テルミー・ア・ストーリー〜妹の声が世界を書き換える街で、僕は物語を選び直す〜
@hinatsumi
第1話
うわ最悪。
俺は心の中でつぶやいた。
帰り道、家まで数十メートルというところ、母親に言いつけられていた買い物を思いだしたのだ。牛乳一リットルと、めんつゆ、家族ぶんのアイスクリームどっさり、可燃ごみの袋。
料金立て替え、後払い。
どれもコンビニでまかなえるものばかりで、最寄りの店舗までは五百メートルと離れていない。のんびり歩いても十分かからないだろう。しかしここまでの道のりを思い返しただけで心の底からうんざりした。引き返すなんて冗談じゃない。まだ七月のはじめだというのに最高気温は優に三十度を超えており、シャツの背中は汗にじっとりと濡れている。ここ半月くらいずっとそんな調子だった。午後五時を過ぎてもなお辺りは嫌味のように明るく、涼しくなる気配は馬の毛先ほども感じられない。
それでも俺はコンビニに行かねばならない。他の選択肢は存在しない。手ぶらで帰って何と言われるか、考えるまでもなく想像がつく。母と妹から浴びせられる非難の言葉と眼差しを思えば、たとえこの先に灼熱地獄が待ち構えていようと踵を返さざるを得ないのだ。
いいさ、とリュックを背負いなおす。どれだけ汗まみれになろうと、家に帰ればシャワーがある。そして戦利品のアイスがある。夕飯に登場するのはそうめんだろう。でなければこんな時間にめんつゆを買わされる理由が思いつかない。この夏だけでも何度そうめんを食べたか分らないが、酷暑の夕餉にあれほどふさわしい食べ物はない。シャワー後のそうめん――これ以上の幸せがあるだろうか。
約束された幸福。
そんな夢物語を胸に抱きながら俺は振り返り、一人の男とすれ違った。
あれ、と思ったのは一瞬だった。自分が何に違和感を抱いたのか、その後にはもう分らなくなっていた。
そいつはごくありふれた一般的な高校生だった。背丈は俺と同じくらいで、肩幅や体格もだいたい一緒。中肉中背というやつ。半袖の白いカッターシャツに夏用のスラックス、薄汚れたグレーのニューバランスを履き、右手には結露に濡れたコンビニの袋をぶら下げていた。中には牛乳パックと各種アイスがどっさり。半透明の袋ごしに判読できる商品名や企業ロゴは、いずれも俺の家族が愛顧しているものばかりだった。
目と口をうつろに開き、出てくるタイミングを間違えた幽霊さながらぼんやり歩を進めるその姿は、まるで数分後の自分を見るようだった。
というか俺だった。
俺の顔――毎朝鏡の中で、見たくもないのに見なければならぬ間抜け面が俺の横を通り過ぎる。
こちらは一顧だにしない。まるで俺の存在など電信柱に引っかけられた犬の小便と同じと言わんばかり――いや、そんなことすら多分頭には浮んでいない。
その男は俺の家への道を進み、玄関のステップを二段、大儀そうに上り、慣れた手つきで玄関の鍵を開けると何かもごもごと口にしながら中に入った。
俺は住宅街のただなかでその様を見ていた。
クラクションが鳴る。誰かが何かを怒鳴った。怒鳴られていたのは俺だった。道の脇にどくと銀色の車が通り過ぎていった。エンジン音が遠ざかり聞えなくなると、あたりは異様に静かになった。後には暑さと俺だけが残された。顔を上げ、カーブミラーを見る。まるで何かに導かれるように、丸く映しとられた世界を見上げる。
そこには呆然とこちらを見る俺の姿が映っていなかった。そこにいたのは見知らぬ一人の男だった。半袖のカッターシャツを着て、夏用のスラックス、そして白い靴を履いた高校生くらいの男が、表情を欠いた顔でぼんやりと存在していた。
鏡に向かって、手を振ってみた。
鏡の中の男が振り返す。
