100万円足りないから、とりあえず部長のネクタイを「二度と解けない結び目」にしておいた
右足だけスキップ
第1話 耳たぶの裏の100万円
40歳。人生の折り返し地点と言われるが、そもそも人生に「往路」と「復路」があるなんて誰が決めたんだろう。
僕は今、取締役のヘラヘラした顔を見ながら、彼の左の耳たぶの裏にある、小さなシミの数を数えている。
「いや、契約書にサインしたんやろ。な?」
取締役が笑う。
提示された年収は、想定より100万円少なかった。
100万円。
100円玉が1万枚。
1万枚の100円玉を積み上げたら、たぶんスカイツリーの横でちょうど同じ高さで止まるはずだ。知らんけど。
「続けるか、辞めるか。今、ここで答えだせ」
部長が横から、湿度500%の声を出した。
この人は、たぶん前世で「湿った段ボール」だったんだろう。
僕は、机の上の契約書をじっと見つめる。
サインを求められている場所が、だんだん「サインをしてはいけない穴」に見えてくる。
「……100万、足りないですね」
僕が言うと、取締役はまたヘラヘラした。その笑い方は、空気が抜ける風船の音に似ている。
「100万くらいええやん。気持ちの問題よ」
気持ち。
なるほど。
じゃあ、僕のこの「100万円分の怒り」を、今からこの部屋の角に100個の「見えないナス」として置いて帰ってもいいということだろうか。
「わかりました。辞めます」
僕は立ち上がった。
ただし、普通に立ち上がるのは面白くないので、膝の関節を「カクン」と一回鳴らしてから、右足だけでスキップしてドアに向かった。
契約書にサインはしなかったが、代わりに部長のネクタイの結び目を、僕の独自の技法で「絶対に解けない形」にしておいた。
「おい、待て! 答えろよ!」
後ろで湿った段ボールが叫んでいる。
僕は振り返らずに、心の中で101個目のナスを置いた。
40歳。無職。
とりあえず、ハローワークに行く前に、近所の公園で砂場の砂を全部左側に寄せる作業から始めようと思う。
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