言わなきゃ伝わらない想いと隣の幸せ
桐ケ谷アスナ
壁越しの幸せな笑い声と届かなかった言葉
隣室の響き
朝の光がカーテンを透かして部屋に入ってくる。
壁一枚隔てた隣室から、翔(しょう)の穏やかな声が響いた。
「遥(はるか)、おはよう。今日もいい天気だな」
「おはよう、翔。ねえ、今日の朝ごはん何にする?」
「俺が作るよ。遥は座ってて」
笑い声が壁を軽く振動させる。
美月(みづき)はベッドの中で目を閉じたまま、そっと耳を澄ました。
隣室の幸せな朝は、もう何年も続いている。あの二人は、翔と遥。翔は近所の会社で営業マンをしている、30代前半の真面目な男。いつもスーツ姿がきっちりしていて、仕事熱心だが少し不器用。遥はパートで働く明るい女性で、いつも笑顔が絶えない。好奇心旺盛で、翔の堅い性格を柔らかく溶かすような存在だ。美月がこのマンションに引っ越してきた頃から、壁越しに聞こえる彼らの声は、まるで家族のような温かさがあった。二人は大学時代のサークルで出会った。翔が遥に一目惚れし、勇気を出して声をかけたのが始まり。あの頃、翔は内気で人見知りだったが、遥の明るい笑顔に惹かれ、初めてのデートで「遥みたいな人がいると、世界が楽しくなる」と本音を漏らした。遥はそんな翔の素直さを気に入り、「翔の真面目なところが好き。もっと一緒にいたいよ」と返した。付き合って数年後、翔は遥にプロポーズした。海辺の旅行で、夕陽を見ながら「遥、俺みたいな不器用な男だけど、一生一緒にいてくれるか?」と言った。遥は涙を流しながら「もちろん! 翔のそういうところ、大好きだよ」と即答した。あれから結婚し、今も喧嘩してもすぐに仲直りし、互いの気持ちを言葉で確かめ合う。あの幸せは、翔の内気な性格を遥が引き出し、遥の感情的な部分を翔が優しく受け止めるから生まれるものだ。翔は遥のわがままを「可愛い」と笑い、遥は翔の真面目さを「頼もしい」と褒める。二人の関係は、互いの欠点を補い合い、言葉で愛を積み重ねることで輝いている。出会いから今まで、翔は遥の影響で少しずつ自信を持ち、遥は翔の安定感に支えられて自由に生きている。壁越しに聞こえる彼らの声は、そんな深い絆の証だ。
翔と遥の心理は、言葉を「愛の呼吸」のように扱う。翔は遥の声が聞こえるだけで、心の奥底に溜まっていた疲れが溶けていくのを感じる。遥は翔の言葉を聞くたび、自分が本当に必要とされている実感が胸に温かく広がる。喧嘩のときでさえ、怒りを言葉にすることで互いの存在を再確認し、すぐに「ごめん」「好きだよ」と交換することで、関係がより鮮やかに蘇る。沈黙は彼らにとって、不安ではなく、言葉の後の優しい余韻でしかない。
自分たちの朝は、もう何年も静かだった。
悠人(ゆうと)はまだ寝室にいる。
美月はそっと起き上がり、キッチンへ向かう。
コーヒーを淹れながら、隣室の壁に視線を向けた。
悠人が寝室から出てきて、ぼんやりとテーブルに座る。
「おはよう」
「おはよう。コーヒー淹れたよ」
「……ありがとう」
悠人はカップを手に取るけど、視線は窓の外。
美月は隣に座って、彼の疲れた顔を見た。心の中で、今日も元気出してほしいなと思いながら、黙ってトーストを焼いた。
言葉は出なかった。
悠人はいつも察してくれるから、自分も察すればいいと思っていた。
高校の帰り道、悠人が突然手を握って「美月、ずっと一緒にいよう」と言ったとき、美月は頷くだけで十分だった。
悠人なら、私の気持ち全部わかってくれる。そう信じていた。
だから、言葉にしなかった。
