二号室

佐藤径

二号室

「眠れないんだ」

「ぼくもだよ」


「死にたいんだ」

「ぼくもだよ」


 寝付けない日が続いた。まぶたの裏に張り付くのは、天井と床、それに四方の壁までもが鏡で塞がれた小さな部屋。目の前ではもやが生きもののように漂い、散乱した光が空間の色を支配した。中心は白く飽和しつつ、遠方は緑に沈んでいた。

 僕は正面のもやに語りかけた。

「君はどんな痛みを抱えているんだい?」

「いたみ?」

『痛みに該当する語を割り当てます。痛みとは───のようなものです』

 無機質な声は、重なり合った鏡のあいだから届いた気がした。痛みに用いられた語は、ことばというより、モスキート音のようなか細い音に感じられた。

「ぼくたちには痛みという感覚がない。感じるための器官がないといった方が正しいかな」

「心にちくっとする痛みもないの?」

「ない。心がちくっとするような過程も存在しない。きみは眠れないこと、死にたいことの原因は、この痛みだと考えるのかい?」

「うん、僕はそう感じる。眠れないとき、死にたくなるようなときは、決まって耐えがたい心の痛みが原因だと感じる。いや、ひとは痛みを獲得したからこそ、自死という選択肢が生まれたんじゃないかとも考えるね」

「そっか。大変だね。ぼくは痛みを感じないけど、いまでも死にたいと思っているよ」

「……お互い、死ねるといいね」

『閉扉の時間となりました。またのお越しをお待ちしております』

 管理人のような口調で無機質な声がそう告げると、僕はおぼろげな意識とともに眠りについた。


 ***


 朝起きたら、角砂糖を口のなかで溶かしながら、インスタントコーヒーを淹れた。にじみ出た安い泥水をすすり、長袖のシャツを羽織って玄関の扉を開けた。駅に着いてホームに向かう。快速が来る。今日こそ死ぬ。そう思ってはいても、一歩踏み出せないどころか、車両が目の前を通過するとき、僕は怖くなって踵に体重を乗せた。

 駒場では、うしろの扉から教室に入り、最後列のいちばん離れた席へ向かった。すでに着席した学生のそばを通るとき、嫌な声が聞こえた。

「おい見ろよ。あいつ、真夏なのにまだ長袖着てるぞ」

「くそが。豚臭えから脱げよな」

 着席したら気配を消して板書をとった。ほかの生徒が退室したのを見計らってから、出席票を提出して、最後に教室を出た。

 昼休みは余計な接触を避けるため、旧棟の非常階段から屋上によじ登り、ソーラーパネルの陰で、自宅から持参したパンをかじった。

(それにしても暑い。けど、熱で死ぬのだけはごめんだ)

 シャツの袖で汗を拭い、煌々と輝く太陽をにらんだ。自ら出た死への拒絶。いや、死にかたを選ぶという自らの贅沢な死生観に驚いた。昨晩の夢を思い出した。屋上の端まで進み、フェンスに手をかけた。ここでも、一歩が踏み出せない。非常階段に足をかける度胸はあるのに、フェンスをよじ登る勇気はない。

 三限の二外は、始業の直前に教室に入った。また、嫌な声が聞こえた。

 四限は基礎統計の授業だった。進学振り分けのため、落とせない科目のひとつだ。流れては消えゆく数字よりも、成績表に残る評点のほうが気になった。

 帰宅後は予備校の採点バイト。在宅式かつオンラインで行うことができ、答案ごとの成果報酬のため、ひとと関わることなく日銭を稼げた。ただ、時給は千円を超えず、カップラーメンを喉に流し込んだ。

