アグラゼス冒険記

モドキ

平穏が崩れる時

 ベラリオスは正に「平穏」な男だった。安定した職、美しい妻。朝は決まった時刻に目を覚まし、同じ道を通って職場へ向かう。夕暮れには帰宅し、灯りの下で食卓を囲む。何の変化もない。彼の周りで何か変わるとしたら、季節で咲いたり散ったりする庭の花くらいだ。

 

 それ以上は何も起こらない。終末の日まで平穏な人生を続けるのだと彼は信じて疑わなかった。


 ある朝、彼はいつも通り目覚め、いつも通りに朝食を食べた。そして妻に「行ってきます」と口づけを交わし、彼女が作った弁当を片手に職場へと向かう。


 いつも通りの朝だ。

 整った顔に短い髭。ベラリオスは守衛らに挨拶し、職場の門をくぐる。ペンタリウム貿易ギルド、ベラリオスの勤め先は帝国の物流の一端を担っており、世界中に支部がある。交易船の乗組員や商人、それらを守る傭兵。ベラリオス達本部職員達の仕事は第一線で活躍する商人や傭兵ではない。彼らの仕事は書類をまとめる事である。どんな取引も契約書が有効な物でなければ意味がなく、たとえどんなに小さな隊商や船であっても彼らが作成する書類がなければ何処にも行けないのだ。


 ベラリオスは昨夜取り掛かっていた書類仕事の続きをしようと、自分の机の前に腰掛けた。


 インク壺の蓋を開け、羽根ペンを取る。昨夜途中で止めた帳簿は、整然とした数字と署名の空白を残したまま彼を待っていた。今日もまた、幾つかの書類に目を通し、判を押し、次へ回す。それだけだ。


 既に同僚たちも席についており、紙を繰る音と、低い咳払いだけが規則正しく響いている。誰も彼を見ていない。いつも通りの朝の風景だ。


「ベラリオス君」


 不意に名を呼ばれ、彼は肩を跳ねさせた。振り向くと、そこには主任の姿があった。

 マスターの倅でろくでなし。その端麗な見た目とは裏腹に彼の評判は醜い。マスターが落馬で寝たきりとなってからギルドの権力は彼に集中している。


「私のデスクに来てくれるか?」

「はい、すぐに」


 ベラリオスは心臓を高鳴らせた。主任に呼ばれる事なんて今までほとんどない。正確には、彼が職場に顔を出すなんて滅多になかった。女遊びや道楽でギルドや一族の金を使いまくっている創業者のボンボンは給料というものを無条件で貰える小遣いと同じと考えているのだ。


「失礼します」


 主任は何も言わず、窓の外を見ていた。「綺麗なものだ」港の先に広がる湖を見つめながら主任は呟いた。


「あの先に何があると思う?」


 何かの比喩なのか? それとも地理的な問いかけだろうか?

 

「分かりかねます」 


 主任はベラリオスの問いに満足したような笑みを浮かべた。「アグラゼスだよ」


 ベラリオスは指摘するのをぐっと堪えた。その方角にアグラゼスは浮かんでいない。真反対だ。


「新大陸アグラゼス……あそこに我々の支部があるのは君も知っているだろう?」


「……ええ」


 アグラゼス支部。その名前は書類上で何度も目にしてきた。損失報告書、死亡報告書……殆どがネガティブな事案だ。レンディアヌ帝は境界線の防衛に軍事力を惜しみなく投じているが、新大陸の混乱ぶりは制御不能の状態であった。


「最近、そこで欠員が出てな。誰かを送り込まねばならん。素人ではなく、優秀な者をね」


 そう言って主任はベラリオスを見た。

 ベラリオスの表情は固かった。


「行ってくれるね?」


 ベラリオスは何も答えなかった。


「物分かりが良くて助かるよ」沈黙を肯定と受け取ったのか主任はそう感謝した。「出発は一週間後だ」

 

「……はい」


 ベラリオスが部屋から出ようとした時、主任が声を掛けた。


「奥さんは元気か?」


「……ええ」


「そうか」主任はほくそ笑んだ後、手で何かを払うような仕草でベラリオスに退室を促した。



 ベラリオスは自分の机に戻り、椅子に崩れ落ちる。

 職場の誰もがベラリオスを見ていた。ペンと業務上のやりとりの代わりにヒソヒソ声が木霊し、哀れみと同情の籠った視線がベラリオスに向けられている。何を告げられたにせよ、碌な話じゃないはずだ。それが同僚達の意見だった。