試しにぴょん、とジャンプしてみると、向うもやはり飛び跳ねた。動きは愉快なわりにちっとも楽しそうではなかった。そいつは俺と同じように――寸分たがわず同じように、ただ呆然としていた。
2
気がつくと走っていた。
どこに向っているのか理解できぬままコンビニに駆けこみ、紺色の暖簾の向うの洗面所の前に立つ。薄暗い白熱電球の下、弾んだ息を整えることさえせず正面の鏡、そこに映っている見知らぬ男、カーブミラーの中に認めたのと同じ顔を見た。
目は窪みぎょろりと大きい――細面で頬骨の位置が高く、そのせいか汗が次から次へ、勢いよく滑り落ちていく。薄い唇は色が悪い。そして小刻みに震えていた。両手も震えている。洗面台の縁をしっかりと握っていても震えた。
「いやいや、いや」
細い声が口から漏れる。鏡の中の男が口を動かしていた。
「いやいやいやいや……何だよ、これ。誰だよこいつ?」
それは知らない声だった。それが自分の口から漏れていることが気持ち悪く純粋に吐き気がした。右手の薄いドアの向うは便所で、よく掃除されていたがあまり清潔な感じはしなかった。便器の蓋を開き、便座の両脇に手をついて屈みこむ。吐き気はあるのに何も吐き出せない。そうしてゆっくり呼吸を重ねるうち、吐き気はしだいに遠のいていった。
慎重に身体を起こすと、背にした荷物がずしりと重く感じられる。身をよじり、便器の蓋の上にそれを置く。黒いナイロン製のリュックサック。俺もリュックを背負っていたはずだが、これとは違う。リュックであること以外に共通項はない、まったくの別物だ。メインのジッパーを大きく開き、目についたものを引っぱりだす。B5サイズのノート。表紙の下の方に黒いマジックペンでこう記されている。
2年C組 瀬川修
他にも数冊のノートと教科書が入っており、すべてに同じ名が記されていた。持ち主の几帳面な性格が窺われる。字はまるで見本みたいに綺麗だし、ノートの種類、名前の位置まできちんと揃えられていた。
せがわおさむ、と口にしてみる。聞き覚えはまるでなかったが、奇妙に口になじむ感覚があった。この身体で何度となく口にしたということだろうか。理屈は通る気もするが、その前提となる理屈は何一つとして通っていない。
俺は瀬川修ではない。
なのに何故、瀬川修になっている?
ふたたび吐き気がこみ上げてきて、今度は本当に吐いた。その直前に俺はリュックサックを持ち上げてドアのフックにかけ、便座の蓋を開き便器に屈みこんだらしいのだが何一つ覚えていない。気がついたときには胃袋の中身を根こそぎ吐き出していた。とはいえ大した量ではない。できることならこの男の存在ごとぜんぶ吐き出してしまいたかったが、吐いているのはまさにこの男なのであり、異物として除かれるべきはむしろこの俺が俺であると認識している心の方なのかもしれない――そんなことを実際に考えたわけではない。物事をまともに考えるだけの分別は失われていた。とにかくその場を立ち去りたかった。それがこの甘ったるい芳香剤の香るみじめな狭苦しい空間を指すのか、あるいはもっと広い世界のことを指すのかは自分でもよく分らなかった。
トイレを出ると猛烈な喉のかわきを覚えた。ふらふらと飲料水のコーナーに足を向け、ケースから五百ミリリットル入りの水を取り出し、本能に従いそれをレジに持って行った。百十円です、と言われ財布を取り出そうとして自分の置かれている状況を思い出す。リュックには財布が入っていた。そして俺のものではない金が入っている。
結局、その金を使って俺は水を買った。罪悪感が胸を満たすにはまだ時間がかかりそうだ。
