晩白柚

天萌 愛猫

きいろい手。やさしい手。

 わたしには食べてみたい果物がある。

 冬ごろに道の駅でよく見かける、きいろくってデッカいみかん。

 でもおかあさんはいつも、少し離れたところにあるネット入りの不揃いみかんを買う。

 ダダをこねても聴いてくれるようなひとじゃないから、通りすがる間際にそっとため息をついて終わっていた。

       ◇

 十歳のお誕生日。

 近くにあるお出かけスポットはそこくらいなので、いつものように道の駅に行く。

 また、あの大きなみかんを見かける。

 ふと名案が浮かんだ。

 どうして今まで思いつかなかったのだろう?

 天才的すぎて、頭のなかで電球が光ったみたいだった。

「おかあさん。今年のお誕生日プレゼント、これがいい」

 大きくてりっぱな、予算内のものを指差して言った。

 何日か前におねがいして渋られていた3DSのソフトより、ずっと安い。

「あら。……そんなものでいいの?」

 おかあさんが目を丸くした。

「苦いし、中身は少ないしあんまりおいしくないよ?」

「え、そうなの?」

「そうよ」

 まあゲームソフトよりは安いけれど、それで済ませるのもちょっと複雑だわ。

 少し考え込み、あの化粧箱に入ったいちごのほうがいいんじゃない、と微笑む。

「いちご!」

「ふだんは絶対に買わないから、今日だけ特別。ね、どう?」

「いちごかぁ……」

 迷ったけれどそっちにすることにした。

 レジを出て帰り際、もういちど大きなみかんのほうを見る。

 小柄なおばあちゃんがひとり、見比べるように両手に持ってそれをながめていた。

 紺色のはんてんはかわいい柄をしていたけれど、丸まった背でほとんどくしゃくしゃになっている。

       ◇

 いちごは信じられないくらい甘くて、とってもおいしかった。

「シェフを呼べって言いたいよ」

 じょうだんを言ったらおかあさんに笑われた。

「それはお料理を作ったひとに言うのよ。フルーツは農家さんが作ってるんだから、農家さんを呼んでください、がいいと思うわ」

「たしかにそうかも」

「パックに生産者のお名前が書いてあるわよ」

 言われて初めて気づいた。

「ほんとだ」

「搬入口とかでたまにそれっぽいひとも見かけるわ。でも知らないひとだから、話しかけるのはやめときましょうね」

「はーい」

 フォークを突き刺したいちごに練乳をかけながらうなずく。

 あかくてまるくて、すっごくつやつや。

 あと半分も残っている。

       ◇

 休日に道の駅に行くと、いつのまにかあのおばあちゃんをさがしているのに気づいた。

 はんてんがかわいいおばあちゃん。

 だいたいいつもいるからってのもある。

 でも気になる理由はそれだけじゃないと思う。

 なんでだろう?