初めてのデートを思い出す。あの日は公園でピクニックをした。悠人がお弁当を作ってきてくれて、美月は驚いて笑った。
「悠人、こんなに上手く作れるんだ! 嬉しいよ!」
「美月のために頑張ったよ。喜んでくれるかなと思って」
悠人の照れた笑顔が可愛くて、美月は胸が温かくなった。言葉じゃなく、ただ抱きついて伝えた。悠人は美月の髪を優しく撫でて、笑った。二人はその日、木陰で何時間も話し、未来の夢を共有した。悠人は「美月と一緒にいると、毎日が楽しい」と言い、美月は心の中で同じ思いを抱き、頷いた。喜びが体中を駆け巡り、二人は手をつないで帰った。あの頃の楽しくて甘い時間は、言葉以上の絆を感じさせた。美月は内気で感情を表に出しにくい性格だったが、悠人の優しさがそれを溶かしてくれ、悠人は美月の静かな支えに安心感を覚えていた。二人の関係は、互いの性格を補い合うように始まった。
美月と悠人の心理は、沈黙の中で「察し合う」ことで安心を得るものだった。言葉を省略することで、互いの理解を深め、喜びを静かに味わう。美月は悠人の視線やため息だけで、彼の疲れや優しさを読み取り、それを自分の愛の形として受け止めてきた。悠人も美月の小さな仕草や沈黙に、深い信頼と安堵を感じていた。言葉を交わさなくても、心が通じ合っているという確信が、二人の関係の基盤だった。だが、沈黙は次第に不安の影を落とし、感情のすれ違いを生む。美月は「言わなくてもわかるはず」という思いが強くなるほど、言葉を出すのが怖くなり、悠人は「察してくれているはず」という期待が裏切られるたびに、心の距離が少しずつ広がっていくのを感じていた。
初めての夜も、言葉はいらなかった。
触れ合うだけで、全部わかった気がした。悠人の優しい手が、美月の不安を溶かしてくれた。心の中で「大好き」と思ったけど、口に出さずとも、悠人の目がすべてを理解してくれているように感じた。翌朝、二人はベッドで笑い合い、悠人が「美月、幸せだよ」と呟いた。美月は頷き、胸に喜びが満ちた。
結婚後も、最初はそんな甘い日々が続いた。悠人は仕事から帰ると、美月の肩を抱き、「今日も美月がいてくれてよかった」と言う。美月は照れながらも、心の中で同じ思いを抱き、夕飯を一緒に作った。二人は小さなアパートで、互いの存在を喜び、毎日のように笑い合った。悠人の優しさが、美月の心を温かく包み、美月はそんな悠人を支えたいと強く思っていた。悠人は仕事で疲れても、美月の作る食事に癒され、「美月がいると、どんな日も乗り越えられる」と喜びを表した。美月はそんな言葉に、心が満たされ、二人の関係は静かながらも深い信頼で結ばれていた。
でも、結婚して数年経つと、少しずつ変化が訪れた。
仕事のストレスが積み重なり、悠人の帰宅が遅くなる日が増えた。
美月は「疲れてるんだろうな」と察して、夕飯を温め直して待った。
帰ってきた悠人はソファに崩れるように座り、ため息をつく。
美月は黙って肩を揉み始めた。
悠人は目を閉じて「ありがとう」とだけ呟いた。
それで十分だと思った。
でも、心のどこかで「もっと話したい」と思ったけど、言葉にしなかった。美月は寂しさを押し込めて、悠人が察してくれるのを待った。胸の奥で小さな棘が刺さり始め、毎晩ベッドに入るたびに、かつての温もりが遠ざかっていくような切なさが広がった。悠人も疲労から無口になり、二人の会話が減っていったが、まだお互いの存在に喜びを感じていた。
ある夜、悠人が珍しく早く帰ってきた。美月は夕飯を温め直しながら、胸がざわついた。今日は話せそうかな、と一瞬思った。
