第9話



「Grrrrrr…………。」



 黒にほど近い灰色の体毛を全身に纏い、四つ足で大地を踏みしめる足先には硬質の爪。口元にはナイフのように鋭い牙が並び、低く唸り声を上げながら、獣性を宿した瞳でこちらを睨みつけていた。


 それは狼だった。


 ただの狼ではない。

 その身に纏う餓狼の雰囲気もそうだが、何より目を惹くのはその大きさだ。

 四つ足で立っているというにも関わらず、その視線の高さはモカ達と変わらず、尻尾まで含めれば、全長は三メートルを優に超える。

 正しく巨狼と言えた。


 魔物モンスター

 それがこの巨狼を含む、人に害をなす生物の総称だ。

 奴らは人間を見境なしに食い殺す、最も身近な人類の脅威だった。

 魔物を討伐することこそ、冒険者の一番重要な役割なのである。


「見てくださいよ。彼、お腹空いているみたいですよ。人見知り克服にランチに誘ってみてはどうですか?」

「人見知りじゃないし。すんなり頷いてはくれなさそうだよ。」

 一緒にランチどころか、突撃!お前が昼ご飯といった雰囲気だ。

 ぐっと剣の握りを確かめる。

 手に馴染んだ感触が、安心感を与えてくれた。


「最初から諦めてはいけませんよ。もしかしたら仲良くなれるかもしれませんし。」

「ちょっと友達になれなそうな顔してるけど。」

「見た目で人を判断してはいけません。」

「見た目通りだよ。」


 巨狼がじりじりと、距離を詰めてくる。

 口からダラダラと零れる涎は、二人のことを完全に獲物として見ている証拠だ。

 絶体絶命と言える状況にも関わらず、モカもラテも警戒こそ切らしていないものの、軽口を叩く程に余裕があった。


「それじゃ、ご飯前の運動といこうか。」

 モカの言葉が戦闘開始の合図となった。



 ◇………………………………………………………………………



 巨狼が猛然と地を蹴った。

 凄まじい脚力が巨体をグングン前に押し出し、スピードに乗っていく。足が地面を蹴る度に土草が爆ぜたように宙を舞うのを見れば、どれだけの力が込められているか一目瞭然だろう。

 迫りくる暴力の塊に対してモカは短く息を飲み込むと、逃げるどころか逆に真っ直ぐ走り出した。

 これは誰がどう見ても自殺行為だ。

 本来、人と獣では肉体のポテンシャルが違う。

 普通は人と獣が対峙した場合、人の方が体重差が数倍あろうとも獣が勝つと言われている。人は武器を持って初めて自分よりも小さい相手と対等に戦えるのだ。


 では、モカと巨狼ではどうだろうか。

 全長は約二倍。体長だけでもほぼ同等。体重に至っては十倍近く差がある。

 たとえモカが剣を装備していた所で勝てる道理などなく、生きたまま逃げられる可能性すらあるかどうか。


 疾走する両者の距離が瞬く間に縮まっていく。

 残り数メートルとなった時、巨狼がその顎を大きく開き、宙へ跳んだ。

 このまま食い千切らんと言わんばかりの鋭い牙の列が、モカに襲い掛かる。


「さあ、いくよ!」

 目の間に迫った危機に対して、モカは走りながら足にグッと力を籠める。

 刹那、モカの足が薄く光に包まれた。

 正確にはモカの足に文字のような、あるいは紋章のような図形が浮かび上がり、光り出したのだ。


 その瞬間、モカの走る速度が急激に上昇した。

 元々の速度も十代前半の少年としてはかなりのものだったが、今の彼は鍛え上げた大人でも出せない、圧倒的な速さを誇っていた。


「Gra!?」

 巨狼が困惑の鳴き声を上げる。

 突然目の前から獲物が消えた。

 飛び掛かる巨狼に対して、モカは速度を生かして足下を潜り抜けるように躱し抜ける。

 巨狼はモカの速度変化の緩急に対応できず、モカの姿を見失っていた。


「はぁっ!」


 モカは潜り抜けざまに剣を振るい、巨狼の前肢を斬り裂く。


「Gaon!?」

 骨にこそ届いていないもののその傷は深く、赤黒い血が飛沫となって溢れ出して、地面に飛び散る。

 突然発生した、予想だにしない痛みに悲鳴を上げた巨狼は、着地の体勢を崩し、勢いのまま地面をゴロゴロと転がる羽目となった。


「Gruaa!」

 しかし、彼にも捕食者としての矜持がある。

 即座に体制を立て直し、自身に向けて剣を構えるモカに対して、射貫かんばかりに睨みつけ、喉の奥から怒りの咆哮を絞り出す。


「う~ん、浅いか。やっぱり、まだ加減が分からないなぁ。」

 モカは小さくこぼしながら剣を振って、その重みを確かめる。

 今の身のこなしは、通常の人間の範疇を遥かに超えている。

 通常であれば、モカが巨狼の攻撃を躱すことは出来ない筈だった。よしんば躱せたとしても、躱し様に斬り付けるなど不可能だ。


 だが、モカはそれを成した。

 その秘密は、モカの身体に刻まれた紋章にあった。


 【ルーン】。

 それは神秘の力を宿した刻印である。

 ルーンを刻まれた者は、尋常ならざる力を発揮し、時として奇跡としか評し得ない現象を引き起こす。 


 モカの足に刻まれたルーンに宿る力は【迅速】。その神秘の力がモカに獣を超える速度を、腕に刻まれた【剛力】のルーンが巨狼の分厚い毛皮の上から肉をも斬り裂く力を与えた。

 そして額に刻まれたものこそが根幹とも言える、生まれついてのルーン。その力は、全ての身体能力を爆発的に上げるというものだ。

 これらの力が組み合わさって初めて、少年であるモカが巨獣と戦えるのだった。


 このルーンこそが、人類が魔物に対抗するための最大の武器であり福音だ。


 ルーンは全ての人間に齎されるものではない。生まれながらにルーンを宿している者は十人に一人もいないだろう。

 遥か昔に確立されたルーンの移植技術。それにより、人類は魔物と戦う術を得たのだ。



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