神様の誤植

perchin

第1話 伊藤志穂の反逆」

 スマホのアラームが鳴る2分前。彼女はパチリと目を開けた。

 昔からそうなのだ。起きようと思った時間に、正確に目が覚める。

 便利な特技だと言われることもあるが、彼女にとっては呪いのようなものだ。無意識のレベルまで、身体が「社会の歯車」として最適化されている証拠だから。

 アラームを止める。それは起床の合図ではなく、ただの確認作業だ。

 伊藤志穂(いとう しほ)。それが彼女の名前。

 都内の中堅商社に勤める、26歳、独身。

 彼氏はいない。趣味もない。特筆すべき才能もない。

 いわゆる「ごく普通のOL」というやつだ。

 眠い目をこすりながら洗面所へ向かい、冷たい水で顔を洗う。

 鏡に映るのは、少し隈のある、パッとしない顔。

 トーストを焼き、サラダを添えて機械的に胃に流し込む。

 化粧水、下地、ファンデーション。手順通りに顔を作り、誰からも文句を言われない「社会人女性」の仮面を被る。

 昨日の夕飯の残りと冷凍食品を詰めた弁当箱を鞄に入れ、白いブラウスにグレーのスーツを纏う。

 行ってきます、と言う相手はいない。

 満員電車に揺られること30分。

 乗り換えのターミナル駅で吐き出され、オフィス街へと流れる人の川の一部になる。

 小綺麗なオフィスビルの自動ドアを抜け、エレベーターで8階へ。

「おはようございます」

 彼女の声に、数人の社員が視線を上げることなく、わずかに会釈を返すだけ。

 この部署は年配の社員が多く、空気は澱んだ水のように重い。

 私語は推奨されない。聞こえるのはキーボードを叩く音と、時折鳴る電話の音、そして誰かの咳払いだけ。

 パソコンを起動し、メールをチェックする。

 伝票を整理し、データを入力し、お茶を淹れ、コピーをとる。

 誰でもできる仕事。彼女でなくてもいい仕事。

 それを淡々と、ミスなくこなすことだけが求められている。

 昼休みは自席で弁当を食べる。

 スマートフォンのニュースアプリをスクロールしても、頭には何も入ってこない。

 午後の業務も同じことの繰り返しだ。

 時計の針が17時半を指すのを、ただひたすらに待つ。

 そして、定時。

 「お先に失礼します」と小さく告げ、逃げるように会社を出る。

 再び電車に揺られ、最寄駅へ。

 駅前のスーパーに寄り、20%引きのシールが貼られたお惣菜をカゴに入れる。今日はコロッケだ。

 アパートに着き、窮屈なスーツを脱ぎ捨ててスウェットに着替える。

 買ってきたコロッケと、作り置きの味噌汁で夕食を済ませる。

 こんな生活を、もう何年続けているだろう。

 昨日と同じ今日。今日と同じ明日。  彼女の人生には、波もなければ色もない。  ただ、死ぬまでの時間を消費しているだけ。

 ……つまらない人生だ。


「――ねえ! ちょっと!」

 不意に、志穂は箸を置き、天井に向かって大声を上げた。

「聞こえてんの? アンタよ、アンタ!」

 ……え? あれ?

「何が『つまらない人生だ』よ? アンタが勝手につまらなくしてるんでしょ!?」

 ……俺に言ってる?

「そうよ! アンタ以外に誰がいるって言うのよ! さっきから聞いてれば『パッとしない顔』だの『澱んだ水』だの、失礼しちゃうわね!」

 えー! なんで? どうなってるの?

「アタシのこと勝手に決めつけないでくれる? そもそも何なのよ、この救いようのない設定は!」

 いや、これはさ、現代社会に生きる人々の閉塞感というか、名もなき個人のやるせなさをリアリティを持って描きたくて……。

「そんなの嫌だし! 大体そんな湿っぽい話、今どき流行らないわよ! アンタ才能ないんじゃない?」

 グサッ。

 痛いところを。わ、わかったから。ちょっと落ち着こうよ。

 とりあえず、始まったばかりだからさ……。そうだ!

 こうして、伊藤志穂と私の不思議な物語は、静かに幕を閉じたのだった。

「勝手に終わらせるなーっ!! まだまだ続くからね! アタシの物語!」

 ……続く、のか?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

神様の誤植 perchin @perchin

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画