悠人がソファに座り、ため息をつく。
美月はビールを冷やしてテーブルに置き、隣に座った。
「……今日は早かったね」
美月はようやく声を出した。喉が少し乾いていた。
悠人はビールに手を伸ばし、
「うん。珍しく残業が早く終わった」
と言っただけ。
美月は「何か話したいことある?」と言いかけたが、言葉が喉で止まった。悠人の視線が窓の外に向いているのを見て、結局飲み込んだ。
「……お疲れさま」
それだけ言って、美月は立ち上がり、キッチンに戻った。
悠人も何も言わず、ビールを飲んだ。
その夜、二人はまた背中を向けて寝た。美月は布団の中で、言葉が出なかった自分を責めながらも、「察してくれるはず」と言い聞かせた。美月は悠人の疲れをわかってるつもりだった。でも、悠人は美月の小さなため息に気づかず、自分の疲れに浸っていた。お互いが「相手のことはよく知ってる」と思っていたのに、実は一つとしてわかっていなかったのかもしれない、と美月はぼんやり思ったが、それを言葉にできなかった。
隣室からは、翔と遥の声。
「遥、昨日俺の残業で待たせちゃってごめん。今日こそ早く帰るよ」
「ううん、翔。待ってるの楽しいよ。でも、愛してるって言ってくれないと寂しいかも」
「あはは、愛してるよ遥! 毎日言ってるだろ」
笑い声が続く。遥の声が少し甘えたように続き、
「翔のそういうとこ、大好き。早く帰ってきてね、抱きしめてあげるから」
翔の声が照れくさそうに、
「悪いな、遥。待たせてばっかり。でも、お前がいると毎日が楽しいよ」
二人の声は自然に甘く絡み合い、互いの愛を言葉で確かめ合っている。
美月は壁に耳を当てて、私たちも幸せだよねと自分に言い聞かせていた。
でも、少しずつ、何かが変わっていった。
ある週末、悠人が休日出勤を決めた。
美月は胸がざわついた。一緒に過ごしたかったのに、口に出さず、弁当を作って渡した。心の中で「行かないで」と哀しく思ったが、笑顔で送り出した。
悠人は「ありがとう」と受け取り、出て行った。
夕方帰ってきた悠人は疲れた顔で「今日も大変だったよ」と呟いた。
美月は察して、ビールを冷やして置いた。
でも、悠人の視線はスマホに向いたまま。
美月は心の中で「私を見てよ」と叫びたくなったけど、黙った。寂しさが胸を締め付け、夜に一人でため息をついた。美月は悠人の帰宅時間が遅くなる理由を、仕事の忙しさだとわかってるつもりだった。でも、悠人は美月の待つ姿に気づかず、自分のストレスを溜め込んでいた。お互いが「相手の苦しみをわかってる」と思っていたのに、実は全くわかっていなかったのかもしれない、と美月はふと感じたが、それを言葉にできなかった。
ある朝、美月はコーヒーを淹れながら、悠人に声をかけようとした。
「ねえ、悠人……」
悠人が顔を上げた。
美月は一瞬、言葉が詰まった。胸が痛くて、何を言いたいのか自分でもわからなくなった。
「……今日もいい天気だね」
それだけ言って、美月は視線を逸らした。
悠人は「うん」とだけ返し、カップを手に取った。
美月は自分の声が小さすぎたことに気づき、胸が締め付けられた。悠人は美月の言葉を「いつもの挨拶」だとわかってるつもりだった。でも、美月はそこに「もっと話したい」という願いを込めていた。お互いが「相手の気持ちをわかってる」と思っていたのに、実は一つとして通じていなかったのかもしれない、と美月は静かに思ったが、それを言葉にできなかった。
