痛みが走る。脳裏に白婉の強張った笑顔が浮かび、過ぎ去っていった。

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