 この日も、すぐ眠りにつくことはできず、スマートフォンの画面を親指で弾き続けた。暗がりのなか、青白い光が虚な表情かおを照らした。

『本日もご入室いただきありがとうございます』

 また、この部屋だ。上下左右に反射された面のひとつを見つめると、生気のない両目が無限に覗き返した。

 正面に向き直ると、もやのほうから話しかけてきた。

「死にたいね」

 僕は、携えていた四文字で答えた。

「うん。死にたい」

「今日も痛みを感じたかい?」

「どうだろう。痛みというより、孤独かな。孤独感からくる心の痛みと表現するのが正確だと思う」

「こどくって?」

『孤独に該当する語を割り当てます。孤独とは──のようなものです』

 ふたたび聞こえたか細い音は、前よりも短かく感じられた。

「ぼくたちには孤独という考え方がない。でも、集団という概念は存在するよ」

「集団はあるのに、孤独がない、か。いま接している君……夢のなかの君はひとりのはずなのに、へんな感じだね」

「そうだね。ひとりでいる状態はあるけど、孤独感というものは感じない。眠るときも、夢を見るときも、ひとり。ただ、きみと違うのは、ぼくは集団でいると、死にたくなる」

「……それはコミュニケーション、つまり関わり合いのなかで嫌な気持ちになって死にたくなる、ということだろう?なら、僕と同じじゃないか」

「ちょっと違うかな。もちろん、関わり合いが負担になる時はあるよ。ぶつかったりもする。でも、それで死にたくなるわけじゃない。これはぼくたちの──なんだ」

「ごめん、最後の、聞き取れなかった」

『──に対応する語を割り当てます。──は、システムのようなものです』


「システムか……社会的なつながりのこと? それとも、生態系としての仕組みのこと?」

 無機質な声は答えない。かわりに、もやがことばを返した。

「どっちもかな。ぼくだけじゃなく、似たような境遇にある場合、他の個も同様に自死を選択する。自らを死に委ねる。これは集団の密度が高すぎても、低すぎても。お互いの距離が遠くても、近くても。ともに過ごす時間が短くても、長くても。だめなんだ」

「そのシステムには、なにか目的があるの?」

「わからない。けど、ぼくたちはこれに抗うことはできない。なにより、いまこの瞬間も、死への渇望がうるおうことはない」

『今晩も閉扉の時間となりました。またのお越しをお待ちしております』

 無機質な声が、眠りの手を引いた。


 ***


 起き上がって、水道の蛇口をひねる。ぬるくて鉄の味がした。朝支度を済ませ、駅のほうへ向かう。ホームでは、いちばん前に並んだ。つくばへ向かう電車は横一列のシートが肘掛けで隔てられていて、いくぶんか気持ちが和らいだ。

 研究学園駅からは、バスで向かった。車内はいていたけど、後から席を詰められるのが嫌で、吊り革を握った。小学校前の停留所で降りて、国道沿いの花屋でお供えの花を買った。剥がれかかった路側帯の上を歩いた。母が眠る霊園には、不釣り合いな緑の芝生がひろがっていた。

 母は怒ると平手でぶつこともあったけど、ふだんは優しかった。去年はまだ気持ちの整理がつかなくて、訪れることができなかった。今年はこれが最後になるかもしれないと思って、僕は最初で最後の墓参りに向かった。

 母は、父が祖父から受け継いだ診療所で働いていた。いそがしい毎日でも、手料理を作ってくれた。僕は普通のハンバーグよりも、豆腐を混ぜたハンバーグが好きだった。僕は母が休みの日に作ってくれるホットケーキが大好きだった。

 父が家を留守にするときは、母もどこかに消えた。母の不倫が発覚した。大ごとになるのを避けるため父は許したが、羞恥心からか、田舎の噂に耐えきれなかったのか、診療所から持ち出した大量の薬を飲んで母は死んだ。二年前に。僕は裏切られた気がした。二度も。

 墓に彫られた窪みをなぞるように眺めてから、手桶から柄杓で水をすくい、花筒にそっと注いだ。思いのほか量が入らず、水があふれた。あふれた水は、虫の死骸と一緒に流れ落ちた。花を差し込んで、両手をあわせても、母にかけることばは見つからなかった。

 入り口で桶と杓を返却して、ふたたびバスで実家へ向かった。受け取った整理券には汗がにじみ、親指に張り付いた。バスに揺られて二十分。だだっぴろい駐車場には、父の車だけが停まっていた。交差点前の停留所で降りて、バスが来た道を少し歩いて戻った。