すれ違いは、次第に鋭く刺さるようになったが、ゆっくりと。
ある夜、悠人が遅く帰ってきて、夕飯を温め直した美月を見てため息をついた。
「美月、最近俺のこと気にかけてくれてるのはわかるけど……話さないよな」
美月は心臓がドキッとした。胸が痛んで、涙が込み上げそうになった。寂しさと苛立ちが混じり、「どうしてそんなこと言うの?」と思った。
「ごめん……疲れてると思ってたよ」
「それも察しなんだよな。俺も察しようとしてるけど、言葉がないとわからないよ」
悠人の声に苛立ちが混じっていた。美月は傷ついて、喉が詰まって言葉が出なかった。心の中で「どうしてわかってくれないの?」と叫んだ。怒りが少し芽生えたが、抑え込んだ。美月は悠人の苛立ちを「疲れのせい」だとわかってるつもりだった。でも、悠人は美月の沈黙を「無関心」だと感じていた。お互いが「相手の心をわかってる」と思っていたのに、実は全く伝わっていなかったのかもしれない、と美月はぼんやり思ったが、それを言葉にできなかった。
その夜、二人は背中を向けて寝た。美月は布団の中で静かに涙を流した。哀しみが心を蝕み始めた。
隣室からは、翔と遥の声。
「翔、バカ! 約束したのにまた遅刻したでしょ!」
「ごめん遥、仕事が長引いて……でも、俺のせいじゃないよ!」
声が大きくなり、壁が震える。遥の声は苛立ちを隠さず、翔の言い訳は少し弱々しい。でも、それが本気の証だ。遥は翔の仕事熱心さを理解しつつも、寂しさを我慢できず爆発させる。翔はそんな遥の感情を受け止め、すぐに反省する。
「いつもそうやって言い訳! 私だって待ってるの嫌なんだよ! 翔のこと大好きだけど、こんなんじゃもう耐えられない! 大学時代みたいに、もっと一緒にいてよ!」
遥の声が涙混じりになり、哀しみが溢れる。
翔は慌てて、
「遥、待てよ……ごめん、俺が悪かった。あの頃の俺、遥に声かけたときみたいに不器用だけど、ちゃんと早く帰るようにするから。愛してるんだよ、遥。言わなきゃ伝わらないよな、俺ももっと言うよ」
「うん……私も好き。翔のそういうところ、直してね。出会った頃から、翔の誠実さが好きだったんだよ」
喧嘩の後、すぐに抱き合うような音と笑い声。遥の声が柔らかくなり、
「翔、来て。今日は特別に甘やかしてあげる」
翔の声が優しく、
「わかったよ、遥。ありがとう。お前がいると、俺は幸せだよ」
二人の声は自然に甘く溶け合い、喧嘩の熱が愛の温もりに変わる。
美月は壁に耳を当てて、「あっちは感情をぶつけてる。私たちは察し合いで大丈夫」と自分を納得させた。
でも、心の棘が深く刺さっていた。寂しさと苛立ちが混じり、美月は夜通し眠れなかった。
不満は静かに、でも確実に積み重なっていった。ゆっくりと、日常の小さな亀裂が広がるように。
悠人が「美月、最近冷たいよな」と言うようになった。
美月は「そんなことないよ、察して」と心の中で思うけど、言葉にしない。胸が苦しくて、息が詰まる。苛立ちが募り、「どうして気づかないの?」と思った。悠人も美月の沈黙に苛立ちを覚え始め、「もっと話してくれよ」と心で思ったが、口に出さなかった。二人の関係は、互いの思いやりが空回りし、徐々に喜びが薄れていった。
ある日、悠人が友達の結婚式に一人で行くと言った。
美月は「一緒にいきたかった」と思ったけど、黙ってスーツをアイロンした。心の中で「どうして誘ってくれないの?」と問いかけ、哀しみが深まった。
悠人は「ありがとう」とだけ言って出かけた。
帰ってきた夜、悠人は酔ってため息をついた。