「おい、ベラリオス」


 禿げ頭に無精ひげ。同僚のケラアスはベラリオスの机の上に腰を下ろすと、彼の肩に手を置いた。


「やぁ……ケラアス」


「どうした? 元気ないじゃないか」ケラアスは笑みを作り、状況を見守る同僚達にちらりと視線を向ける。「奴に何を言われたんだ?」


「死刑宣告だよ」


「……解雇か?」


「死刑宣告だって言っただろう?」ベラリオスは親友を僅かに睨んだ。「解雇ならどんなに良かったか」と、深いため息をつく。「アグラゼス支部に異動だってさ」


「アグラゼス支部に異動?!」


 ケラアスは“観衆”に聴こえるかように繰り返した。

 驚きの声が漏れ、同情の視線は死者を見るそれに変わった。


「欠員が出たから僕が選ばれたんだと」


「……あの野郎! いったい何考えてんだ?!」


「やめろよ……主任に聞こえてしまうよ」


「かまやしないさ!」ケラアスは叫んだ。「アグラゼスなんて地獄だぜ? そんなとこに既婚者を──」そこまで言ってハッとした。「そういうことかよ……きたねぇやつだ」


「なんだよ……──」


「お前奥さんには何て言うんだよ」ケラアスはベラリオスを遮った。「ついてこいって言うのか?」


「言えるわけないだろ? ……セナには帝都に残ってもらおうと思う……」


「……だよな」ケラアスは呟いた。「クソが」


「何がだ……?」


「ベラリオス。あいつの節操の無さはタロディム帝並みだ。狙った獲物は逃さない男だ。そしてお前は親友の俺でさえ分からないくらい器量が良い奥さんと結婚できている。不思議なことにな」


「……最後の一言は余計だろう」そう言ったところでベラリオスは眉をひそめた。「ちょっと待ってくれ。つまり……お前は主任がセナを僕から引き離す為に僕をアグラゼスに送るつもりだって言いたいのか」


「御名答」


「はっ、馬鹿げてる」


 顔を背けるベラリオスと彼の視界に食らいつくケラアス。


「馬鹿げてないさ。お前が死んだら傷心に漬け込めるし、そうじゃなくても色々と手がある。夫を引き戻せるかもとか何とか言って徐々に近づくんだ。ゲームだよ、奴にとっては全てがゲームなのさ。哀れなサンバルドを見てみろ、彼は奴に奥さんを取られた。お前と似たような状況でな」


 遠くですすり泣く男の声。


「すまん、サンバルド! 無神経だった!」ケラアスは哀れな同僚に声を掛けると、ベラリオスの肩を掴んだ。「……いいか? ベラリオス。このままじゃ、命も奥さんも奪われるぞ? 昨年のパーティーで奴が奥さんに言い寄ったのを覚えているだろう?」


「覚えてるよ。セナが主任に肘鉄を食らわせた事も。あの時はセナが酔っていたと言い訳するのに必死だった──だけど、それからは何もない」


「グレビ・ウルフが恐れられているのが何故か知ってるか? 狙った獲物を決して逃さないからだ。奴は諦めたんじゃない。じわじわと獲物を追い込んでるんだ」


「……でも、セナはそんな人に靡いたりしないさ。僕がいなくたってね」ベラリオスは言った。「それにアリシャもヘッグもいるんだ。可愛い僕たちの子供がね。主任の思い通りにはならないさ」


「アリシャとヘッグは何歳?」


「七歳と五歳だ」


「なら、靡かせるのは簡単だ。子供の誕生日。“どうぞ、可愛い坊や高価なプレゼントだ” “ありがとう、おじさん! ママー、このおじさんがプレゼントくれたー” “パパは今年も手紙だけー?” ──お前がいない間に奴はどんどん近づいてくるぞ。子供たちの心にな。そして最後には子供からヤツを家に招くようになる。いくら高い城壁でも門を開けられたら陥落は間近だ。一年、二年、三年は大丈夫でも、それから先は分からんぞ。お前という存在は遠くなっていき、奴の存在は大きくなっていく。そしてある日ぱくり……それからはなし崩しさ」


 ベラリオスは何も言えなかった。サンバルドのすすり泣く声がまだ聞こえている。


「……それじゃ、僕はどうしろと?」ベラリオスはようやく口を開いた。「どうすりゃいいんだ」


「断われ」ケラアスは吐き捨てるように言った。「きっぱりとな」


「そんな事したらクビだ」


「いいじゃないか。もう長い事勤めてるし、退職金だって出る。お前のことだ、貯金だってそれなりにあるだろう?」


「……まぁ、少しは……だけど終末の日まで家族を養うには安定した職がいる。どこいったってここ以上に金をくれる所はない」


 本部の職員の殆どは、創業者に縁のある者で実力で成り上がったのは僅かだ。親族がほぼいないベラリオスは後者であった。不老のパラント達にとって親族の繋がりこそが最も大切であり、余程のことがない限り昇進は創業者一族の者が優先された。パラントの社会では何も持たない者が上に登り詰めるのは実力と同じかそれ以上の運が必要だった。


