第9話 僕の欲しかったもの

 やはりおまじないは成功した。真白さんは帰ってきた。僕のモノとして。


 機械的に命令に従って僕の方に顔を向けるだけだったとしても、それでも良かった。僕のためにそばにいてくれるのが嬉しかった。彼女にそれ以上は望んでいなかった。


 大粒の雨の隙間から、囁き声が聞こえる。悲鳴にも似たそれは、いつしか耳鳴りとなり後頭部を激しく叩き出した。


 きっと15分を過ぎたのだろう。お母さんが僕を呼んでいる。僕が必要だと呼んでいる。


「違う、僕はお母さんの物じゃない」


 雨音に紛れ、僕にだけ聞こえるように呟いた。


 お母さんの瞳にはいつだってただの首振り人形、父親の視線は僕をすり抜けて。真白さんの目には自身を動かすリモコンが映ってる。おまじないをしたって何も変わりはしなかった。


 誰の目にも朝凪悠飛は映っていない。でも僕は朝凪悠飛じゃない。


 だったら僕は、あの日真白さんに、誰を見て欲しかったのだろう――。




 耳鳴りが強くなる。コンクリートが目前に迫っていた。濡れた地面から、ぐちゃぐちゃの顔が今にも泣き出しそうに僕を見ていた。


 早く帰れ、帰らなきゃ。お母さんのところへ。


 爪先が自然と家の方に向けられる。僕はその場に座り込んだ。


 こんな足。この足がなければ僕は。


 すぐに立ちあがろうとする足を小さな石で殴りつける。僅かに切り傷ができて、溢れた血はすぐに雨に溶けて消えていく。限りなく薄くなった赤色が僕の足を伝った。


 思い切り殴りつけたのに、たったこれだけの傷。使えない小石を思い切り地面に叩きつける。飛び跳ねた水が目に入った。


「最っ悪」


 心臓が激しく僕の体を揺らした。全身の脈が家に向かって流れ出す。じめじめとした空気が全身を覆っているのに、寒くて仕方がない。重力に身を任せて、コンクリートに頭を打ちつけた。頭皮が切れて、雨水が染みる。


 真白さんは、どれくらい痛かっただろうか。中原は、どれくらい苦しんだんだろうか。朝凪悠飛は、どんなふうに殺されたのだろうか。


 目を閉じる。今頃ヒステリックに叫んでいるお母さんも、公園に置いてきた真白さんも僕も、もう何もかもがどうでも良かった。


「こんなところで何してるの?」


 鼓動の合間に小さな声が聞こえる。頭を持ち上げる気力もなく、目を閉じたまま小さな声で「何も」と答えた。


「怪我してるし……風邪ひいちゃうよ」


 全身を打つ雨が止まった。声が近くなる。


「ほら、昨日言ってた最上海星の本を持ってきたんだ。一緒に読もうよ」


 新作も買ったんだ。と声が続く。


「真白さんは公園にいる。さっさと行ってあげれば」

「朝凪くんも一緒に行こうよ」

「僕は行かない。行きたくない」


 コンクリートに頭を擦り付けて、首を振る。僕を責め立てるように、雨が傘を叩き続ける。罰してあげるから、早く開けてと言わんばかりに。


「ほっといてくれよ。どうでもいいだろ、僕がどこで何をしていようが」

「でも……」


 大きなノック音が続く。中原が息を吐くのが聞こえた。それすら聞きたくなくて、雨音に耳を澄ませる。少し水が跳ねたと思えば、右肩がゆっくり持ち上がった。コンクリートが徐々に離れていく。


 見上げると、中原が僕の腕を掴んで持ち上げていた。


「人ってこんなに重いんだ。知らなかったな」


 そんなことを言いながら、腕を引っ張る。


「苗木さんと喧嘩でもしたの?」

「してない。殺した」


 中原は「えっ」と驚いたような声を出して固まった。


「お前も殺した。生き埋めにして」


 彼の視線が揺らぐ。僕を掴む手から少しずつ力が抜けていった。殺された時のことや、直前の出来事を覚えていないのだろうか。


 それはない。真白さんは僕に殺されたと覚えていたのだから。埋める時、意識がなくて誰が埋めたかまでは見ていなかったのだろう。


「……ごめん」


 中原の瞳に僕が反射する。瞳の中の僕が、砂と雨と泥で汚れた顔を歪めて俯いた。


「あ、謝って許されることじゃないけど……ごめんなさい」


 謝って許されると思うなよ。自分が何をしたのか分かってるのか。


 言葉と共に、涙が溢れる。自分の体が自分のものではないような。誰のものかも分からない感情を機械的に吐き出していく。


「ごめんなさい」


 中原の、僕を掴む手に力が籠る。


「いいよ、別に。そもそも僕怒ってないし」


 腕を引かれるまま、僕は体を起こした。中原はしゃがんで僕の目を見る。


「謝りたいのなら、苗木さんにも一緒に謝りに行こう」


 彼女だって怒ってないよ。彼はそう言って笑った。


 曇天。光なんて差し込まない大雨の中、世界が眩しくて僕は瞬きを繰り返す。後ろの世界があまりにも鮮やかで眩しいから、中原の顔がうまく見れない。


 僕は誰で、誰に誰を見て欲しかったのか。何一つ分からない。自己満足だと分かっていた。許されるなんて思っていないはずだった。


 ただ、中原の瞳の中の僕があまりにも間抜けな顔をしているから。


「行かなきゃ……」

「うん」


 立ち上がった途端、爪先が自宅を示す。僕を引っ張る鼓動に背を向けて、走り出した。後ろから「あれ、一緒に行くんじゃないの?」と気の抜けた声が聞こえたが、聞こえないふりをして走る。


 全身を這いずるようなモヤモヤと焦燥感。自分の体が腐敗していくような気がした。それなのに世界があまりに明るいから。吐き気はいつの間にか消えていた。




 公園を通り過ぎ、田んぼ道を走る。ちらりと真白さんの傘が見えた気がした。服の重さと頭痛が僕を反対側に引っ張っている。その度に目を瞑ってひたすら走った。息が切れても。ただ、あの山だけを見つめて。


 見知った女がしゃがみ込んで泣いていた。父親と思しき男が放心したように歩いていた。母親が僕を呼び続けている。


 どうでも良かった。何もかも。僕が誰であるかなんて、どうでも良かった。


 ただ、今にも喉からこぼれてしまいそうなこの気持ちを吐き出したくて。僕の中から朝凪悠飛を吐き出して。ようやく本当の僕になれると思った。


 誰かの瞳に映った。たったそれだけのことで世界がこんなにも明るい。

 真っ黒な雲の隙間から太陽が覗く。世界が僕を肯定している。


 コンクリートで足が滑る。疲れ切った体が地面に倒れた。


 行こう、あの山へ。やり直そう。全てを。




 ――目の前に太陽が迫って、僕は目を細めた。

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