この恋には論文が無い
ミクラ レイコ
ハイスぺな准教授1
「
私がそう言ってスチール製の机に紙の束を置くと、机の前に座っていた准教授が軽い調子で言う。
「サンキュー、
そう言われて、私は研究室内に置かれた自分の席へと戻った。そして、書類を整理しながらチラリと遠藤先生の方を見る。
私、
遠藤先生は、現在三十二歳だけれども、既に准教授として活動している有能な人材だ。しかも、顔が良い。少しウェーブがかった黒髪も切れ長の目元も魅力的に見える。
そして性格まで良いものだから、女子学生から人気が高い。
私は大学二年の頃から先生を知っていて、当時から彼に惹かれていたけれど、私から告白されても先生は嬉しくないだろうなあ。
先生は
細胞制御学とは何か。それを説明するのは難しいけれど、遠藤先生はヒトの細胞にある「糖鎖」という部分の異常がどのような病気に関係するかを研究している。
そして、異常の起こった糖鎖を正常に戻す方法を見つけてがん等の治療に役立てようという研究も同時に行っている。
そんな事を考えながら先生を見つめていると、ふと先生と目が合った。
「どうかした? 有紗先生」
フワリと笑いながらそう聞かれて、私の心臓はドキリと跳ねた。
「い、いえ。ただ、マークシート式にすればもっと簡単に採点出来るのになーって思っただけです」
私がそう言って誤魔化すと、先生は困った顔をして答えてくれた。
「ごめんねー、記述式だと採点に時間が掛かるよね。……でも、記述式じゃ無いと学生がきちんと講義内容を理解しているかどうか分からないからさ」
「は、はい、それは理解してます。すみません、いきなりこんな事を言って」
私は慌てて頭を下げた。遠藤先生は、いつも軽い調子で学生と話すから忘れがちだけど、本当に学生の事を大切に思っている。だから、学生の将来を考えて試験内容も決めているのだ。
私が改めて先生に感心していると、不意にドアがノックされた。
「遠藤先生―。講義内容について質問があるんですけど、少しお時間よろしいですかあ?」
そう言って研究室に入って来たのは、一人の女子学生。フワフワしたライトブラウンの髪を肩の辺りまで伸ばした可愛い子だ。この子は、去年からやたら先生に話し掛けに来るゼミ生で、名前は
福田さんは、先生の方に近付くと、猫なで声で言った。
「この論文の英語を訳せなくてえ……」
そして、バッグからA4サイズの紙を取り出して先生に渡す。先生は、その紙を受け取って目を通し始めた。私も先生の後ろに回り込んでその紙を覗き込む。
紙には英語の論文の一部がプリントされていて、そのまた一部にピンク色のマーカーが引かれている。この部分を訳せないのだろう。しかし……。
「うーん、そうかあ。これを訳せないか……」
先生が、困った笑顔で呟く。それはそうだろう。福田さんはもう大学四年生で、ゼミ生として専門的な研究にも手を出している。
それなのにこの程度の文を訳せないようでは、先が思いやられる。……この文なら、一年生や二年生でも訳せそうな気がするけれど……。
それでも、先生は文法から丁寧に福田さんに説明した。福田さんは笑顔で「わかりましたあ」と言っていたけれど、本当に分かったのだろうか。
説明中、彼女はずっと先生に見とれていたような気がするけれど。
先生から返された紙をバッグに仕舞いながら、福田さんが笑顔で言う。
「遠藤先生、この近くにおいしいパフェを出すカフェがあるんですよお。明日にでも、一緒に行きませんかあ?」
先生は、苦笑して手を横に振った。
「ごめんね、福田さん。俺、明日は時間が取れそうも無いんだ」
「じ、じゃあ、いつなら空いてるんですかあ?」
「うーん、こればっかりは研究の進み具合にもよるからなあ。いつ時間が空くか見当もつかないや」
「……そうですか……残念ですう……」
そういう福田さんを見て、遠藤先生は思い付いたように言った。
「そうだ、福田さん。時間があるなら、俺のお勧めの学術書読んでみる? カラフルで分かりやすい図解が載っているし、福田さんの研究に役立つと思うんだよね」
すると、福田さんは顔を引き攣らせながら笑顔を作って答える。
「え、えっと、あの……今後機会があれば読んでみますう……」
これは読む気が無いな。そう感じた私は、すかさず先生に頼む。
「先生。もし今その学術書がありましたら貸して頂けませんか? 私も新たな視点で研究に臨めるかもしれませんし」
「ん? あ、そう? この部屋にあるから、今貸してあげるね。返すのは来月末でもいいから」
そう言うと、先生は立ち上がり、近くにある本棚に手を伸ばした。そして、細胞の写真が表紙に印刷されている学術誌を取り出すと、私に手渡してくれる。
「はい、有紗先生。先生はいつも勉強熱心で頭が下がるよ」
「いえ、そんな。遠藤先生ほどでは……」
はにかんだ後福田さんの方に視線を向けた私は固まった。福田さんが、私の方を凄い目付きで睨んでいる。
え、何、何なの? 私、福田さんに睨まれるような事、何かした!?
「良かったですね、有紗先生。……では、私は失礼します。ありがとうございましたあ……」
そう言って、福田さんは研究室を後にした。
私は、再び自分の机でノートパソコンを操作しながら福田さんの顔を思い浮かべた。……やっぱり福田さん、遠藤先生に惚れてるよねえ……。
パッチリした瞳にサクランボのように赤い唇。あの子に直接アプローチを受けたら、いくら遠藤先生でも落ちてしまうのではないだろうか。
私は黒髪を無造作に束ねただけの地味な女だし、福田さんには敵わないよなあ。
そんな事を考えてしまい、私は少し悲しくなった。
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