未踏惑星アーカイブ
未知ログ
第1話
『境目のない青』
「見ろ、ヴァンス。……涙が出そうなほど青いぞ」
隊長のガレゴが、強化ガラスに額を押し付けるようにして呻いた。
確かに、そこにあるのは奇跡だった。
恒星間調査船『レッド・ミュール』の前方に浮かぶ惑星は、深遠なアズールブルーに包まれていた。赤錆と砂嵐にまみれた我々火星(マーズ)の民にとって、それは宝石以上の価値がある。「水」そのものだ。
「スペクトル解析完了。地表の90%がH2Oで覆われています」
船載AIが、感情のない平坦な声で告げる。
「聞いたか! 全球、ほぼ海だ!」
ガレゴが私の肩を叩く。その力は痛いほどだった。
「これで火星は助かる。ドームの給水制限も、乾いたプランテーションも、全部解決だ。俺たちは英雄になって帰るんだぞ」
私はコンソール上の数値を冷めた目で追った。
重力1.6G。大気圧、測定不能(オーバーレンジ)。
「隊長、浮かれるのは早いです。こいつは典型的なスーパーアースだ。重力がデカすぎて、一度降りたら二度と上がれないかもしれない」
「怖気づいたか、エンジニア? 我々の船は、あの岩だらけの火星渓谷(マリネリス)で鍛え上げられたタフなラバ(ミュール)だ。重力ごときに負けやしない」
ガレゴは聞く耳を持たない。彼の実家は第4ドームの農業区画だと言っていた。先週の通信で、作物が全滅したと聞いたばかりだ。焦るのも無理はない。
だが、私の背筋には、冷たい針のような予感が走っていた。
モニターの端で、通信ノイズのインジケータが赤く点滅している。太陽系方面からの通信波だ。最近、太陽の活動が妙にうるさい。故郷からの悲鳴のようで、気分が悪かった。
「降下シーケンス開始。突入角、修正」
船体が身震いし、大気圏へと滑り込む。
窓の外をプラズマの炎が舐める。ここまでは想定通りだ。
だが、雲を抜けた瞬間、違和感が現実となった。
「……おい、いつになったら海が見える?」
ガレゴが操縦桿を握りしめたまま呟く。
高度計は『降下中』を示している。だが、視界は真っ青なままだ。空の青ではない。もっと濃密で、ねっとりとした青い霧のようなものが、窓の外を高速で流れていく。
「高度、不明。レーダー反射、ありません」
AIの報告に、ガレゴが怒鳴る。
「故障か! 火星のジャンク屋に騙されたな!」
「違います、隊長。センサーは正常だ」
私は震える指で外部気圧計を弾いた。数値はすでに300気圧を超え、まだ上昇している。
「反射がないんじゃない。反射する『面』がないんだ」
「何を言っている?」
「思い出してください。高圧釜の中で水はどうなるか」
船体のフレームが、深海に潜る潜水艦のような不気味な軋みを上げ始めた。
「ここは『超臨界流体』の世界です。厚すぎる大気の重みで気体が圧縮され、液体との境界を失っている。空がそのまま海になり、海が空のように舞っているんだ!」
着水(スプラッシュダウン)など存在しない。
我々は、終わりのない濃密なスープの中へ、永遠に沈んでいくだけだ。
「警告。外殻圧力、500気圧。船体構造、危険域」
AIが淡々と死刑宣告を読み上げる。
「上昇だ! スラスター全開!」
ガレゴがスロットルを叩き込む。エンジンが咆哮し、船体がガタガタと振動する。
だが、加速度計(Gメーター)はピクリとも動かない。
「駄目だ! 流体密度が高すぎる! 泥の中で全力疾走しているようなもんだ、抵抗で推力が殺されている!」
ミシッ、と頭上の配管が弾けた。白い蒸気が噴き出し、警報音がコクピットを赤く染める。
「クソッ、クソッ! 水は目の前にあるのに! 手ですくえば届く場所にあるのに!」
ガレゴがダッシュボードを拳で殴りつける。その目には、火星の赤い荒野と、干からびていく家族の姿が焼き付いているようだった。
だが、物理法則は慈悲を持たない。
「警告。外殻圧力、900気圧。右舷フレーム破断まで、あと60秒」
「ヴァンス! 何か手はないのか! 俺はこの水を持ち帰らなきゃならないんだ!」
隊長の絶叫に、私は覚悟を決めた。
手はある。ただし、禁止された禁じ手が。
「ワープを使います」
「は? 大気圏内でか? 重力井戸の底で空間を歪めたら、船ごとミンチになるぞ!」
「このまま潰れるよりマシだ! マイクロ秒単位のショートジャンプで、重力圏の皮一枚外側へ飛ぶ。座標計算は私が手動でやる」
私はコンソールに覆いかぶさり、計算式を叩き込んだ。
船外のマイクが、船体が圧壊する音を拾い始める。ギギギ、バキッ。巨大な万力で締め上げられる音。
「座標セット! ドライブ充填率120%!」
「警告。重力干渉により、船体崩壊の確率88%」
「黙れポンコツ! ……隊長、歯を食いしばれ!」
私は起動レバーを押し込んだ。
世界が裏返った。
内臓が口から飛び出すような吐き気。視界がノイズで埋め尽くされ、空間そのものが悲鳴を上げるような高周波が脳を揺さぶる。
船体がねじれる感覚。右腕の骨がきしむ音を聞いた気がした。
そして、唐突な静寂。
「…………」
耳鳴りが酷い。
私は薄目を開けた。
目の前には、無数の星々。そして眼下には、あの恐ろしいほど美しい「青い惑星」が静かに浮かんでいた。
「……生きてるか、ヴァンス」
隣でガレゴが咳き込んだ。額から血を流しているが、致命傷ではないようだ。
「なんとか……。船の状態は?」
「メインエンジン、全損。ワープドライブ、溶解。船体強度、低下率70%。……帰りの燃料がギリギリだ」
ガレゴは力なく笑い、シートに深く沈み込んだ。
「手ぶらか。火星のみんなに、なんて言えばいい」
私は通信パネルを確認した。
太陽系からの定期通信が入っている。酷いノイズ交じりだ。太陽のスペクトル異常による干渉波。
暗号化されたデータには、火星本局からの短いメッセージが含まれていた。
『帰還を急げ。フェーズが進んだ』
私はその意味を深く考えないようにして、モニターを切り替えた。
窓の外の青い惑星は、悪魔のように美しかった。
水はある。無限にある。だが、人間が触れることは決して許されない。
まるで、宇宙そのものが我々を拒絶しているようだ。
「……『次はもっとマシな星を探す』。そう言うしかないでしょう」
私は震える手で、備蓄していた飲料水のパックを開けた。
生ぬるく、鉄の味がする合成水。
だが今の我々には、あの美しい地獄のスープより、この不味い水の方が遥かに価値があった。
「全システム、帰還モードへ。……行こう、隊長。俺たちの乾いた故郷へ」
『レッド・ミュール』は傷だらけの船体を反転させ、ノイズに満ちた太陽系へと舵を切った。
[次号予告]
File.02 『永遠の黄昏』
月面企業シンジケートの調査船が挑むのは、夜と昼が固定された極寒と灼熱の世界。
太陽の異常を知るAIが下した非情な決断とは?
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