恋愛感染症

木曽川ガワ

第1話 

当時を振り返ってみれば、それは「禍」と呼ぶにふさわしい危機的状況に違いなかった。心臓の鼓動が普通じゃなかった。それに身体中が熱く、引き裂かれるようだった。じっとしていると……、その衝動に従って行動していないと……、死を感じた。


事実、死んでしまう人もいた。


恋愛感染症が広まったとき、その病の特性を理解するには戸惑いがあった。


「こみ上げる恋愛感情に従って行動しなければ発熱や呼吸困難、やがては世にも恐ろしい症状を併発し、死に至る」と、医師会が発表したのだった。


これを受けて、日本中の学校は休校になった。


ぼくの勤めている学校の対応は後手に回ったが、結局は休校になった。

ネットの陰謀論を信じてしまった校長が、恋愛感染症なんてメディアの作り話だと言っているうちに、死者が出てしまったのだ。


それは全校集会での出来事だった。

すでに生徒も教師もみんなマスクをしている中で、校長と、その忠実な部下である教頭だけはノーマスクでいた。

教頭は御年58歳の独身で、武士のような教育方針を掲げている人だった。剣道部の顧問で、教頭室には本物の刀を飾っていた。そして「明鏡止水」と書かれた掛け軸をかけていた。

あまりにも校則に厳しく、特に服装の乱れにはうるさかった。男子が学ランのボタンを開けていたり、女子がリボンをだらしなく下げていたりするだけで激怒した。


教頭は強面で、生徒だけでなく教員からも怖れられていたが、女性と話すときは絶対に目を合わせなかった。というか、見ないように努力していた。

そのせいで、彼は陰で童貞ザムライと呼ばれていた。


その日は教頭がスピーチをする日だった。

彼のスピーチは主に生活指導上の注意で、いつも武士道にかこつけて語られるのだった。

例えば、「大人には必ず挨拶をしなさい。そのような心掛けを礼という」とか、「仁とは弱者を思いやる心である。困っている人がいたら助けなさい」といったように。


そんな教頭がマイクの前に立った。そして大袈裟に深い礼をしてから話し出した。

「世間では、不穏なニュースが流れている。みんなも不安だろう。恐怖のために、家から出なくなった人もいるという。そして、今や日本中の学校が次々と休校になっている。だが、わが校は敵の姿もはっきりとわからぬまま噂に流されて決断することなどしない。恋愛感染症などデタラメだ。恋愛をしなければ死んでしまうなど馬鹿げている」


ここで、にわかに教頭がせき込みだした。初めは喉に何かが引っ掛かっているのか、指で首元をさする動作を見せた。だが、次第にゲホゲホと苦しそうにやりだした。


それでも教頭の話は続く。

「君たち学生の本分は勉強だ  ゲホッ  恋愛にかまけている時間はない  グフッ  克己という言葉がある。 強き者は己に勝つんだ……」


教頭の脚がふらふらと踊り出す。

ぼくはさすがに心配になってきた。壇上に上がって介抱しようと思ったが、しかし、もし教頭が感染者で、ウイルスを移されたらと思うとできなかった。


教頭は白い顔で話し続ける。もはや何が彼をそうさせるのかわからなかった。むしろ、今思えば彼が命がけで語っている内容をもっとちゃんと聞いておけばよかったとさえ思う。だがあの時、教頭の話の中身は入ってこなかった。その場にいた全員が、死にゆく教頭の姿に圧倒されていた。


「学生は、恋愛禁止だ」


最後に教頭はこう言った。次の瞬間、大きくむせたかと思うと血を吐いた。そして、どす黒い血の水たまりができるやいなや、教頭の身体はその上に崩れ落ちた。


しばらく、教頭は自分が作った血の海でもがいていた。

赤く染まった顔面、ぶるぶる震えている手足。まるで溺れた昆虫のように不気味な動作を繰り返していた。


その後、体育館は大混乱に包まれた。


こんなことがあったので、校長も休校にせざるを得なくなった。


しかし休校は数日で解除された。


なぜなら、恋愛感染症に対して隔離政策は相性が悪かったからだ。


この病に人類が対抗するうえで極めて問題だったのは、主に飛沫や接触によって感染することがすぐにわかったにも関わらず、感染者は恋愛をしなければならないことだった。


恋愛をするというのはどういうことなのか。個人差はあるが、基本的には恋する相手にアプローチをし続けることだった。。

初期症状であれば遠くから見つめたり、メッセージを送るだけでよかった。

だが、日が経つにつれてウイルスはその力を強めていく。やがて声をかけなければならなくなり、デートに誘ったり、プレゼントをあげたりしなければならなくなる。

告白しなければならなくなる頃には、そうしなければ教頭と同じようなことになるのだった。つまり、血を吐いて死んでしまうのだ。


まだ病の実態が解明される以前から、テレビやネットでは様々な情報が出回っていた。そして、どうやら全身全霊で恋心を表現すれば病は去るようだった。つまり、恋愛が成就する必要はなかった。振られたとしても、想いを伝えることができれば命は助かるのだった。


この病の性質を聞いて、多くの人は安堵した。感染したとしても、簡単に治るじゃないか。そう考える人が多数いた。

だが、実際に罹患してみると問題はそう単純ではなかった。

そしてこの病が猛威を振るったわずかな期間に人類は嫌というほど思い知らされた。


恋愛は難しいということを。


僕もまたそのうちの1人だった。


僕は28歳の教員で、公立高校で社会を教えている。生徒や同僚からは真面目さを評価されることが多い。これは言い換えれば特徴がないということだ。

飛びぬけて仕事に意欲的なわけでもないし、親兄弟のように生徒に寄り添ったりするわけでもなく、淡々と務めを果たしているからだろう。

僕自身としては、このことを否定するつもりはない。事実、僕は仕事というものをかなり冷静に扱っているからだ。


だが、僕にも大事にしている価値観はあった。それはモットーというか、人生哲学だった。

そしてそれは、僕には譲ることのできないものだった。


どういう価値観かというと、端的に言って恋愛は無駄だということだ。

事実、僕は恋愛をしたことがなかった。

人を好きになるということに意味を見出すことができなかった。


そして、それは良いことだと思っていた。

恋愛はあらゆることの生産性を落とすからだ。一時的な幸福感の高まりはあれど、やがて気持ちは冷め、重たい人間関係の複雑さが生活を阻害する。

それが僕の思う恋愛というものだった。


僕は生徒にこの価値観を出し惜しみすることなく伝えてきた。

そういう意味で僕は死んだ教頭の同類といえる。違いは教頭の価値観が古かったのに対し、僕のは新しいということだけだ。


「恋愛なんて時間の無駄だぞ。もっと意味のあることに時間を使えよ」

これが僕の口癖だった。授業中にする雑談もすべて恋愛の無意味さに関することだった。


生徒からは「思想強め」とからかわれていたが、思いのほか嫌われることはなかった。

僕が自分の価値観を無理に押し付けたりはしなかったからだろう。

僕は自分が恋愛を軽視する人間だと知ってもらえれば満足だった。


でも、できることなら言いたかった。

恋愛なんて禁止した方がいいと。


そんな僕が恋愛感染症に罹るなんて、思いもしなかったんだ。

しかも、許されざる相手に恋をしてしまうなんて。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

恋愛感染症 木曽川ガワ @nkzw2121

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