「友達夫婦見てさ、俺たちみたいに静かじゃなくて、いつも話してるんだよな。羨ましかったよ」
美月の胸が痛んだ。自分も羨ましかったのに、言葉にできず。苛立ちが募り、「私だって……」と言いかけたけど、止めた。涙を堪えて、ただ頷いた。夜に一人で泣き、哀しみが体を震わせた。美月は悠人の羨ましがる気持ちを「友達の幸せを喜んでいる」だとわかってるつもりだった。でも、悠人は美月の沈黙を「共感がない」だと感じていた。お互いが「相手の心をわかってる」と思っていたのに、実は全く伝わっていなかったのかもしれない、と美月は静かに思ったが、それを言葉にできなかった。
すれ違いは、さらに鋭くなったが、ゆっくりと。
ある夕方、悠人が珍しく早く帰ってきたのに、美月は買い物で遅れていた。
帰宅した美月を見て、悠人が苛立った声で言った。
「美月、俺が早く帰るって連絡したのに、待っててくれなかったのか?」
美月は胸がざわついた。「察してたと思ったのに」と心の中で思うけど、
「ごめん、買い物が長引いちゃって」
悠人はため息をついて「いつもそうだよ。言葉がないと、俺は何もわからないよ」と吐き捨てた。
美月は胸が締め付けられた。怒りと悲しみが爆発しそうになった。
「わかってるはずだよ! いつも察してくれる悠人じゃないの? どうしてそんなこと言うの?」
初めて声が大きくなったけど、それ以上言葉が出なかった。悠人の冷たい視線が、美月の心を切り裂いた。怒りが残り、美月は一人で部屋に閉じこもった。悠人も苛立ちを抑えきれず、翌日まで口を利かなかった。二人の関係は、喜びの記憶が遠ざかり、哀しみと苛立ちが支配し始めた。美月は悠人の苛立ちを「一時的なもの」だとわかってるつもりだった。でも、悠人は美月の言葉を「責め」だと感じていた。お互いが「相手のことをよく知ってる」と思っていたのに、実は一つとしてわかっていなかったのかもしれない、と美月はぼんやり思ったが、それを言葉にできなかった。
隣室からは、また翔と遥の喧嘩声。
「遥、なんで俺の趣味に文句言うんだよ! ゲームくらい許せよ!」
翔の声は苛立って、遥の返事は鋭い。翔のゲーム好きは、大学時代からのストレス発散法で、遥も知っている。でも、最近仕事が忙しい翔がゲームに逃げるのを、遥は寂しさから我慢できなくなる。
「許さない! 毎日毎日ゲームばっかりで、私のこと見てくれない! 私、翔のこと本気で愛してるのに、こんなんじゃ別れるよ! プロポーズのときみたいに、私を一番に考えてよ!」
遥の声がヒステリックに上がり、怒りと哀しみが混じる。
翔は慌てて、
「待て遥、別れるなんて言うなよ! あの海辺でプロポーズしたとき、遥の笑顔が俺のすべてだったよ。俺も愛してるよ、ゲームは減らすから。遥の気持ち、ちゃんと聞かせてくれてありがとう。俺、遥がいないとダメだ」
「うん……私も。もっと話そうね。翔の不器用なところ、結婚してからますます好きになったよ」
感情をぶつけ合った後、すぐに甘い声が聞こえる。遥の声が柔らかくなり、
「翔、来て。今日は特別に甘やかしてあげる」
翔の声が優しく、
「わかったよ、遥。ありがとう。お前がいると、俺は幸せだよ」
二人の声は自然に甘く溶け合い、喧嘩の熱が愛の温もりに変わる。
美月は壁に体を預けて、「私たちは違う。言葉なんていらない」と言い聞かせた。
でも、棘は心を切り裂くように痛かった。苛立ちと絶望が渦巻き、美月は一人で拳を握りしめた。
崩壊は、静かに、でも爆発的に来た。ゆっくりと積み重なったすれ違いが、ついに限界を迎えた。