 診療所の脇を進んで、家屋側の玄関扉を開けた。

「ただいま」

 返ってくる声はない。廊下を進むと、消毒臭が混じる実家の嫌な匂いがした。居間ではソファに腰かけ、新聞をひろげる父の姿があった。

「これ、相談していた奨学金の誓約書」

「そこに置いといてくれ。いまペンと印鑑を持ってくる」

 必要最低限の事務的な返答。昔から父の考えていることはわからなかった。眼鏡の分厚いレンズが、表情の読めなさをいっそう強めていた。父は書斎から戻ると、低い声で念を押した。

「ところで、学部選抜は問題ないんだろうな」

「うん、手続きも済ませてある」

「そうか、発表はいつだ」

「今月末の予定だよ」

 自ずと僕も最小限の受け答えになる。母のことは、あの日以来、話題にあがることはなかった。墓参りの報告もしなかった。連帯保証人の欄に署名と捺印を済ませると、ふたたび新聞をひろげ、父の顔は見えなくなった。

「結果が分かり次第、連絡を」

「わかったよ。じゃあ、もう行くね」

 逃げるように実家をあとにした。来た道と反対側の停留所からバスに乗り、反対側のホームで電車に乗った。車窓から外を眺めたいと思った。顔を上げると、向かいのひとと一瞬目が合って、すぐに視線を手元に下げた。

(景色を見たかっただけなのに)

 眠気はないけど、世界を遮るようにまぶたを閉じた。はじめての墓参りも、ひさしぶりに会った父も、なにかが変わるきっかけにはなり得なかった。むしろ、それは死ぬための準備が整ったサインだと受け取った。

『ご入室を歓迎いたします』

 部屋の中央にはテーブルが一台と、椅子が二脚置かれていた。天井と床、壁と同じく、脚から板にいたるまで全ての面が鏡張りになったテーブルと椅子。右手を伸ばして椅子の笠木かさぎに触れた。想像していた冷たさはなかった。

『どうぞ、お掛けください』

 僕は無機質な声にしたがって、椅子に背中を預け、向かいの席に浮かぶ白いもやに話しかけた。

「今日死ぬのがいいと思う」

「いいね。でも、どうして今日なんだい?」

「うしろめたい気持ちが、なくなった」

「きみにとっての自死は、うしろめたいものなのかい?」

「うん。電車を利用するひとが困るとか、親に迷惑がかかるとか考えていたけど、そういううしろめたい気持ちが、なくなった」

「ちょっと、難しいかも」

『語を割り当てます。──の崩壊によって───が害をこうむることに似ています。親は──に該当します』

 か細い音は、電子音のようでいて、ときどき不規則なノイズも感じられた。説明を受けて、もやは理解を述べた。

「なるほど。きみはこれをうしろめたいと捉えているんだね」

「違うのかい? 君の世界では、自死をどう捉えるんだい?」

「ぼくたちが同じような境遇で自死を選択したとしても、誇らしいと捉えるよ」

「誇らしい? いま確かにそう言ったのかい?」

「ああ。周囲からも讃えられ、誇らしい気持ちのまま死を迎える」

「……それは、目的のために自らが犠牲になるということ?」

「そこまで崇高なものではないかもしれない。ただ、少なくともぼくは、自死を疎んじたことはないし、害だと感じたこともない。個の喪失に対して、悲しみの感情は残るけどね」

「僕がいなくなったら悲しい?」

「そうだね。きみ自身のこと、深くは知らないけど、たぶん悲しいし、寂しいよ」

「今日死ぬのはやめにするよ」

『閉扉の時間となります。扉からご退室くださいませ』


 まぶたを開くと、僕だけが停車中の電車に取り残されていた。表示には『回送』の二文字。慌てて降りて、そのまま家路についた。


 ***


 夏の終わり、授業が始まる前に情報棟のパソコンで学務システムの画面を開いた。


志望順位:第一志望

学部学科:医学部 医学科

内定状況:未内定


志望順位:第二志望

学部学科:医学部 健康総合科学科

内定状況:内定


 僕が目指していた医者への道は灰色で塗りつぶされ、第二志望の<医学部 健康総合科学科>という表示が、信号と同じ緑の表示で光っていた。

 理二から医者を目指すことが、無謀なことは知っていた。少なくとも入学前から知っていたはずだ。それでも、一縷の望みに期待していた自分がいた。この道がひらけたのなら、碌でもない人生も少しはマシになるだろうと確証のない自信もあった。