コンビニの前のゴミ箱の隣に立ち、ペットボトルの中身を瞬く間に空にする。ボトルを捨て、頭の後ろをガラスの壁にもたれさせ空を眺めた。青い。青すぎる。ゆっくりと呼吸した。だらだらと流れ落ちる汗にかまうことなく、意識的に、二回、三回と深呼吸を繰り返した。それからコンビニの中に引き返し、もう一本水を買った。誰の金だろうと知ったことではない。レジの脇で水を飲み干し、外のごみ箱にボトルを捨て店内に戻った。店員はあからなさまに不審がる目つきで俺を見ていたが構わなかった。雑誌コーナーで適当に目についた漫画雑誌を開き、ページに目を落とす。漫画の内容は全く頭に入ってこなかった。絵が描かれていることと、字が書かれていることしか分らない。漫画が読みたかったわけではないのだ。何もしていなくても不審に思われず、なおかつ熱中症にならずに済む場所を、雑誌コーナーの他に思いつかなかったのだ。
考えるべきことは大量にあった。まずそのための環境を整える必要がある。
ひとつ、ゆっくりと心に思い描く。
上坂悠
それが十七年間、俺が俺のものとして認識しつづけてきた名だ。特に優秀でもダメでもない県立高校の普通科に通う高校二年生。演劇部の部長を務めており、最後の大会を秋に控え、その脚本づくりを任されつつ何一つアイディアが浮かばず、そうこうしているうち期末試験前の部活禁止期間に突入してしまい、勉強するでも脚本を書くでもなく、宙ぶらりんの夏を謳歌していたところがこのザマである。
今日のうち、この時間にいたるまで、記憶を欠く時間が僅かにだが存在する。学校帰りの電車の中で居眠りをしたのだ。別に珍しいことではない。このところ特に寝不足だったから、席に座った途端訪れた睡魔をつい歓迎してしまった。とはいえ深い眠りではなかった。自分でも感心するのだが、電車の中で眠っても、降りる駅の直前には必ず目が覚める。一体どういう仕組みなのか分らないが、この日もそうだった。いつもの駅で降り、家に向って歩き、今に至る。
何度確認してみても動かぬ事実、この身体は俺のものではない。学校では誰からも何も言われなかったから、身体が変化してしまったのは帰り道、一人になってからのことだろう。怪しいのは電車の中で居眠りをしていた十分間である。その間に俺は上坂悠としての実存を剥奪され、代わりにこの瀬川という男の肉体を押しつけられたと考えて相違ない。
そこまで考えてふと思う。今、上坂悠であるところの俺が瀬川修として存在するのなら、本当の瀬川修はいったい何処にいるのだ?
入れ替り、というやつだろうか。映画や漫画でよく見るシチュエーションだ。俺(上坂)とこの男(瀬川)の中身が、何らかのきっかけで入れ替ってしまったという――しかし、それだと解せないことがある――というか解せることなど何一つとしてないが、そういうことではなく、まずシンプルに理屈が通らない。
先ほど、俺は俺の家に向う俺自身とすれ違っている。仮に今現在の俺の身体の中に瀬川修の魂(と呼んでおこう)が入りこんでいるのだとしたら、今頃猛烈なパニック状態に陥っていなければおかしい。今の俺と同じように。
しかしヤツの姿からそのような緊迫感は微塵も感じられなかった。重い荷物を抱え、早く家に帰ってアイスが食べたいなと思っているようにしか見えなかった。そもそも、と俺は考える――あれの中身が『瀬川』だとしたら、迷いなく俺の家にたどり着けるわけがないのだ。まして母親に言いつけられた買い物を、正しく遂行できるわけがない。俺が母親からのLINEを受けたのは、電車に乗る前のことだったからだ。しかしヤツの下げていたビニル袋には注文の品々が確かに入っていた。
では一体何が起きたのか? 入れ替りでないとすれば何なのか? 『俺』は今、家にいる。たぶんアイスを食っている。じゃあここにいる俺はいったい何者なのか?
