第7話 頭目
アンヘルは村の周囲を徘徊することを止められなかった。アンヘルは魔剣を帯びていたから、村には入らない。アンヘルはある娘をじっと凝視していた。彼女はチェニックに腰帯、ハーフパンツを纏っていて、革靴を履いていた。彼女には帰る家があり、結婚したばかりの夫がいた。
「別にいいんだ。」
とアンヘルは声を発した。でも本当は良くなかった。自分が竜を狩ったことを彼女に報告したかった。娘の家に行き、この新しい魔剣を披露するのだ。でも、そんなことはどう考えても馬鹿げていた。
「馬鹿げている。」
アンヘルは頭痛を抑えて呟いた。
村は、夏至の祭りに備えて準備をしていた。流れ者の花火師たちが若者たちを統率していた。若者たちは竹と麻縄で櫓を組んでいた。子供たちがその周囲を走り回っていた。家々の軒先には色布が掛けられていた。年寄りたちが火種用の炭を籠に移している。火薬を詰めた筒が慎重に並べられている。花火師は導火線を一本ずつ確かめては、指先で長さを測っていた。
鍋の並ぶ一角からは、煮込みの湯気が立ちのぼっていた。玉ねぎと香草の甘い匂い、焼かれる肉の脂の香り、蜂蜜を溶かした菓子。それらの香りが入り混じり、村全体を包み込んでいた。女たちが大きな木匙で鍋をかき混ぜ、男たちは樽を運び、すでに杯を
その熱が、森の縁に立つアンヘルの皮膚にもかすかに触れた。だが、夜気は冷たく、彼の足元だけが、取り残されたように暗かった。
アンヘルのいる森の縁まで、釘を打つ音と子供の笑い声が響いた。村は夏至を祝う準備をしていた。
アンヘルはなおも、村の縁を歩き続けていた。拓けた場所まで到達したその時に、アンヘルは若者の集団と視線を交えた。何か起こることを希望した。だけど若者たちはアンヘルの額に目を向けると、足早に去っていった。行商人がそれを見ていたが、アンヘルに声をかけてはくれなかった。
「別にいいんだ。」
アンヘルは声を発した。アンヘルは決断できなかった。勇気を奮い起して、生まれた村を捨て去る。そのようなことが出来なかった。何かしら非理知的な感情がそれを押し止めていた。自分は竜狩りだ。竜に殺される寸前で生き延びたのだ。それは勇気のある行為だ。間違いなく英雄であるはずだ。それでも、アンヘルは村に踏み込む勇気がなかった。胸を張って、自分の行為を一つ一つ誰かに説明することができなかった。胸を張って村の儀式や祭りに参加することが出来なかった。
アンヘルは村の人間に、明確に拒絶されることを恐れていた。
夜になると、ドラムが打ち鳴らされた。乾いた音が地面を震わせ、村の中心から波のように広がっていく。誰かが火を掲げ、櫓の根元に灯りが入った。炎は竹を舐め、赤い光が人々の顔を照らす。歓声が上がり、杯が打ち合わされる。
その瞬間、夜空に最初の光が咲いた。
鋭い破裂音が胸を打ち、闇の奥で白い花が開く。細かな火花が瞬き、遅れて赤と金の尾が弧を描いて降り注ぐ。煙が薄く棚引き、硝煙の匂いが空気に溶ける。子供たちが跳ね上がって叫び、女たちが手を叩き、男たちが笑った。
森の縁に立つアンヘルの頬にも、その光は届いた。
だが、熱はなかった。アンヘルは知っていた。ここに自分の居場所はない。
「立派な花火だ。」
アンヘルは思わずそう呟いた。アンヘルは火を熾し、竜人からもらったランタンに火を灯した。
アンヘルは竜人の里へ戻ることにした。竜人の里であれば寝室があり、食事がある。
ふと、アンヘルは足を止めた。森の匂いに獣の臭気が混じっている。虫の羽音が途切れ、遠くのフクロウの声が消えている。
なにかが来る。アンヘルは異変を感じ、ランタンを掲げた。
瞬間。前方の藪を割って竜が現れた。竜鱗が黒く鈍く光っていた。小型竜よりもずっと巨躯の竜だった。肩は人の背丈をはるかに越えていた。太い四肢が老樹の根のように地面を掴んでいる。胸郭は樽のように張っている。呼吸音だけで他の生物を圧倒する存在感を示している。尾が巨大な鞭のように揺れていた。眼は暗赤色に光り、獲物を測る冷たい知性を宿していた。
