最終章 万年桜の番

第29話 逢瀬


 春の足音が屋敷の隅まで忍び込んできていた。庭の木々も若葉が萌え始め、枯れずにいた桜も景色に馴染んできている。


 生贄として差し出されたあの夜から、もうすぐ一年が経とうとしていた。


 奈珠那は縁側に座り、隣に立つ瓊環の横顔を盗み見る。距離は以前よりも確実に近い。けれど触れ合うほどではなく、言葉も必要以上には交わさない。その微妙な間が心地よかった。

 消えゆく神を見送った記憶は、まだ胸の奥に残っている。藤の香りとともに消えた漣の姿を思い出すたび、奈珠那は無意識に隣にいる存在を確かめてしまう。


 ──あと五日も経てば、奉納の儀……。


 それは、奈珠那と瓊環を繋いでいた契約の節目でもあった。

 瓊環は何も言わずにいた。奈珠那もまた、口には出せずにいる。

 契約が終わったとき、この関係はどうなってしまうのだろう。神と生贄として結ばれた絆が、形を変えてもなお続くのか。それとも、彼が消えるのか、彼に殺められるのか。考えるたび、胸がひやりと冷えた。


「お二人とも、なんだかお顔が暗いですよ」


 不意にかけられた声のほうへ顔を向ける。

 

「珀弥」

「こういうときは気晴らしするのが一番です。久々に、人間界へ行かれてみてはどうでしょう」


 彼はぴょこりと耳を揺らした。思いつきの提案のように、珀弥は明るく言う。奈珠那はその声音から、わずかな気遣いを感じ取っていた。

 契約の節目が近いことは珀弥も知っている。知ったうえで、重たい沈黙を破ろうとしているのだ。

 瓊環はしばし黙り込み、やがて短く息を吐いた。

 

「街にでも出るか」

「ですが……緋い瞳の人間がいたら……」


 一瞬の逡巡しゅんじゅんのあと、瓊環は小さく首を振った。

 

「村からは離れている。お前を知る人間など、誰もいない」

「そうですよ、奈珠那様! 瓊環様に、いろいろ買ってもらってください!」

「おい、また勝手に」

「いいじゃないですか。たまには奈珠那様を労ってあげなきゃですよ」


 瓊環は何かを言い返しかけたが、諦めたようにため息をついた。奈珠那へ向けた視線が、わずかに柔らぐ。


「奈珠那、支度を」


 正直言ってしまえば、人間界に行くのは少し怖い。だが、断れなかった。というよりも、断りたくなかった。隣に並んで歩ける時間が嬉しいと思ってしまったのだ。

 

「……はい」


 わずかに頬を赤らめた微笑みで奈珠那は頷いた。


 ⁂


 降り立ったその場所は、奈珠那が生まれ育った村とは何もかもが違っていた。

 石を敷き詰めた道の両脇には、建物がずらりと並んでいる。木造の家々の間に煉瓦造りの洋館が混じり、硝子窓は賑わう景色と春の日差しを反射させていた。

 軋む音とともに、たくさんの人を乗せた路面電車がゆっくりと通り過ぎていく。


「……すごい」

 

 呟きは街中の喧騒に紛れ混んでいった。村では見かけないほどの人が行き交っている。店先から漂う甘味の香りや、香ばしい匂い。どこかで鳴る聞き慣れない楽器の音。すべてが目新しくて、少しだけ眩しかった。


「街は初めてか?」

「はい、家から出たことがなくて……。あっても近場の商店でしたし……」

「そうか」

「都市ってすごいんですね。感動しています」


 奈珠那の感嘆かんたんに、瓊環は小さく息を吐く。


「ほら」

「……え」

「人間界だと、お前につけた印が反応しない」


 不意に、目の前に大きな掌が差し出された。ぱちくりと瞬きをする奈珠那に、瓊環はどこか言い訳をするような、ぶっきらぼうな口調で告げる。


「はぐれるな」


 命令ではない。不器用ながらも、奈珠那を守ろうとする意思の表れだった。


「……はい」


 そっと手を重ねただけで、彼の温もりが伝わってくる。瓊環はためらいなく、その小さな手を包み込んだ。

 人の流れに押されるように、二人はそのまま人混みの中を歩き出す。

 先ほどまで目を輝かせていた奈珠那だったが、歩き出した途端、視線を足元へ落とした。


「なぜうつむいている?」


 しばらく進んだ先で、瓊環は奈珠那の顔を覗き込むように訊ねた。

 

「……すみません。やっぱり、人と目が合うのが怖くて……」

「緋色の瞳だからか?」


 問われても、奈珠那は俯いたままでいる。

 その沈黙が答えだった。村では、この緋色の瞳のせいで「祟り」と罵られた。石を投げられたことだってある。

 街の華やかさに心を躍らせながらも、深層心理に刻まれた恐怖が彼女の身体をすくませたのだ。


「くだらない」


 歩みを止めた瓊環は奈珠那と向かい合う。空いているほうの手を彼女の頬に添え、視線を逃さないように上向かせた。

 

「お前の瞳は、何よりも綺麗だ」


 思いがけない言葉に、奈珠那の目が見開かれた。

 心臓が大きく跳ねる。間近で見つめ返してくる金色の瞳に、冗談や戯れの色はない。彼は、本気でそう思っている。

 そう気づいたとき、奈珠那の瞳がわずかに潤んだ。緋色の瞳が、初めて意味を持った気がしたのだ。呪でも、祟りでもない。この人に見つけてもらうための色だったのだと、そう思わずにはいられなかった。

 

「俺がいる。せっかく気晴らしに来たんだ。楽しめ」


 瓊環がいたずらに笑う。


 ──ああ……。

 

 世界中の誰に否定されても、この強大な神が「綺麗だ」と言ってくれる。それだけで、過去のつらい記憶が光に浄化されていくようだった。

 

「……ありがとうございます、瓊環様。私、楽しいです。すごく」

「行くぞ」


 繋いだ手を離さぬまま、二人はさらに賑わう大通りへと足を向けた。

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