「だからってアグラゼス行きはお勧めしないぞ? 野蛮な奴らに皮を剥がれるのがオチだ」


 ベラリオスは返事の代わりにため息をついた。







 帝都の市場は今日も賑やかだった。


 香辛料の匂い、焼き立てのパンの香り、魚売りの威勢のいい呼び声。人々の笑い声が石畳の上で弾み、陽光は色とりどりの天幕を照らしている。


 ――今日は、ベラリオスの好きな煮込みにしよう。


 そう考えるだけで、自然と口元が緩んだ。

 朝、いつも通りに彼を送り出した。少し眠たそうな顔で、それでも必ず「行ってきます」と言い、軽く口づけをする。何年経っても変わらない、当たり前の儀式。そして子供たち。家族がセナにとっての“平穏”だった。

 前の彼女には想像もできなかったかけがえのない平和な日常であった……。


 セナは二人の頭を撫で、市場の一角にあるパン屋へ向かった。

 焼き色のついた小さな菓子パンを受け取り、子供たちは目を輝かせる。


「ありがとう、おじさん!」

「ありがとう!」


 ニコニコと笑うパン職人。


「どうもありがとう」


 セナは微笑み、金を職人に手渡す。


 出来たての菓子パンを頬張る子供。


 セナは穏やかな顔で通りを進んでいたが、ある時妙な気配を感じた。こんな感覚は久しぶりだ。


 何気なく周囲を見回す。


 人混み。荷車。笑う商人。忙しなく行き交う人々。


 ……気のせい、ね。


 そう思い、視線を戻したその時だった。


「リエナ」


 聞き慣れた、しかし忘れかけていた声。


 胸の奥が、わずかに冷えた。


 振り向くと、そこに立っていたのはフードを被った男だった。


「いや、セナか」


 セナの瞳が男を睨む。


「相変わらず警戒心が強い。流石は元ゲレルの野伏だ」彼は肩をすくめた。「今日は子供たちと買い物か?」


「ママ、この人だれ?」


 不安そうにヘッグがセナを見上げる。


「……アリシャ、ヘッグを連れて家に帰ってて、ママもすぐ行くわ」


「……わかった。ヘッグ、いこう」


 弟の手を引っ張るアリシャ。子供達が見えなくなると、セナは口を開く。


「生きてたのね」


「久しぶりの会話がそれか」


 セナは視線を逸らさなかった。


「冷たいな。昔は背中を預け合った仲だろう?」


 男はフードの奥で薄く笑った。


「私はもう“リエナ”じゃない。今はセナ。帝都で家庭を持つ、ただの主婦よ」


「知ってるさ。帳簿仕事の夫に、可愛い子供二人。ずいぶんと“丸く”なったもんだ」


 男は周囲を一瞥し、あくまで雑談でもするような口調を崩さない。


「お前は組織を抜けた気でいる。だがな、セナ。俺達はそんなに甘くない。抜けて、はいさよならとはいかないんだよ。お前もわかっているだろう?」


「……だから、あなたが来たの? リカルノ。私を殺す為に」


 男は口元を緩ませた。


「これは言うなれば最初で最後のチャンスだよ。生きるか死ぬかの。お前が今、戻ると言うなら手荒な真似はしない。だが、断るならそれ相応の対処をさせてもらう」


 セナは息を整えた。胸元に浮き出た鎖骨が微かに動く。


「もう居場所も家族も全て把握した。野伏が加入者の“痕跡”を全て消すのはわかっているだろう? 大人しく戻ってこい。そうすれば家族を消すような真似はしない」


 セナは男を睨みながら考えた。

 リカルノの言う通り、野伏の身辺整理は徹底していて無慈悲だ。新規加入者の友人や親族は永久に葬り去られ、加入者の名前は完全に作り変えられる。


 そんな組織が大人しく夫や子供に手を出さずに復帰を認める?

 とても考えづらい。しかし、居場所がバレた以上、選択肢は多くない。


 消える?

 帝都から? 夫と子供達を残して?

 そんな事できない。リカルノは家族を拷問してでも居場所を聞き出そうとする。そうなったら慈悲は期待できない。愛する家族を危険には晒せない。


 戦う?

 今ここでリカルノを?

 それも無理だ。リカルノを斬ったところで野伏の他のメンバーがやって来るだけ。それに勝てるとも限らない。もしも失敗して殺されるような事があれば、矛先は必ず家族にいく。目の前の男は吐き気を催すくらい残酷な男なのだ。


「どうする? リエナ」


「……少し考えさせて」

 セナは顔を上げ、そう言った。


「いいだろう」リカルノは平然と答える。「俺だって鬼じゃない。時間はやるさ。せいぜい天秤に測るんだな、お前の意志とお前の家族の命を」


 そう言うと、リカルノは霧のように消え去った。

 

 セナは胸元のペンダントを握りしめた。


 終末の日、自分は家族と一緒には行けない。

 犯した罪が重すぎるから。

 だけど、せめてそれまではと思っていたのに。





 





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