 最近はけほけほ咳をしていることが多いからかもしれない。

 今日も大きなみかん売り場の横を通る。

 またいる。

 みかんを二つ手に取って、じっと見比べている。

 おかあさんがトイレに行ったすきに、勇気を出して話しかけてみた。

「それ、おいしいんですか」

 こちらを向いた顔はしわくちゃで、やっぱりおばあちゃんだなあ、とヘンな感想があたまにうかぶ。

「そだねえ。おいしいと思うんだけどね」

 みかんをそっと、ていねいな手つきで元の場所に戻す。

 他のひとやわたしたちよりも、ずっとずっとやさしい置き方だった。

 きいろくなった手の先が、そっとかたい皮をなでる。

「我が子みたいなもんだからね。ときどきこうして、様子を見に来てるんだ」

 きれいに包まれた袋を見る。

 柚見ゆうみチヅ子、と書いてあった。

「あっ。同じ字だ」

 上に書いてある、果物の名前の最後と。

 ふふ、とおばあちゃんが少し笑った。

「よく気づいたね」

 おかあさんが向こうから歩いてくるのが見えたので、会釈してみかんを見ているフリをする。

 話したのがバレたらきっとおこられる。

「またそれ見てるの?」

 ハンカチで手を拭きながら、あきれた顔でわたしに言う。

「ふだんから買えるようなお値段じゃないしね。それに、けっこう苦いし子供にはあんまりおいしくないと思うけど……」

「……そうなのかなあ?」

「みかん買って帰りましょ。こっちのほうがいっぱい食べられるよ」

 おそるおそる隣を見る。

 おばあちゃんはもうそこからいなくなっていた。

 ちょっと離れたおそうざいコーナーで、おべんとうをじっと見つめている。

 遠くにいるからか、丸まった背中が、いつもよりもちいさく見えた。

       ◇

 自転車に乗れるようになって、小学校を卒業して。

 それでも遊び場がここくらいしかないあたり、ほとほとここは田舎だと思う。

 最近はもっぱら自分一人で、野菜や惣菜の買い出しに来ることが多かった。

 お母さんも転職してから夜が遅くなったし、できることはやったほうがよいだろう。

 果物売り場に入るが、あまりひとがいない。

 不景気だし、ぜいたく品を好んで買うひと自体今は少ないのだろう。

 そしてあのおばあちゃんも、ここ一、二年のあいだ見かけていなかった。

(……もう自分のなかで、恒例みたいになってたのにな。もうずいぶんお年だろうし、具合悪いのかな)

 生産者のところに書いてある名前もいつのまにか変わっていた。

 柚見次朗。

(名字は同じだもんな。かぞくのひとかな)

 近くにいたおんなじくらいの年代のおばあちゃんたちの会話が、なんとはなしに耳に入ってくる。

「あら。息子さんが継いだんね、バンペイユ」

「チヅ子さんの、おいしかったけんねえ。いまどきは跡継ぎ問題もあるし、いるだけでもありがたいよね」

「まだ若かったのにねえ……元気そうでも急にああなるから、わたしらも気をつけんばよ」

 知っている名前が聞こえて顔を上げる。

 おばあちゃんが片方、ぎょっとしたようにこちらを向いた。

「あのおばあちゃん、どうかしたんですか」

「え?」

 チヅ子さんのこと?

 あんた知り合い、と横を向きたずねる。

「いや、知らん」

「わしもしらんね」

「ここで、一回話したことがあるんです。その、えっと。これおいしそうだなって見てたら、チヅ子さんが育ててるって教えてくれて」

 しばらく顔を見合わせ、そうだったんね、と声のトーンを落とす。

「ちょっと前から気管支とかが悪かったらしくてね。このあいだ、亡くなったんよ」

 息子さんが継いでくれたから、まだ市場にならんどるけどね。

 熱心なひとやったからねえ。

 性格もよかったのに、なんであんなひとが早死にせなあかんのかね。

 いやあもうわからんよ、ほんとうに――。

 ゆるやかに世間話にもどっていく二人にお礼を言い、少し迷っていちばん大きなものを手に取った。

 最新刊はまた来月になりそうだ。

       ◇

「あんたそれ、どうしたの?」

 剥かれた分厚い皮を見て、帰ってきた母がびっくりしたように声を上げた。

「道の駅で見かけたから」

「おこづかい、あったの?」

「本はガマンする。また来月」

 心配そうな顔でなにか口にしかけて、ゆるゆるとかぶりを振る。

 しおっからい味が口に流れ込んでくる。

 ああもう、わたしのばか、こんなときに。

 せっかくはじめて食べるのに、……味がわかんなくなっちゃう。

「わかったわ。好きなだけ食べなさい、おかあさんのぶんは余ったらでいいから」

 先にお風呂入っとくわね、と言い残してドアを閉める。

 鼻が詰まる前にティッシュで洟をかみ、またひとつ実を手に取る。

 さくさくしていて、けっこう苦くって。

 ほんの少しの甘みが際立っていて。

 今まで食べたフルーツのなかで、いちばんおいしかった。

 いちおうちょっとだけ皿に分けてラップをし、冷蔵庫にわかるように置いておく。

 果汁やらなんやらでべちょべちょになったテーブルを、布巾でゆっくり、ゆっくり拭い取った。

       ◇

 わたしには好きな果物がある。

 読めなかった漢字も今ではさっと書けるし、その名前に込められた元来の意味までをも、きちんと自分で調べて知っている。

 ときどき食べるようになった晩白柚は、いつも変わらないおいしさとして生活のそばにある。

 紺色のはんてん。

 丸まったちいさな背。

 そして、きいろいしわくちゃの手。

 彼女がそうしていたようにそっと撫でてから、ゆっくりと今日も自転車をこぐ。

 荷台に載せた大きな丸は、冬の弱い陽光でも確かにつやつやとかがやいている。

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