第4話|夜、異世界は屋上にあった

沙羅が異世界の話をしなくなった日。


俺は、少しだけ安心してしまった。


朝の教室。


隣の席で、沙羅は普通にノートを開いている。


魔法陣の落書きもない。


異世界地図も描いていない。


制服も、ちゃんと着ている。



――今日は、平和だ。


「おはよ、ぐぐるん」

「お、おう。おはよう」


変身宣言もない。


役職説明もない。


俺は拍子抜けしつつ、胸の奥が少し軽くなるのを感じていた。


昼休みになっても、異変は起きなかった。


「今日の弁当、唐揚げなんだ」


沙羅は、普通にそう言って、普通に弁当箱を開ける。

「普通」という言葉が、こんなに安心材料になるとは思わなかった。


クラスの中央では、相変わらずクラスLINEの話題が飛び交っている。


「それ、グルラに流した?」


「スタンプやばかったよね」



俺は聞こえないふりをして、箸を動かす。


沙羅は、そちらを一切見ない。


「なぁ、沙羅」


思わず声をかける。


「最近、異世界行かないのか」


言ってから、少し後悔した。

わざわざ蒸し返すことでもない。



「ん?」


沙羅は、唐揚げを頬張りながら首をかしげる。


「今は、準備期間」


嫌な単語が出た。


「……何の」

「次の世界の」


やっぱりか。


でも、声のトーンは軽い。


いつもみたいな高揚感もない。


「ぐぐるん」


唐揚げを飲み込んでから、沙羅はぽつりと言った。


「ここってさ」


箸が止まる。


「私の世界じゃない気がするんだよね」



一瞬、教室の音が遠のいた。

笑って言えば、いつもの沙羅だ。


でも、今のは違う。


「……どういう意味だ」


「そのまま」


沙羅は、窓の外を見る。


「別に、嫌なことされたわけじゃないよ」


それが、余計に重い。


「でもさ、ここで頑張っても、私が私になる感じ、しなくない?」


俺は、何も言えなかった。

否定も、肯定も、どちらも間違っている気がした。



「ぐぐるんはさ」


沙羅が、こちらを見る。



「この世界、好き?」


答えは、決まっている。



「……嫌いじゃない」


正確には、好きになろうとしている、だ。


クラスLINEに入りたい。


普通に笑って話したい。


放課後に誘われたい。


全部、ここにあるものだ。



「そっか」


沙羅は、それ以上何も言わなかった。


放課後。


沙羅は、まっすぐ帰ると言った。


異世界の準備も、儀式の話も、一切なし。


俺は、少しだけ肩の力を抜いた。



――もしかして、落ち着いてきたのかもしれない。


そんな都合のいい期待が、頭をよぎる。


でも。


その日の夜。


スマホを何度見ても、沙羅からのメッセージは来なかった。


既読も、未読もつかない。


嫌な予感が、胸の奥で静かに形を取る。


俺はまだ、この時点では知らなかった。


この「静けさ」が。


今までで一番、危険な兆候だったことを。

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