「こいつが小型竜の頭目か。」
アンヘルは呟いていた。
中型竜が首を夜空に向け、低く重い咆哮を上げた。
村から響くドラムの音が止んだ。
アンヘルはランタンをベルトにしっかりと固定し、前方へと踏み出した。
中型竜はうねるような独特の軌道を描いてアンヘルに突進を仕掛けてきた。アンヘルは思いきり剣を振るった。中型竜は牛のように頭を伏せた。中型竜は頭部の厚い皮膚と頭蓋骨を使ってアンヘルの斬撃を受け止めた。中型竜が尾をしならせて鞭のように振るい、その一撃をアンヘルは後転して避けた。アンヘルは体のバネを利用して跳ねあがって竜に剣を突き出し、中型竜は重心を傾けてその一撃を回避した。
尾の一撃を受け止めた巨木が軋みながら傾き、他の樹木に倒れ掛かった。
瞬間。烈しい頭痛と心臓の拍動が起こった。頭の痛みでアンヘルの膝ががくがくと揺れた。中型竜が接近していた。アンヘルはかろうじて足を動かし、地面を蹴り上げた。中型竜が容赦なく追撃を加えてくる。アンヘルは魔剣を無茶苦茶に振り回して距離をとった。
幻覚。悪魔的に歪んだ母の眼差し。
アンヘルは恐怖に絶叫した。瞬間、中型竜が直進して、跳ねた。アンヘルは地面を蹴り上げ右前方向に前転して回避した。中型竜はそれを読んだように、アンヘルに向けて尾を振るった。強靭な尾部が巨樹の幹を砕き、砕きながらアンヘルの肉体を打った。衝撃でアンヘルは地面を転がった。
中型竜が再度、飛び跳ねた。瞬間、アンヘルもまた全身をバネにして跳ねた。中型竜の剥き出した牙がアンヘルの頭上すれすれを通過し、アンヘルの持つ魔刃が中型竜の右後ろ趾を切断していた。
幻聴。正常よ、悪魔憑きだ、正常悪魔憑き正常悪魔憑き正常…。
アンヘルは口の端から泡を吹いて倒れ込んだ。中型竜があらぬ方向に咆撃を暴発させた。中型竜は全身を震わせて咆哮を上げた。
アンヘルは気力を奮い起して、中型竜との距離を詰めた。中型竜は不気味なほど静かだった。蛇のように身を縮め、尾を用いてアンヘルの肉体を払おうとした。瞬間、アンヘルは前方に飛び跳ねた。アンヘルは体当たりするように魔剣を振り、魔剣の刃が中型竜の鱗と肉を引き裂いた。切り返した魔剣が太い幹のような竜の頸部を裂いた。すさまじい血煙が上がった。
再びアンヘルは剣を振るった。全霊で振り下ろした剣は、竜鱗を裂き筋肉を切断し頸動脈を破壊し、竜の頸椎に触れた。さらに思いきり切り返した魔剣が竜の頸椎を切断した。確実な手ごたえがあった。竜の頸部からすさまじい血煙が噴き出した。
アンヘルは前方に跳躍して中型竜から距離をとった。中型竜は頚部から頭部をぶら下げて、まだ動いていた。周囲を足で踏み砕き、尾を何度も振るった。
そしてついに、中型竜の動きが一瞬、途切れた。瞬間、アンヘルは魔剣の刃で中型竜の胴体を貫いた。それから同じ動作で魔剣を胴体深くにねじり込んだ。竜の骨が砕ける感覚があった。
逆鱗を探さねばならない。アンヘルは竜の表皮をくまなく検索した。逆鱗の感触が無い。全身の筋肉と魔刃を使って竜の腹を開き、筋を切断する。骨を断ち、内臓を露出させる。逆鱗はそこにあった。伸縮する心臓に突き刺さるように逆鱗が存在していた。心臓ごと逆鱗を切断する。
瞬間、闇に静寂が戻った。
アンヘルは振り返り、村の方向を見た。女性たちがいた。男性たちがいた。老人たちがいて、子供たちがいた。誰かが声を上げると信じた。拍手でも、罵声でもよかった。だが、人々は動かなかった。母は子を抱き寄せ、老人は視線を落とし、若者たちは一歩、血まみれのアンヘルから距離を取った。
彼らの持つ松明が弾ける音を響かせる。
アンヘルは何も言わなかった。左手に竜の心臓を持ち、魔剣を振って付着した血と肉を払った。祭りの灯りを背に、彼は森へ戻っていった。引き留める者は誰もいなかった。
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