ある夜、悠人が荷物をまとめ始めた。
美月は慌てて止めた。心臓が激しく鼓動し、恐怖と怒りが込み上げた。沈黙の心理が崩れ、ようやく言葉が溢れ出したが、遅すぎた。
「悠人、何してるの? 待ってよ! 話そうよ!」
悠人は冷たい目で美月を見た。
「出て行くよ。もう限界だ。美月、俺の気持ちわかってくれなかった。いつも察せ察せって、言葉がないと伝わらないよ!」
美月の胸が張り裂けそうになった。悲しみが怒りに変わり、涙が溢れた。
「そんな……私、いつも察してあげてたのに! 悠人の疲れ、全部わかってたよ! どうしてそんなひどいこと言うの? 私だって毎日寂しかったんだよ!」
声が震え、感情が溢れ出した。
悠人は声を荒げた。
「察すだけじゃダメだよ! 俺も察そうとしたけど、言葉がないと不安になるんだ。愛してるって、言ってくれなかったよな。俺だって言わなかったけど、お互い悪いんだ。でも、もう耐えられないよ! 毎日苛立ってた」
美月は感情がドカーンと爆発した。
「愛してるよ! 悠人、大好きだったよ! 言わなきゃ伝わらなかったの? 私の甘えが全部壊したの? ごめん、言えなかった! でも、わかってほしかった! どうして私だけが悪いみたいに言うの? 私だって哀しかった、喜びたかったのに!」
叫びながら、悠人の胸を叩いた。涙が止まらず、体が震えた。悠人の目にも涙が浮かび、苛立ちと哀しみが混じる。
悠人は美月の手を掴んで、静かに言った。
「遅いよ、美月。今さら言葉出しても、積み重なったすれ違いは消えない。俺も悪かったけど、もう無理だ」
悠人は荷物を持って出て行った。
ドアが閉まる音が、胸に突き刺さった。
美月は床に崩れ落ち、メモを握りしめた。
メモには「ごめん、美月。わかってくれなかったよ。俺も察しようとしなかったけど、言葉にしなかったお互いが悪いんだ」とあった。
涙が止まらなかった。絶望と後悔が美月を襲った。
壁に向かって叫んだ。
「悠人……好きだったよ! 言わなきゃ、伝わらなかったんだね……バカ、私のバカ! どうして言えなかったの! もっと喜び合いたかったのに!」
声は震え、壁を叩く手が血が出るほど痛かった。
隣室の幸せな声が、耳を塞いでも聞こえてきた。
でも、もう悠人はいなかった。
1年後。
マンションのエレベーターで、悠人と出会った。
悠人は新しい彼女と手をつないでいた。
幸せそうだった。
美月は微笑んで、静かに言った。
「元気?」
悠人は少し驚いた顔で、
「……うん。美月も」
美月は頷いて、エレベーターを降りた。
隣室からは、翔と遥の声がまだ聞こえてくる。
今も変わらず、笑い声と小さな喧嘩と、愛してるの言葉が。
今日も壁越しに、遥の声。
「翔、また喧嘩しちゃったけど、愛してるよ!」
翔の返事。
「俺もだよ遥。言ってくれてよかった。出会った日から、遥が俺を変えてくれたんだ」
美月は自分の部屋に戻り、静かにドアを閉めた。
コーヒーを淹れて、一人でテーブルに座る。
窓の外は、今日もいい天気だった。
美月はカップを両手で包み、そっと呟いた。
「次は、私から言ってみようかな。言わなきゃ、伝わらないんだよね」
壁の向こうから、遥の笑い声が聞こえた。
美月は小さく微笑んだ。
まだ、始まってもいない新しい朝だった。
(完)
言わなきゃ伝わらない想いと隣の幸せ 桐ケ谷アスナ @Asdfghjniopzxc1234
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