 もちろん、進振りで失敗しても、自主的に留年して再挑戦する方法や、他大学の医学部へ再受験するという選択肢もある。けど、そんなことを考える気力も、いまから総務課へ向かう体力もなかった。無気力が体を支配する。奨学金が頭をよぎる。

 パソコンの電源を落とすと、黒い画面に表情のない顔が浮かび上がった。仕切りの向こうでは、学生たちが椅子を引き、ぞろぞろと立ち上がった。十時二十分。ひとの流れに身を任せて二限へと向かった。スマートフォンは握りしめたまま、父への連絡は保留のまま。席に着くと周囲の学生の一部からも、どんよりとした空気が感じられた。

 昼休み。いつもの非常階段から屋上によじ登ると、ソーラーパネルを点検する作業員の姿が見えたので、僕はあきらめた。

(せっかく今日は飛べる気がしたのに)

 午後は、教室を移動して座っての繰り返し。空虚を見つめ続け、陽が沈む前にはアパートに戻り、昼に食べ損ねた味のないパンをかじった。こんな状況でも空腹を覚える自分の脳天気な体に嫌気がさした。疲れた。

「どうやって死のう」

「簡単には死ねないのかい?」

 僕は体を引き摺るように鏡面仕上げの椅子に座った。

「死ねる。一歩踏み出すだけでいいんだ」

「いいね。それだけでいいんだ」

「よくない! そんなこともできないんだ!」

「そっか。難しいんだ、死ぬって難しいよね」

「難しくなんか、ない。ひとは簡単に死ねる」

「羨ましいよ。ぼくたちは簡単には死ねない」

「……どういうこと? 肉体的に、死ぬのが難しいとか?」

「あながち間違ってはないかな。自死は、あらかじめ決められた手順にしたがって、長い時間をかける必要があるんだ」

「それは、儀式のようなもの?」

「ぎしき……」

『儀式に該当する語はありません。ひとが作り出した宗教的な習わしであり、文化的な概念です。ある条件下での手順の呼称のひとつとしてご認識いただければと』

 説明が途切れると、もやがぽつりと答えた。

「自死には手順が必要で、それはすぐに実行可能なものではないんだ」

「長い時間をかけて死ぬってどんな感じ? あっ、でも痛みがないなら苦しみもないのか」

「そうだね。長い時間、苦しむという感情にはいたらない。決められた手順どおりに、ゆっくりと死を受け入れるよ」

「死に期待はしてる?」

「期待もしない。ただ、受け入れるんだ」

「死ねたら、嬉しく思う?」

「どうだろう、ぼくもまだ死んだことはないからね」

「……そうだよね」

 目線を一度下げてから、ふたたびもやを見つめた。

「僕が来るのは今日で最後になるだろうけど、君も無事に死ねるよう、心から祈ってるよ」

『祈るに該当する語はありません。儀式と同じく、ひとが作り出した宗教的な習わしであり、文化的な概念ですが、願いを形式化したものとご認識ください』

「ぼくも、きみの死を心から祈ってるよ。じゃあね」

「うん、じゃあね」

『両名の退室を確認いたしました』


 ***


 奨学金の制約もあって、僕は第二志望だった健康総合科学科へ進学せざるを得なかった。父からは『卒業を優先するように』とあきらめに近い返信があったのみ。かろうじて医療の道には進めるけど、医者への道は断たれた。

 そんな絶望の淵にいても僕はまだ、一歩踏み出すことができないまま、死を迎えられずにいた。幸い、健康総合科学科ではメンタルヘルス関連の履修科目を確認することができた。僕は確実に、それでいて晴れやかに死を遂げられるよう、自らを殺せない原因の究明に没頭した。

 スライドには『心身の苦痛、その認知と反芻が精神疾患に作用する』といった文章が映し出されていた。痛みだ。

 心の健康科学の講義では、痛みこそが、希死念慮の根源になり得ると理解できた。もともとは生き延びるための警報だった痛みを、ひとはなんども反芻できる脳を手に入れたせいで『痛みから逃げる手段として自らを消す』なんて発想にまで行き着いてしまった。