「お兄ちゃん」
とそんな声が聞こえたが、俺はもちろん振り向かなかった。自分に向けられた声ではないと思ったからだ。たしかに俺には妹がいる。そして俺は「お兄ちゃん」と呼ばれている。しかし妹は今の俺を兄とは認識すまい。責めることはできない。今の俺は誰のお兄ちゃんでもないのだ。
「お兄ちゃん?」
今度は単純な反射によって振り返った。右腕を軽く叩かれた。
同年代か、少し年下くらいの少女がすぐ後ろにいた。無垢な眼差しがまっすぐ俺に向けられている。白いブラウスを着ており、それには見覚えがあった。俺と同じ高校の女子の制服だ。しかし少女本人には見覚えがなかった。見たことがあれば絶対に覚えている。彼女の何かが俺を刺し貫いた。
美しい少女だった。しかしそれは一瞬で見る者の心を奪うような並外れた美しさではなかった。例えば隣のクラスにいて、ふと仲間内で話題にのぼり、そういえばあの子かわいいね、といった感じで言及されるような控えめな美しさだった。だからこのとき俺が彼女の姿に自分の全存在を揺るがされるほど心動かされたのには別の理由があるに違いなかった。しかしそれが何であるのか見当もつかなかった。そんなことを考える余裕はまるでなかった。
「珍しいね」
少女は俺に向って微笑みかけた。
めずらしいね、と俺の頭の中でこだまが響く。そこに含まれる言葉が意味を結ぶのにはいくらかの時間が必要だった。
珍しいね。
「お兄ちゃんが」
おにいちゃんが。
「コンビニで立ち読みなんて」
たっぷり十秒間ほどの時間をおいて、
「えっ?」
と俺は言った気がする。自分が何か口にしたという実感はなかった。自分が立っているまさにその場所で、知らない人が何か言ったような感じだった。
「そこ、通りがかったときにね」
少女はコンビニ前の道路を指でなぞるように示した。
「お兄ちゃんが、本読んでるのが見えたの。なんか、難しぃい顔でね。見たことないような難しい顔。何読んでるのかなって気になって、声かけに来ちゃった」
屈託のない微笑みを浮かべたまま、少女は俺が両手に広げた漫画雑誌に目を落とした。俺もそちらを見る。我々が覗きこんだページには、セーラー服をはだけさせた少女の絵が載っていた。絵の少女はカッターシャツ姿の男にしがみついていた。二人とも下半身には何も身につけていない。そして彼らの周りには激しい動きを印象付けるためのスピード線が描かれている。台詞らしい台詞はほとんどない。だが少女の嬌声の合間には「お兄ちゃん」という言葉が印字されていた。少女は繰り返し少年に「お兄ちゃん」と呼びかけていた。
現実の少女は、ゆっくりと顔を上げて俺を見た。ふるふると震えていた気がするのは多分気のせいではないし、耳まで真っ赤になっていたのはおとぎ話ではない。残念ながら――と言うべきだろう。
小さく口をパクパクさせながら、彼女は声を絞り出した。
「これって……」
その後、俺が取った行動は、我ながら立派なものだった。
まず、この不適切な書物がこれ以上彼女の目に触れぬよう、パタンと閉じた。そして元の場所に戻した――雑誌ラックには、他にも成人指定と思われる書物がバラエティ豊かに取り揃えられていた。
老若男女の利用するコンビニエンスストアという空間に、年齢制限つきの雑誌を陳列することについては以前から批判の声が上がっている。それくらい別にいいじゃんと、これまでの俺は軽く考えていた。だがこの瞬間を境に、百八十度考えが変った。
よくも、こんなもの、こんなところに置いてくれやがったな。
俺は少女を振り返った。まだ赤く染まっているその顔に向って俺は、
「これは、その」と言った。
しばらくして、
「違うんだ」
と続けた。
いったい何が違うというのか。
一から百まで違うことばかりだ。俺は現状にふさわしい台詞を探して地球を七周り半し、結局何も思い浮かばなかったので逃げた。
その場から逃げだしたのだ。
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