薔薇のあか

ヨリ

第1話

 あかい空が好きだった。夢中で空を見つめていた。あれは光の屈折だと言われるが、そんなことはどうでもよかった。時々しか見せないその表情が良かった。写真はダメだ。その時を切り取ってしまう。見ることそれだけが良かった。


「お疲れ様でした」


 残業をせずに出ることができた日だけ、あなたに会えた。お疲れ様と私にだけ見せるその表情に見惚れていた。


 残業はダメだ。静かな光しか残っていない。心を弾けさせるような熱がない。星が綺麗だと言うが、どうも人工の光がそれを消してしまう。だから、夜はダメだ。


 写真を嫌うようになったのはいつなのだろうか。正直、覚えていないが高校生ではもう嫌いだった。どうせ、恥ずかしいとかそういう小指で払える程度の理由だろうが、少なくとも嫌いだった。


「先輩ご飯奢ってください」


 図々しい新入社員。愛嬌こそあるが、格段感情の動かない人だった。相談でもあるのかと飯に行けばただ愚痴だけが続いた。人の金でよくこれだけ愚痴を浴びせられるものだと感嘆さえした。


「先輩、聞いてますか?」

「あぁ、聞いてる。俺もそう思う」


 何をどう思うのか。そんな事を詰めるのは野暮でしかない。ただ、そう思うんだ。それでいい。


「本当にわかってます?」

「なんだ、解決策でも言えばいいか?」

「いや、、、そういう事じゃないですけど」


 女は難しい。この年齢になるまで、恋愛とは縁がなかったし、したいとも思えなかった。ただ、美術館に行くだの、映画を観るだのそういう1人で静かに過ごせる空間が好きだった。そこに、恋愛を入れる理由もないし、ただ捻くれていた。


 だから、難しい。同意をしておけ。それは、映画だったか小説だったか何かで見かけた。この会話に正解というものはないだろう。すっきりとしたらそれが唯一の正解だろう。


 箸の先でうずら卵を転がしながら、ただ相槌をうつ。少し出汁の効いた甘い味付けが脈絡もない話の当てに最適だった。


「先輩飲まないんですか?」

「あぁ、明日に響くからな」

「真面目ですね」

「お金をもらう以上はな」


 大学生のときは、やれ打ち上げだ、やれ親睦会だと、口実を見つけていた。


「先輩、明日も飲みに行きませんか」

「いやだー」


 不服そうに俺の前で膨れているが、何で好きでもない女に連日付き合わないといけないのか。


「ケチ」

「はいはい。俺はケチですよ」


 適当に返しても、気がつけば機嫌が良くなっているのだから不思議な生き物だ。


「じゃあもう帰るか」


 財布係の俺は、伝票をひったくって会計に向かう。さっさと会計を済ませ、レジスターの横に置いてある飴を口に投げ込む。


 外はすっかり暗く、この後輩のおかげであなたはもう表情を暗く変えていた。街灯の光がそれすらも奪っていこうと点滅する。


「ごちそうさまでした!」

「じゃあまた、明日な」


 後輩に別れを告げ、帰路につく。ゆっくりあなたを見あげながら、革靴を踏ん張る。


 この空は憂鬱だ。明日がもう見える。人の光しかない。この色の世界では、一人を噛み締めることは叶わない。


『久しぶり。元気か』


 旧友からテキストが送られてくる。そう言えば、こいつとも久しく飯にも行ってない。夜道をただスマホの光が照らす。


『元気だぞ。そっちこそどうなんだよ』


 特に何も言わなくてもこれで通じる。好ましい関係と言ってもいいだろう。


『それがな、結婚したんだよ』

 

 前言撤回せざるを得ない。共に独身を誓ったはずだったが、突然斬りつけられた。人はこうだ。約束は時に雰囲気でしかない。場所で変化をする。そこを切り取ることで裏切られる。