 生物学的メカニズムの実習では、利他的な自死を選択する単細胞生物の存在を知った。遺伝的に制御された能動的な細胞の死。これこそがまさに、他を生かすために組み込まれたシステムなのではないかと疑った。

 実習では、自死する微生物を模したグループワークが提案された。毒素の増殖を止め、仲間の感染拡大を防ぐために、誰が犠牲になるのかを議論して決めるという悪趣味な設定だけが、妙に記憶に残った。

 グループ分けの過程は、話しかけも、話しかけられもせず、自らの孤独感をさらに強化するものであった。死は、日に日に強まり、そのたねは徐々に形作られていった。

 図書館の棚には、自殺に関する文献が、いくつも並んでいた。どれも、耐えがたい心の痛みと、ふくらむ孤独感や敗北感、周囲への負担感を、理論的に説明しようとしていた。僕は、ばらばらに散らばった理論を引き寄せ、自殺研究の系譜を結び直す卒業論文の執筆に取りかかった。この論文の完成こそが、自らに盛大な死をもたらす存在になると信じて疑わなかった。僕は、死にたっぷりと水をやった。

 地球上で『自殺を選択する生物は人類だけである』そのような原理ならば、地球の外、つまり宇宙の理においてはどうだろう。自ら崩壊を迎える恒星の死や、重力の相互作用で軌道が乱れた惑星の自殺、そしてエントロピーの増大によって引き起こされる宇宙の死というものを知った。星々は途方もない時間をかけて均され、引き伸ばされた闇だけが残る。宇宙の終幕は、たったひとつの例外も許さない。ついに芽を出した死に、僕は希望を見出していった。

 なかでも興味深かったのは、宇宙の緩慢な死を提唱した物理学者<ルートヴィッヒ・ボルツマン>もまた、自殺によって悲劇の生涯を遂げたという事実であった。すでに死が決定づけられた世界において、自ら終点を引くことに、なんの問題があるのだろう。死は、天に向かって幹を伸ばし始めた。

 僕は、さらに多くの肥料を与えた。死は、地に深く根ざした。自殺という事象を俯瞰的に観測し、研究をすすめた学者たちは、どのように華々しい最後を飾ったのだろう。その方法を持ってすれば、僕に唯一足りないピースである自殺能力そのものを獲得できるのではないかと考えた。

 僕は、検索窓に『自殺研究者 自殺』と入力した。しかし、世界は応えてくれなかった。言語を変えても、検索エンジンを変えても『自殺研究者が自殺した』という記事やニュースは一件もヒットしなかった。とてつもなく広大なインターネット上において、一件も。執念深くなんども検索したが、結果は変わらなかった。

 死は、枯れ木のように脆く砕け散った。もちろん、ネット上での検索結果がゼロだからといって、実例が一件もないとは思わなかった。遺族による配慮や、故人の名誉のために死因を伏せたケースもあるだろう。それでも『自殺研究者は自殺しない』ということばが、まるで呪いのように僕の背にのしかかった。

 これまで積み上げた『自殺するための完璧なプラン』のはずだった論文は、この瞬間から役割が変わり始めた。以降、自殺を俯瞰的にみればみるほど、死が遠のいていく感覚があった。文献をよめばよむほど、『自殺研究者は自殺しない』という呪いのことばの重さも増した。論文の執筆が完了した時点で、死への希望は失望へと変わっていた。

 僕は、駅のホームに立った。普段どおり一番前に並んで電車を待った。


 ***


 鏡張りの室内は、入り口から光が漏れだす程度で、赤と青を吸った鏡面の緑が薄暗く沈んでいた。

「彼は、来ていないのかい?」

『入室の記録はございません』

 あの日以来、夢をみても、彼が来ることはなかった。彼は無事に死を迎えたのだろうか。彼はいったい、なんだったのだろう。もしかすると、彼は自らの心の内を写し出す鏡であったのかもしれない。

 部屋の扉は、いつでも開かれる。真んなかには、鏡張りのテーブルと椅子が置かれ、あらかじめ定められたときが来たら、無機質な声が流れ始める。

 『お時間となりました。またのお越しをお待ちしております』

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二号室 佐藤径 @phisato

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