『また、招待状を送るよ』

『ありがとう。お幸せにな』


 結婚式は、欠席でもいいだろう。祝儀の相場は知らんが、ネットで調べれば出てくるだろう。どうも人との関係を構築する気になれない。


 玄関を開けて電気をつける。真っ暗な部屋に人の痕跡が灯る。さっさとシャワーを浴びて、寝床につく。考えてもいいことはない。ただ、独りを感じるだけ。


 朝日は、憂鬱だ。惰眠から俺を叩き起こす。窓から覗くあなたは、早くしろと俺の手を引っ張る。


「先輩、なんか、大丈夫ですか?」


 出勤早々後輩に心配される。そんなにやつれているだろうか。


「あぁ、大丈夫だ。どうした」

「いやいや、顔色が悪いので」


 こいつはどこまで敏感なのだろうか。驚きのほうが、勝つ。


「飲みに行こう」


「え?」


 なぜか時が止まった。キョトンとする後輩の顔を静かに眺める。


「いきましょう!」


 5拍くらいして後輩がやっと息を吸う。何も不思議なことはない。ただ、俺が飲みたいだけ。


 仕事が終わって、居酒屋へと向かう。今日は空の色を覚えていない。


「先輩、どうしたんですか」

「とうとう、最後の1人だよ」

「へ?」


 昨日の夜、連絡があった友人は最後の砦だった。仲が良い男友達は、4人いた。その全員が既婚者になった。


「友達が全員結婚しちまった」

「そう、ですか」


 何とも生ぬるい空気が淀む。年下の女性をつかまえて言うことでもなかったか。


「来年まで待っててください」


 後輩の視線が俺を真っ直ぐに刺す。覚悟なのか。慰めなのか分からないが、少なくとも悪い気はしない。


「ありがとうな」


 そのまま生ぬるい空気は、終始2人の間を漂っていた。


「今日は奢りますね」


 おもむろに後輩が立ち上がる。


「いいのか?」

「もちろん。お姉さんですから」


 本当に生意気なことを言うようになった。いつの間にこんなに親しくなったのだろうか。今日もただ街灯だけが空に輝いていた。


 後輩とは毎週水曜日に飲みに行くようになった。金曜日は、混んでるから水曜日に行く。残り2日の活力を補充しに行く。あなたのあかを見かけなくなった気がする。


 特に特別な関係もないただの飲み仲間。それが後輩だった。俺の愚痴も聞いてもらうようになった。バカ話をしていても、どこかで安らぎを覚え、そこにあなたを感じた。


 時が流れた。ただ、時が流れた。


「先輩、私、転勤ですって」

「らしいな。内示をみたよ」


 どうせもう約束も覚えてないだろう。俺だけが大切に切り取って見つめていたその約束。


 その日は飲みに行った。月曜日だというのに。

 来月にはまた、友が離れる。だからだろうか。どこか心に穴があいたようにさえ思える。


「それでは、さようなら」

「あぁ、元気でな」


 転勤前、せっかくだから、駅まで見送った。さようならと貴方に告げた。


 一人ではなく、独りの時間が流れた。仕事もそれなりに順調だった。何となく魚を飼った。青だか赤だかの鮮やかな色が水槽を漂った。空の色を見たのはいつが最後だろうか。あなたのことも忘れつつあった。


 後輩の名前を見たのは、あの日から五年後の今日だった。どうやらここに帰ってくるらしい。美花、それが後輩の名前だった。ぼんやりと思い出す。


「先輩お久しぶりです」

「あぁ、久しぶり。元気だったか」

「はい! 今日は、先輩のお金で歓迎会ですね!」

「もちろんだ」


 どことなく、期待に胸が膨らむ。所詮切り取っただけの約束。それなのに心がざわめく。案の定、浮ついた話はないままに歓迎会は終わった。5年の間の仕事、元カレの話、懐かしい愚痴がマシンガンのように吐き出される。まだ、独身なのだろうかと心が冷える。元カレがいるということは、俺との約束は消えたのだろうか。先を越されることが嫌なのだろうか。約束を大切にしたいのだろうか。


 花を買ってみようかと悩んだ。くたびれたスーツの襟を引き寄せつつ、花屋を眺める。ガラスの向こうには、色が撒き散らされている。計算されたように、視界が楽しく点滅する。


「後輩のために」


 店員はどんな反応をするだろうか。いい歳をして。どうしてもそれを言うことができない。ガラスの扉が重かった。何が緊張させるのか。無駄なプライドか。中から扉が開けられる。


「どうぞ」

「あぁ、どうも」

「どなたに?」

「妻の誕生日に」


 間違えた。意図した間違え。黒いあなたが赤く笑った気がした。


「……見るだけで」


 慌てて言葉が追いかける。


 予想通りの日々が、そのまま流れる。10年という時が流れた。あなたの色はあかが良いと思っていた。でも、この温かい黒の方が好きになった。あかの中に貴方を見つけられないのだから。黒だけは、貴方との出会いを祝福した。


 あなたの写真が嫌いだった。儚さを切り取るから。貴方の写真は、持っていなかった。場面が後悔を呼ぶから。


「おはよう」


 独りは、一人に戻っていた。あなたの光が、窓から差し込む。あなたが、今日という日を教える。ただあなたを眺める時間が好きだ。名残惜しくもリビングに向かう。


「おはよう、美花」


 あの日の約束を貴方は、切り取っていなかった。あの日は、5年の時間をかけて夜を迎えた。6年目に明日が訪れた。


 食卓の上には、あの日逃げたはずの薔薇のあかが輝いていた。

 そこにいるべき色だった。

 結婚記念日なのだから。


 貴方が俺の朝を迎える。あなたの色を今でも覚えている。少し遅くなった。街灯が忘れるなと俺の心に点滅する。帰ろう、黒いあなたに挨拶を。

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薔薇のあか ヨリ @yori-2024

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